緊張は不可
さて、意識を通して物を見るためにはまず意識というものをはっきりと認識する必要があります。意識というのは人間の体のあらゆる部分を生かしている生命・パワー・英知といったものをひっくるめたものだと思っていただいて間違いないと思います。それを認識してしまうというわけです。
認識というのは哲学用語ですが、一般的に言えば悟るということです。この認識の度合いが人によって異なるわけですが、認識を深める練習と称して滝に打たれたり、はだしで焼けた火ばしの上を歩いたりする人がいますが、そういう異常な鍛練法というのはよくないです。それよりはごく自然のままの生活をして、決して無理をしないで休も心もリラックスするようにしていたはうが本当に宇宙的なフィーリングが起きるはずです。滝に打たれて(なかには冬に氷のように冷たい水に打たれる人もあるそうですが)、その苦しい状態を我慢しながら宇宙的な能力を発揮しようとしてもダメですね。その方方法で一時的こ一種の超能力が出てきたとしても、それは本物ではないと思います。逆に金星や土星のように、満ち足りた生活を送ることができればストレスや緊張や恐怖や心配というものがなくなりますから、そうすれば自然に内部の宇宙的な能力が出てくるのだと思います。
しかし今の私たちが金星人のように何もかも満ち足りた生活をするというのは今のところ大変困難ですね。物質的にも困難ですが、精神的にもかなり難しいでしょう。
私たちは食べて生きていくためにお金を必要とする世界に生きています。そのお金を得るために超満員の電車に揺られて働きに行かなければならないこともあるでしょう。特に東京の電車の込みかたはひどいものでして、体の骨がバラバラになりそうなほど押しつけられてひどい目に合います。やっとそこから解赦されて会社へ着きますが、そこでは会社員かごの鳥です。朝9時から夕方5時までは全く会社の外へ出ることもできず、くたびれたからといって仕事中に散歩に出たりすれば変な目で見られるでしょうし、これを2回ぐらいやれば完全にクピになります。もちろんそんなことをする人はいないでしょうが、とにかくそういうふうに閉じ込められて、毎日与えられたノルマを果たさなければなりませんからどうしても緊張感が生じます。ですから精神的に自由になるというのもなかなか難しいことです。
しかし不可能ではありません。物質的にどんなに束縛されていても精神的に完ペきな状態、つまり大安心(だいあんじん)の境地に至ることはできるはずです。そうなれば本当の超能力が出てくると思います。
心のスクリーンで受信
それから134ページの「印象の受信の仕方」というところには「一時に感受する印象または映像は、ある事柄のほんの一部にすぎないことを常に記憶することが肝要です」とあります。これはどういうことかといいますと、時々何かの光景が見えたり、何かを暗示しているような記号のようなものが見えたりすることがありますが、それはあくまでも断片的なものであるということです。ですから疑惑を起こさずに、そういう印象類を克明に記録しておけば、あとからそれをつなぎ合わせてみたときに、実は未来のことを予知していたり、あるいは遠方の何かを透視していたということがわかるはずです。
話は変わりますが、今、日本GAP会員のなかにすごい透視能力を持った人が1人います。今は名前は言えませんが、やはりいろいろな光景が見えるそうです。例えば、以前からどこか地球ではないような光景が見えていたそうですが、あとでアダムスキーの本を読んだとき、自分の見ていた光景が金星の光景の描写とそっくりだったのでピックリしたということです。つまり金星の光景を透視していたのですね。これはこの人が金星から転生してきた方で、その記憶が強烈に残っているからそういう透視現象がしばしば起こるのだろうと思います。
それから135ページの2行目から「ある場合には印象は静かな小さな声のようにやって来ることがあります。するとあなたはだれかが自分に話しかけているのだと思うでしょうが、それはあなたの意識が言葉でもって物事を説明しているのです。またときにはどのように表現してよいかわからないような印象も来ることもあります。しかし遠方の光景を透視する場合は−特にそれがカラーであるとき−それはあなたの頭の中にある心のスクリーン上に意識によってピントが合わされます。これは少なくとも私の体験ですとこのことをよく知らないでこうした現象を「第3の目」とか「千里眼」とか称している人は、なぜ透視できるかという理由がこれでわかると思います」とあります。
