ホーム ライブラリー レターズ ピクチャーズ ufo 掲示板 お問い合わせ リンク

GA Site -UFO Contactee-

articles

過去更新記事

 ├ 2009年度
 ├ 2008年度
 ├ 2007年度
 ├ 2006年度
 ├ 2005年度
 ├ 2004年度
 ├ 2003年度

最新更新記事

サイト内検索



GA Site内を

新アダムスキー全集

 ├ 写 真
中央アート出版社
TEL : 03-3561-7017
E-mail :info@chuoart.co.jp
  だれにもわかる「生命の科学」


 第5課 意識、英知及び生命力  第1部

みなさんこんにちは。本日も多数ご来場いただきまして大変ありがとうございました。
 きょうは第5課の「意識、英知及び生命力」というところですが、この原題は「Consciousness,The Intelligence and Power Of AllLife」となっています。この意識・英知・生命力というのは別々なものではなくて、普通はこれらを代表して意識と言っているのだろうと思います。

理解しやすい言葉にかえて

 「意識」という言葉は、普通は「生活意識実体調査」というときの「生活にたいするものの考え方」というような非常に崩れた意味に使われていることが多いものですから、「宇宙の意識」といってもどうもピンと来ないという方もいらっしゃると思います。その廃合はこれをCosmic Power(宇宙の力〉と言い換えてもいいでしょう。もちろん日本語で「宇宙のカ」あるいは「宇宙カ」と言っても構いませんが、英語のほうがちょっとハイカラな感じがしますし、アダムスキーがもともと英語を使う国の人ですから、それで私は英語で言っているのです。このCosmic PowerはCosmic Love(宇宙の愛)と言ってもいいでしょう。このように、自分の理解しやすい言葉で言い換えて、宇宙的フィーリングを高める練習をされてもよいと思います。

目的のある意志のカ

 それから61ページの3行目には「意識は形ある物とは別個な英知でありカであるからです。それは万物を生かしています」とあります。そして「意識は人間が分類しているような光や暗黒という振動を知つてはいません。また善や悪をも知ってはいません。善悪とは法則の誤用によって人類が分類したものにすぎないからです」とあります。これは第3課にもありましたように、電気を例に説明することができます。つまり家庭の電気器具を使う揚合に使用法を誤れば感電してやけどをしたりけがをしたりしますが、しかし電気を送っている発電所の人たちには何の責任もありません。やけどをしたりけがをしたのはあくまでも電気器具の使用法を誤った人間の過失にすぎません。それと同様に宇宙の意識は、人間が法則を誤用する、しないに関係なく、ただ人間を生かしているだけです。もちろんそれは、ショーペンハウェルが言ったような盲目的意志による生かし方ではなく、はっきりした目的つまり全体を限りなく進化させてしかも完全にならせて一体化させるという目的のために宇宙の英知・宇宙のカというものが満ちているのだと考えられます。

 これは星雲の発生と消滅を見てもはっきりわかります。あるいは人体なども良い例ですね。人体を見ると本当に驚くほど精妙にできており、実に素晴らしいものです。ですからこれらを作りあげている、目的のある意志のカというものがあるとしか考えられません。

 しかし一般にはそういうことが教えられていません。この間も書店で高校の生物の参考書を立ち読みしてみましたが、かなりの知識が盛り込んではありましたが、それはただ人体のどこにどんな器官があって、それがどんな働きをするのかということだけです。人体が神秘的なカによって構成されているということを生徒たちに感じさせ、畏怖の念を起こさせるような教育は全然やっていないようですね。実に残念なことだと思います。これは分析に頼る西洋流の教育法でしょうが、神秘的なカが人間の体に充満しているというフィーリングを起こさせるような教育をやるべきではないかと思います。

命あふれる海

 それから61ページの「海を見る訓練がよい」というところですが、私たちが意識をはっきりと感じるようになるための訓練法の一つに、海を見る方法があります。一般の人間は海を見ても水面しか見えないものですから、海というのは単なる水の広がりであって、ときどき波が起きているにすぎないという程度のことしか考えませんが、これではダメです。この広大な水のかたまりの底のはうには無数の生物が生きているわけですから、それを意識的に知覚するようにならなければいけないというわけです。そのように海の底のほうまで完全に自分の意識で知覚するような練習をやるならば、この広大な宇宙空間に無限の生命体が充満していることを自分で知覚するようになるということです。これが、宇宙に満ちる意識というものを知覚するためのひとつの方法だと言っているわけです。

