心は四つの感覚器官から成り立っている
きょうは『生命の科学』の第2課、「心とその成分」という題のところですが、これの席題は「TheMind and Its Component Parts」となっています。Mindは「心」ですね。
Component というのはよくステレオなどに使われる言葉ですが、ものを組み立てているひとつひとつの成分になるものを意味する形容詞で、普通は「成分の」というふうに辞書に出ています。そしてparts というのは文字通り「部品」ですから「Componemt Parts」は「成分になる部品」という意味になり、結局「心とその成分」ということになります。つまり心は何かによって組み立てられているのだということです。
ステレオの場合のコンポーネントというのは、いろいろな会社のそれぞれ特徴ある優秀な部品を寄せ集めて組み立てた製品のことで、普通はこれが上等だとされています。 16ページの「心とは何か」という小見出しのところを見ると「今度は感党器官で成り立っている心なるものを分析してみましょう。このセンスマインド〈肉体の心)は実際には絶えざる学習を続けながら創造されてゆく過程にあります。それは結果(現象)の観察から印象類を感受する感光坂のようなものです」とあります。ここで「感覚器官で成り立っている心なるもの」とありますが、心は感覚器官から成り立っているということです。
「成り立っている」というのは原文では「make up of〜」という有名な熟語の受け身形を用いて、「‥・・is made up of 」というふうになっています。英語の教科書には「日本は四つの島から成り立っている」という意味の「JAPAN is made up of four islands.」というような文章がよく出ます。
その「感党器官で成り立っている心なるものを分析してみましょう」というわけですが、それではいったい何から成り立っているかというと、17ページに入って「四つの部分に分けて考える」というわけで、まず「最も有力な部分は視党です」とあります。早く言えば目ですね。そして「その次は聴覚で、続いて味覚と臭覚という順序になります」ということです。
感覚器官というのはこの四つだけではな<、何百とありますが、そのなかで最も重要な役割を果たすのが目であり、これが人体の感覚器官の85パーセントぐらいの役割を果たしているそうです。このことでも目がいかに重要なものであるかというのがわかります。その次が耳(聴覚)で、それから口(味覚)、そして鼻〈嗅覚)の順です。この四つが主なものであり、これらはすべて人間の首から上に集中しています。
触覚は基本的実体
触覚というものも感覚器官のひとつとしてよく数えられますが、これは実は人間の基本となる魂とも言うべきもので、これこそが人間の実体なのであって、ほかの感党器官はどれも触覚から情報を伝えられて反応を起こすにすぎないということです。
この場合の触覚というのは、皮膚がものに接触して感じる触覚ではなくて、もっと奥にある根本的な触覚のことを言っています。そこからだんだん人間の体の外層にその触覚が広がって行き、最後に最も弱い−ものに触らないと感じることができないほど弱い触覚が人体の一番外側の皮膚にあります。ですから本当は触覚というのは人間の中心的な存在なのであって、これは日に見えない、あるいは皮膚で感じられない汲動を感じることができるのだということです。
人間はなぜ迷うのか
ところで先の四つの感覚器官はお互いにしょっちゆうけんかをしています。これはどういうことかというと、ここ(17ページ)にありますように、例えば目が美しい花を見て「ああ、きれいだな」と思ったとします。しかし一方、その花が悪臭を放っていれば、鼻は「こんな臭いにおいを出す花はきらいだ」と言うでしょう。そこでその花を摘んで帰ろうかどうしようかと人間が迷うわけですが、その迷いというのは実は目と鼻のけんかの状態であるというわけですね。あるいは道を歩いていたときに、うなぎのかば焼きのようなおいしそうなにおいがしてきたとしますと、今度は鼻がそれにひかれてそのことを味覚に伝え、味覚が口の中でよだれを出します。これは一種の反応ですから決しておかしなことではありません。そしてさらに味覚はやたらとそこへ行って食べたいと言いますが、今度は人体の中の経済感覚をつかさどる細胞が「何を言っているか。財布の中を少し考えてみろ!」と言って味覚に注意しようとします。そこでけんかが始まるわけですが、それがそこへ入ろうか入るまいかと迷っている状態です。
そういうふうに人間のあらゆる迷いは感覚器官同士の争いによって起こるということをアダムスキーが言っています。
このことは普通の科学ではまだ認められていません。ただし目や耳のそれぞれの細胞が勝手な解釈をするということは科学的にも認められていますが、それらが心をつくり上げる成分であり、お互いにけんかをしているというようなことまでは認められていないようです。しかしいつかは認められるときがくると思います。来世紀になりますかね、そうなると思います。
心を意識にゆだねよ