そしてその次に「仏像類に前額部に宝石のはめてあるのがありますが、これは透視力を示すもので、その一点と両眼とを結べば三角形ができます。イエスはこれを『目が澄んでいれば全身も明るいだろう』といっています」とありますが、確かに仏像類には額のところに宝石のはめてあるのがあります。これはどういうことかといいますと、古代インドの哲人たちは古代のヨガによって透視力を開発していたようなのです。そして最終的には「心のスクリーン上に意識によってピントが合わされる」ように訓練したのですが、そのことを仏像の額に宝石をはめることによって象徴したようです。
それでは実際にどこかピントの合うところがあるのかといいますと、超能力研究界では頭の奥にある松異体(しょうかたい〉という小さな部分がそれであり、その松異体がどうやら超能力を発揮する上で重要な役割を果たしているのではないかと言われています。それを活性化させるとテレパシーや透視の能カが出てくるのではないかということです。
例えばピーター・フルコスというオランダの有名な大超能力者がいますが、この人は最初は超能力も何もなかったのだそうです。ところがある日、部屋の窓から落ちて頭を打って、それから突然そういう超能力が出てきたというようなことでしたね。しかしだからといって私たちがカナヅチで自分の頭をたたいたとしても(一同笑)超能力が出るかどうかは保証できませんからね。逆にコロツと死んでしまいかねませんからやらないほうが良いでしょう。
ほかにも額にラピスラズリという宝石をはめると効果があるという説もあるようですが、しかし私たちはそういう物理的なショックに頼らないで「自分は心に振り回されて生きているのではなく、体内こ充満している大宇宙の意識という偉大なパワーと自分の心が本当にミックスされて生きているのだ」というようなフィーリングを高めることが根本的に重要だと思います。
アダムスキーはイエスを透視した
ところでさっきの「心のスクリーン上に意識によつてピントが合わされる」という説明のあとで「これは少なくとも私の体験です」(p135、6行目)とアダムスキーは言っていますが、ということはアダムスキーは過去の透視ができたようですね。事実、アダムスキーは2000年前のイエスの姿を透視して油絵をかいています。四角い窓の中にイエスの姿が見えたのでそのとおりにかいたのだそうです。この絵はメキシコ市に住んでおられたマリア・クリステイーナ・デ・ルェダ天人という、アダムスキーの愛弟子であった方がお持ちでしたが、私は1977年のGAP海外研修旅行でメキシコを訪れた際に前もって連絡しておいてマリア夫人のお宅を尋ねまして、そのときにこの絵を見せてもらいました。マリア夫人がメキシコGAPのリーダーでしたので、私は長年文通していましたが、1度もお会いしたことはありませんでしたので被女のことを普通の庶民階級の主婦ぐらいであろうと思っていました。ところが約束通りホテルで待っておりますと、マリア天人のだんなさんが黒塗りの高級車で迎えに来られたものですから驚いてしまいました。そうして車で案内されたわけですが、門の前で降りて再び驚きました。門から玄関まで100メートルもあるような大邸宅なのです。
マリア夫人はそこの奥方であるわけです。門から玄関までは歩いて行ったのですが、途中にはボタンのたくさんついた制服を着たボーイが立っていて最敬礼してきます。その前を通るわけですが、気持ちがいいですねえ(笑〉。 そして玄関を通って中に入りますと、また驚いたことにはその大広間がこの月例会全廃(東京文化会館・大会議室)より広いのです。そこには立派ならせん階段がありまして、それを上りますと2階にはいくつものドアが並んでいます。1階の大広間のまわりにも大きな応接間がたくさんあって、どこが何の部屋なのかさっばり見当もつきません。
そのなかのある部屋へ案内されてご家族の方々と話をしていたのですが、私はあの絵が見たくてしようがないものですからおもむろにその話を出してみましたところ、見せてもらえることになりました。その絵が飾ってあったのは2階の特別室でした。この部屋にはごく特殊な人しか入れないようにしているそうですが、私もその時殊な人に選ばれたのかなと思うと大変感動しました。
絵は部屋の奥の壁にかけてありました。等身大で描いてあるらしく、かなり大きな肖像画でしたね。私は許可をもらってこの絵の写真を何枚かカラーで振りました。これは古いニューズレター(第62号)の表紙に白黒で載せたことがありますからご記憶の方もあると思います。でもあれはやはりカラーで見ないとダメですね。本当はきょう、カラーで撮った写真を持ってきて後ろに展示しようと思っていたのですが、急いで出てきたので忘れてしまいました。来月の月例会には持ってきましょう。ただしあの絵の実物のほうは、一昨年〈1980年〉の始めごろにマリア夫人がご病気でなくなられたときに、遺言によって棺の中に一緒に入れられて焼かれてしまったそうですから、今はもうありません。実に残念なことをしましたね。しかしご本人にとっては最高の死に方だつたろうと思います。ですから今となっては日本人であの絵を見たのは私だけかもしれません、決して自慢するわけではありませんが‥‥。