 確かに海をながめるというのは素晴らしいことですね。私は20代前半を終戦直後の大混乱斯の中で過ごしましたが、そのころは何をやっていいかさっばり見当もつかず、ふぬけになったような状態で、何もやる気がしませんでした。しかし食わなければいけませんからヤミ屋のようなことをやってみたりしていましたが、そのころにしょっちゆう海へ行きました。そして一日中海をジーツとながめて暮らしたのです。たぶん何かを求めようとしていたのだろうと思いますね。その求めるものは宇宙的なものだったのでしょう。やがてアダムスキーの本にめぐり会うことになるわけです。とにかくその時斯が来るのを待っていたのだろうと思います。

もうひとつの世界

 それから62ページヘ行きますと、6行目から「人間も、同時に2つの異なる体験下で生きていることを知覚するようにならねばなりません。人間は三次元の地球上に住んでいながら、しかも四次元の中で生きているからです。地殻から上方の空に向かってわれわれが空間と呼んでいる不可視の四次元の世界があるからです」とあります。四次元というのは本来、数学的な言葉です。XYZの三つの軸にさらに時間軸というものをからませて四つの変数から構成される空間が本当の四次元です。しかしここでアダムスキーの言っている四次元というのはそういう数学的なものではなく、いわゆる形而上的な世界、つまり形を超えた世界のことです。

 古代ギリシャには、普通の人間が生きている三次元空間の世界とは違った、何か完ぺきな設計図のようなものがどこかにあり、それが地上に投影されてこの現象の世界ができているのだと考えた人がいました。それがプラトンです。ですから形而上学の始まりはプラトンということになります。それ以前のイオニア学派の哲人たちはまだそこまで考えていなかったと思います。そうしてプラトンの説いたイデア論というものがその形而上世界に関係してくるわけです。西洋哲学はそのイデア論を中心にして現代まで展開してきていますが、しかしどの哲学もプラトンを一歩も出るものではないとよく言われていますね。プラトンがみんな言ってしまったわけです。あるいは人間の考えるべきことをすべて考えてしまったわけですね。昔のギリシャというのは偉大な国で、例えば彫刻を見てもミロのビーナスなどという実に素晴らしい作品が二千数百年も昔に作られています。こういう完全な写実派の見事な彫刻作品が古代ギリシャ時代に作られてしまったものですから、その後の大理石彫刻などはそれを一歩も出るもので はないと言えるわけです。

 ともあれアダムスキーは、四次元世界というのを形而上の世界というような意味で言っていると思います。ですから「人間は三次元の地球上で住んでいながら、しかも四次元の中で生きている」ということは、人間を生かす何か目に見えない力の満ちた世界にもいるのだということです。すなわち同時に2つの世界に住んでいるということが言えます。このように考えないと私たちはもう救われないですね。自分たちはただ物質の現象の世界だけに生きているんだというふうに考えていたらもう絶対に救われません。悲しみに満ちるだけです。

 この四次元世界というのは一種の設計図の世界だと言えます。そして人間の想念がこれに関係あるようです。つまり人間が善き想念を起こすと四次元世界でも善き設計図が描かれて、それが現象の世界に展開されるということになるのでしょう。あるいは62ページの13行目に「人間の苦悩は四択元世界で始まります」とあるように、四次元世界で人間の苦しみが描かれてしまえばそれが現象の世界に投影されて本当の苦しみを持つようになるというわけです。ですから四択元世界というのは原因の世界とも言えます。

 ところが人間は「原因であるところの不可視の四次元世界があまりに大きく相違するために、長いあいだ三次元世界で教えられたように四次元世界を理解するのは困難になつています」(p63、1行目)ということです。物理科学が進歩するのは大変よいことですが、しかしそれによってこうした形而上的な世界を考える力が次第に失われていくという面も確かにあるようですね。これは大変残念なことです。

意識の声を聴け

 64ページの「意識は心に印象を伝える」という小見出しのところでは「四次元における意識はわれわれが知っているような音響を生じません」とあります。つまり声を出さないというわけです。「その伝達の方法は印象というかたちで与えられる感覚的知覚によるのです。それゆえ現在人間の中で分割されているものをさ結合するためには、心は喜んで意識から教わらねばなりません。忘れてならないのは、意識は生命を可能ならしめる、万物の魂であるということです」。 ですから結局心というものがいかにいい加減なものであるかということをまず知り、そしてその心に頼るのではなく、内部からわき起こる印象、特に意識から来る印象に目を向けて、それを重視する必要があるということをアダムスキーがイヤというほど言っているわけです。これが本当のテレパシーです。口で言うのは簡単ですが、実際に印象を感じ頬るのは容易なことではないでしょう。