迷いの原因はそういうことですが、それでは迷わないためにはいったいどうすればよいかといいますと、心による判断は非常に頼りないですから、その輿にあり、何もかも知っている実体である意識というものに心をゆだねなければダメです。その意識というのは、さっき言いましたように、本当の触覚とも言うべきものです。これはあらゆることを知っていて、心に間違いのない的確な指令を与えます。しかし、もし心がそれを認めないで無視するならば、心はとんでもない解釈を起こしてしまい、そしてその結果は失敗とかへまとかいうことになるわけです。私も過去を振り返ってみますと失敗とへまの連続ですね。小さなものならば何千回失敗やへまを繰り返したかわかりません。それはすべて、自分の心で判断しようとしたからです。しかし意識によって与えられる指令には間違いがありませんから、心に判断させるのではなく、内部から来る意識の指令を受け取るということが大切です。
これはどういうことかというと、俗に言う「インスピレーションを感じる」ということです。早く言えば、人間はインスピレーションによって生きなければいけないということです。そのためには感覚器官(日・耳・鼻・口など)を調和させて、争いを起こさない(つまり迷いを起こさない)ようにすればよいわけです。
しかしこれはちょっと難しいかもしれませんね。私たちはこうして世界に生きていて、いろいろな外界(自分以外のすペてのものを哲学では外界と言う)を目で見ていますが、いかに目に振り回されて生きているかということを痛切に感じます。例えばきょうは後ろに『宇宙哲学とUFO』(旧題・GAPニューズレター』)最近号(76号〉の原稿などの資料を展示しましたが、こういう雑誌を作ったり書物を書いたりしますと、後で必ず校正という仕事があります。校正というのは、印刷所で組んだ版でそのまま本番の印刷をすると間違いがたくさん出てしまいますので、その前に試し刷りを発注者(編集者または著者〉に送って間違いを直してもらうことです。それを私はずいぶん昔からやっていますが、間違いにはなかなか気がつかないもので、毎回うんざりしますね。
自分の目がいかにいいかげんなものであるかということをいやというはど感じます。ですから校正は一人でやらずに必ず二人でやるようにします。二人で同じ部分を次々と見るわけです。これは人数が多いほどいいですね、二人よりも三人、三人よりも四人というふうに。
心の訓練法
そういうふうに、目などの触覚器官に振り回されずに内部カから来る印象に従うというのはちょっと難しいことですが、難しいからといってそういう訓練を全然やらないでいたのではなかなか印象は来ませんから(たまに来ることもあるかもしれませんが)やはり訓練が必要です。
まず自分の心を澄まして(つまり四つの感覚器官を統一させて)争いを起こさせない〈つまり心の迷いを起こさない)ようにします。このとき、目を開けているよりは閉じているほうがいいでしょう。そして、畳の上に足を折って座り込む正座というような姿勢ではくたびれますから、いすに腰かけて体をゆったりとさせます。これは夜に静かなところでするのがいいでしょう。そのようにして、例えば何か重要な問題を解決しようと思いながらどうしても考えがう浮かばないときなどに、じーっと内部からわき起こる印象を待つわけです。何時間でも待つぞというほどの忍耐強さを発揮して待ちます。そうすると突然パーッとひらめきが出て来ることがあります。必ずあります。そしてこれに慣れてくると、道を歩いていてもひらめきを感じるような生き方ができるようになります。
忍耐強い実践が大切
そのためには忍耐カと信念というものを土台とすることが大切です。そのことを22ページのはじめで「忍耐と信念はこうした報いの基礎です。短気な人は挫折します」と言っています。これは今まで何度も説いてあったことですし、みなさんは熟知しておられることですが、実行となるとなかなか難しいですね。特に、地球という俗悪な世界でこういう哲学を実践していくのは非常に難しいと思います。
私も一般の知識を得ようと思って普通の雑誌を読みます。雑誌といってもつまらない雑誌一特にに週間誌などは一切読まないことにしておりまして『リーダーズダイジェスト』とかあるいはアメリカの有名な週間誌の『タイム』(これは週間誌といっても世界最高クラスの堂々たる内容です)、『ニューズウイーク』とか、その他日本の雑誌ではちょっと硬いものを読みます。そうして一生懸命に読んだあと、ふっと気がつくと、自分が何だか俗物の世界に引き込まれてしまい、こういう宇宙的な方向からも外れてしまったような感じがします。もちろんそういう雑誌は決して悪いものではありませんし、知識を与えてもらうためにはある程度読む必要がありますが、読んだあとは何だか宇宙的な方向から少しずれたような感じがしますね。
ですから俗悪な雑誌は一切読まないほうがいいですね。新聞なども悲惨な事件とかつまらない事件ばかり出ていて、どこの息子が親孝行だったとか、だれそれが良いことをしたとかいうような記事はあまり出しませんから、そういうのは見出しだけをパツパツと読んでおけばいいです。また、日本の週間誌というのはつまらないものばかりですから、ああいうのは読まないようにして、せいぜい電車の中の宙づり広告のタイトルだけを見る程度で十分です。あれを見れば何が書いてあるかだいたいわかりますからね。