ところであの絵を見た限りでは、イエスという人は堂々たる体格をしていますね。でっぶり肥えて、ヒゲもうんと伸ばしています。ニューズレター79号にも書きましたが、身長は1メートル76センチぐらい、体重は80キロぐらいだと思います。私によく似てますね、体つきだけは(笑)。ですから教会芸術などに見られるような、やせて弱々しい男ではなかったと思います。
テレパシー練習の実際
それから137ページに行きますと「基本的な訓練法」というところで簡単にテレパシーの訓練法が述べてあります。「まずあなたのセンスマインド〈心)をリラックス(ゆったり)させること。これはセンスマインドがそれ自身(センスマインド自身)にたいする関心を捨ててしまう場合にのみ達成できます。たとえば一人の少年が野球に熱中しているとします。ところが野球以外の物事を学ばうとすれば、本人は野球にたいする関心をセンスマインドから完全に追い出して、新しい物事に全注意力を集中させねばなりません。これと同様です」ということです。これは電話に例えてもいいですね。電話というのはご存知の通り、相手が話しているときにはこちらでは黙つてジッと聞いていなければなりませんが、それと同じように内部からわき起こる印象をキャッチしようと思うのならばあれこれと考えることをやめなければなりません。
そして透視の場合は「人によっては肉眼を開いたままでこれを行うのは困難かもしれません。目に見える物に注意力を乱されるからです。ですからやってくる印象類や光景(映像)に完全な注意力を集中するには、目を閉じるのがよいでしょう。しかし最初は一時に5分間ないし10分間程度にとどめるべきです。始めから多くを得ようと思ってはいけません」ということです。ここにありますように、目を閉じるのもいいですが、遠隔透視の揚合は目を開けて、壁にはりつけた白い紙をジッと見つめるのも良いです。ほかに水晶玉を見る方怯もありますが、あれは自分の顔やまわりの光景などが表面に映り込んだりしますから具合が悪いですね。水晶玉というのはよほど進歩した人じゃないとなかなか扱いにくいものです。
それから次に「両手を見つめる練習」とありますが、これはなかなか面白い方法です。「テーブルに向かってすわり、その上に自分の両手を置いて、目を開いたまま両手をジッと見つめて手に注意力を集中します。すると、手がいかなる意義を持つか、また自分の生活でいかに貴重な物であるかということが次第にわかり始めます。手というものの重要性について十分な印象を得た後、目を閉じて、今度はどんな印象が来るか待ってごらんなさい」。そうすると「レントゲンで透視する以上に、手の構造や、いかなる機械装置でも示し得ないほどのエネルギーの運動などを見ることができます。これは手ばかりでなく、知りたければ人体のいかなる部分にも応用できるのです」とあります。ですからすごく発達した人ならば恐らく自分の手を見て血液の流れなども見えるでしょうね。ただしこの方法で注意しなければならないのは、自分の手を見て「もしこの事が切り落とされたら大変なことになるぞ」というような恐怖心を絶対に起こしてはいけないということです。恐怖心を起こしますとそのイメージによっていつか本当に何かの事故で手が切断されるようなことにならないとも限りません。ですからこの方法で練習するときには「この事があるから自分はこうして人間としてまともな生活ができるんだ。本当にありがたい」というように、感謝の気持ちを持って自分の手を見つめることが大切です。
あるいは鏡に自分の顔を映してそれを見てみるのもいいです。これは透視の練習というよりも、人間の顔の重要性を認識する意味で良い方法といえます。鏡に映った自分の顔をしばらく見ていますと、それがいかに貧相な顔であるかということに気づきます。そしてもっとうららかな顔つきにならなければいけないということがわかってきます。それがわかるだけでも大きな収穫ですね。
このような練習によって私たちは「宇宙空間へ心を拡大することができる」〈p138、1桁目〉のだということです。そして「あなたが不可視の空間に関心を持てば持つはど、ますます意識は肉眼が見ない物の印象をあなたの心に与えることになります」とあります。それはそうでしょう。宇宙の意識というのは宇宙空間のあらゆるものに充満しているものですから、人間のみならず、万物に分離はないはずです。だとすればこの宇宙のなかでわからないことは何もないということになります。
だからこそここで「そして両手について練習したのと同様に、宇宙の活動やまだ発生していない事件の”予報”などが出来るでしょう」−すなわち未来予知もできると言っているわけです。過去の透視ができるのなら当然未来透視・未来予知もできるはずです。なぜならば過去も現在も未来も分離されたものではなく、すべては一つのものであるからです。