 テレパシーといえば、少し空腹ぎみの状態のほうがテレパシツクな印象が起きやすいようですね。もっとも私はもともと小食で、書から朝食は食べられませんでした。ですから人が毎日三度食事するのを不思議だなと思ったほどです。それならばやせたままでおりそうなものですが、若いころに飲むほうをちょつと飲み過ぎまして、そのためかどうか腹がだんだん出てきてアンバランスな状態になってしまったわけです。それで、こんなに腹が出ているものですから、さぞ大メシを食らっているんだろうとお考ぇかもしれませんが、今でも朝食は食ペませんし、だいたいに小食です。11持ごろに厚さ1センチぐらいのトーストを2枚とみそ汁を2杯とるだけで夕方までもちます。そして夕方にはご飯を茶わんに1杯半ほど食べる程度ですが、それでも腹は出る一方で、一向にやせないのですからおかしなものですね、人間の体というのはー。それでいつかベルトでゴリゴリやって腹をへこませる機械を使ったことがありますが、4、5日やったきり放り出してあります。ダメですね、ああいうものをやってもー。

「天の父の座から降りなさるな」

とにかく内部からの印象というものを受けるためにはもちろん心を内部の意識のほうに向けるという操作も必要だと思いますが、肉体的にも相当注意して、飲食物のことなどもある程度考えないといけないと思います。

 それからちょっと飛びますが、68ページの1行目に「その印象がときとしてただちに理解されなければ、必要なのは認耐力です。啓示というものが存在するという事実は、適当なときにどこかでそれが(啓示が)現れるという確信をあなたに与えるでしょう」とあります。啓示というのは心からわき起こって来る一種のインスピレーションですが、これは必ずあります。といっても私がしょっちゅうこういう啓示がわき起こり、それに従って行動しているというわけではありません。それどころか失敗やへまばかりしています。それでも心を澄ますとときどき印象を感じることがあります。

 例えちま先日、家でちょっと不愉快なことがあり、気分がムシャクシャしたことがありました。しかしその後ジーッとマインドを静めておりましたところ、ある声が聞こえてきたのです。それは音響としての声ではなくて、いわば声なき声、あるいは強烈な印象といったものでした。どういう内容かといいますと、「天の父の座から降りなさるな」という言葉で、たいそうていねいな言葉遣いで聞こえました。それで私はハッとして「やっばり自分はこの宇宙哲学やGAP活動をもっと思いきりやらなければいけないのだ」と強烈に感じたわけです。そして涙が浮かんでどうしようもなかったですね。

過失、恐るに足らず

 それから「過失を分析する」というところがありますが、ここも重要です。いま言いましたように私はたびたび失敗やへまをやっていますから、ときどき自分がイヤになるほどですが、しかし「誤りをやったと感じるならば訂正する方法が示されるでしょう。もしその訂正の方法が他人と対立することになるならば、その他人になりなさい。そうすれば時間の損失なしに何をしたらよいかがわかります」とありますように、過失というのをいやがってはいけないのでしょう。むしろ過失を犯したら率直にすぐ分析して「ああ、これはまずかった」「こういうことじゃいけないな」というふうに客観的に自分を見て、よくないところを直せばいいわけです。

 また私の話になって恐縮ですが、一昨日の夕方、料理店に5、6人で集まって一杯やりながら会合を持ったわけです。そのとき私はそんなに飲んだつもりではなかったのですが、騒がしい場所だったせいもあり、悪酔いいしてしまい、想念が非常に荒れてきたわけです。それで何かかなりきついことをしゃべったようなのですが、あまり覚えていません。そうして帰宅して一晩寝た翌朝(きのうの朝)、目が覚めると大変な疲労を感じ、体が動きません。心臓もおかしいのです。これはきのうの酒にやられたなと気づきました。そしてこれは、もうあまり酒を飲むなというような啓示に違いないと思ったわけです。もちろん付き合いで飲まなければならないときもあるでしょうが、そのときでもせいぜいビールをコップに2、3杯程度にしておくほうがよいと思っています。心から楽しんで飲むというのが一番いいのではないかと思います。ですから私はビール以上にアルコール度の強い酒類は今後一切飲まないことにしようと固く心に誓ったのですが・‥・さて、どうなりますかねえ。(一同笑〉 今までも何度誓ったかしれませんがね。(一同笑)ま、とにかく私にすすめないようにして下さい。(一同笑)人からすすめられると私はいやと言えないものですからつい飲んでしまうわけなんです。

 ともあれそのように過失を自分で分析し、今後二度と繰り返さないようにすればよいのです。そして「過失を避けようとして過度に用心深<なってはいけません。過度に用心深くなると何事もできなくなります。これは価値がありません。重要なのはなるベく早く過失に気づいてそれを訂正することです」(p69、13〜15行目〉 とありますが、過失を犯してもくよくよ気にしないで、進歩のためのワンステップだったのだという程度に解釈すればよいわけです。

>>第5課 2部へ続く

home artcles letters pictures ufo bbs お問い合わせ link