そういうふうにしてとにかく俗悪なものあるいは邪悪なものに染まらないように自分からいろいろな面で努力していくことが大切です。地球という世界は、非常に進化した金星とか土星などに比べたら地獄のような世界だとよく言われますが、本当は地獄ではありません。地獄にもなりません。地獄以下ですね、完全に。ですからそういうところに生きている私たちはよはど注意しないと周囲の俗悪な環境に巻き込まれてしまいますから、そこのところは十分注意する必要があります。
真の平等とは
次に「人間の能力はすペて等しい」とありますが、どんな人でもすべて平等であるということがここに出ているわけです。そして「人間は平等」という見出しのところには「ソロモン王の神殿が完成したとき、その工事で最も功労のあったものを儀式で表彰し、玉座の隣席にすわらせる旨を表明」したとあります。そこでみんなが集まって待っていたところ、一人の鍛冶工が仕事着のままで入ってきて自分で玉座の隣席にすわったのでみんなは動揺し、そこで王が詰問したところ、その鍛冶工は立ち上がつて「あなたがたのコテやコンパスはすべて自分が作ったものだ。この道具がなければこの神殿を作ることもできなかったはずなのだから、従ってこの名誉は私のものだ」というふうに答えたということです。これは当然のことであり、何も不合理な話ではありません。
ところが世間ではとかく職業によって人を差別することがよくあります。職業ならまだいいですが、生まれつきの皮膚の色とか民族の違いとかいう、どうしようもないもので差別することさえあります。きょうも新聞を見ましたら、アメリカのレーガン政府が、白人と黒人の子供を別々のスクール・パスに乗せて通わせることにするというような法案を成立させたとかいう記事が出ていましたね。そして黒人社会で猛烈な反発が起こったということでしたが、何か理由もあるのでしょうが、非常に残念なことですね。ですから人間が平等だというのは非常に重要なことだと思います。職業なんて何をやっても構いません。泥棒とこじきさえやらなければ、土方をやろうが屋台を引いてラーメンを売って歩こうが、それは立派な職業だと思います。ですからそういうことだけで人を差別したり軽べつしたりしてはいけないということをここで言っているのだと思います。
ただ、平等というのをはき違えてはいけません。例えば戦後の日本では、すべてが平等なのだから学校も格差をなくさなければいけないというので、東京都では「学校群」というものを設け、高校入試にかなりの規制を加えて、結局くじびきで入学させるというようなことをやりましたが、そのために非常に学力が落ちてしまいましたね。それが問題になって学校群制度は廃止され、新たに「学区制」というのができてある程度緩和されましたが、やはりどうもよくないようですね。むしろ自由な教育をやっている私立高校へ殺到する傾向があるということが、この間の新聞にも出ていました。これは結局平等の意味をはき違えたからこんなことになったのだと思いますね。
それでは本当の平等とはどういうことかといいますと「万物に所を得さしめる」ということだと思います。つまり、人間は一人一人能力が違い、専門が違うのですから、それぞれの専門の分野で仕事ができるような環境を与えてやるというのが本当の平等だと思います。例えば東京大学という学校がありますが、あそこへ入るのはかなり難しいと言われています。私は受験したことがありませんのでどのくらい難しいのかよく知りませんが。それで、そういう難しい試験を行って優秀な人だけを入れるのは不平等であり、だれもが東大で勉強できるべきなのだから、入学試験を廃止してだれもかれも入れようということにしたらどうなるかといいますと、めちゃくちゃなことになります。もう、学問の揚ではなくなるでしょうね。ですからそういうのが平等ではありません。やはりあそこは高度な学問を授ける場所ですから、そのような能力のある人だけを選抜して入れて、そして教育をほどこすべきです。そしてそこへ入れない人はその人に見合った別な方向へ行くというのが本当の平等であって、だれもかれもが東大へ入ることが平等ではないということです。この平等と自由というものを戦後の日本ではだいぶはき違えてまずい教育をしてきましたが、これからは次第に理解されてくると思います。
これは職場でもそうです。たいていどんな会社でも部長・課長・係長・平社員というふうに職階制があり、まるで軍隊の指揮系統みたいに、下の人は上の人にたいして絶対に反発できないようになっています。私も実業界にちょっと首を突っ込みましたから知っていますが、これは絶対ですね。普の軍隊と同じです。昔の軍隊はものすごく殴ったりけとばしたりしましたが(私もだいぶやられましたね)そういうことをやらないだけの話で、下の人が上の人の命令にたいして「いやです。私はそんなことはできません」とひとこと言ったらすぐにクピですね。全くひどい社会だと言えますね。
そういう中で、本当に平等に働くとはどういうことかを論ずるのは非常に難しいことで、今ここでその平等論というものを詳しくお話する時間もありませんが、私の超験したなかで最も平等な職場は学校の教師の世界ではないかと思います。ここではどんなベテランの教師やあるいは校長先生でさえも、新米の若い教師を「××君」とは呼ばずに、必ず「××先生」というふうに敬称をつけて呼び合っています。そして相手の専門を非常に尊重しています。こういうところは学校ぐらいのものでしょうね。あらゆる職場がそういうふうになればいいと思いますが、なかなかそうはならないでしょう。
>>第2課 2部へ続く |