予言書はデタラメ
ところで最近、今世紀末に大変なことが起こるというようなことが書かれた”予言書”類がずいぶん売れているようです。あるいは他人の予言に従って行動したところ、当たらなかつたので予言者を恨んだりしたということもあるようです。そういうのはすべて自分の心が現象の世界に振り回されているから起こったことでしょう。しかし私たちが本当に考ぇなければならないのは、自分自身を開発して、自分の内部の印象に従って行動することです。その結果が間違っていたとしてもそれは自分の責任ですから、だれを恨む必要もありません。そうすれば他人とのトラブルも起こらないと思います。さて、そういう予言書のなかにはノストラダムスがどうのこうのという本が出回っていますが、はっきり言ってノストラダムスというのは単なる詩人です。それが普通の詩を書いたにすぎないのですが、どういうわけか後世の人たちが予言として解釈してしまったわけです。そしてその解釈も人によってまちまちで、例えば「天から大王が降って来る」というところの「大王」を、悪魔とする人もいれば、宇宙人だという人もいますし、あるいはえたいの知れないお化けだととる人もいます。
あるいはアダムスキーと宇宙人のコンタクト事件さえも、ある人たちに言わせればやはりノストラダムスの詩の中で予言されていたということになるそうですが、そんなことはないと思います。ノストラダムスがあの詩を書いたのは何百年も昔のことですが、そんな昔に1952年11月20日にアメリカのデザートセンターでアダムスキーとオーリンがコンタクトするなどということまで予言できるわけがありません。「1900年代の中ごろに何か重要な事件が起きるだろう」というくらいならば言えるでしょうが、日時までははっきり言えないはずです。
だいたい、何年何月何日に何が起きるというように、日時をはっきり打ち出した予言というのはまず当たらないと考えて間違いないでしょう。それからやたらと人間に恐怖を与えるような予言も間違いだと思います。こういうことはそういう本を出している出版社や著者に悪いと思って今まであまり言わないでいたのですが、とにかく今の世の中、本当の予言をする人はなかなかいませんね。
己の能力を磨け
そういうわけで、この世の中はいろいろな情報があふれていて、何が本当で何がウソなのかわかりません。そういうものに振り回されないためにもとにかく自分自身を確立することと、さきほども言いましたように自分の内部からわき起こる印象に従って行動することが大切になります。その上で「自分の内部の印象によればノストラダムスの詩は予言であり、しかも正しい」と信じるのであればそれはそれで良いと思います。
そのようにいわゆる超能力を身こつけることの重要性を私も非常に強く感じておりまして、今、しきりに練習しています。それについて最近痛切に感じることは、酒を飲んだらダメだということです。テレパシックになるということは全身を非常に宇宙的に敏感にさせるということですが、それなのに逆にアルコールで体をマヒさせるというのは良くありませんね。
といってもこれは私が毎日のように酒を飲んでいたという意味ではありません。以前からアルコールが体によくないと感じていましたから家ではほとんど飲まないようにして、せいぜい付き合いの時だけにしていました。そのときにしてもビールをコップに2、3杯程度にしたほうがいいですね。そのくらいならばアルコールを飲んだというほどのことでもないでしょうし、アダムスキーも言っていますように適度にやるのは構わないと思います。ポッとする程度に飲んで、家に帰るころにはだいたいさめているという程度が一番いいのではないかと思います。
ところが私はそういう中途半端な飲み方をすると朝まで全然眠れなくなってしまうのです。ですから今までは、飲むならとことん飲む、飲まないのなら1摘も飲まないというふうにしてきたのですが、最近は眠れないのならば眠れないなりに、その時間を透視の練習に使えばよいだろうと考えるようになりましたので、これからは多少たしなむ程度にしていこうと思います。
ところでテレパシーの練習はどのようにするのがいいだろうかという質問をときどき受けますが、なるべく人間同士で練習するのが一番いいでしょう。動物や植物とでも練習できますが、強い怒念を発するのはやっばり人間ですからね。そのようにしてみなさんも忍耐強く練習してみて下さい。必ずそれなりの効果は出て来ると思います。
以上で終わらせていただきます。どうもありがとうございました。
(1982年11月20日 東京文化会館にて)
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