自由意志を正しく応用すること
さて、きょうは第3課の「宇宙の法則の応用」というところを解説したいと思います。これは願題では「Tbe Application of Cosmic Law」となっています。「Cosmic Law」が「宇宙の法則」という意味です。lawいうのは「法律」という意味もありますが「法則」という意味もあり、この場合は「法則」です。applicationは「応用」ですから、まさに原題の通りに訳されているわけです。
まず最初に「神は人間の体験の責任者ではないと説明しました」とあります。そして「神は責任者ではない」というところで電気を例にあげています。家庭で電気器具などを使うときに、その使用法を誤って感電したりやけどをしたりけがをしたりすることがありますが、しかしその場合はあくまでも人間が無知なためにそういうことになったのであって、電力を供給している発電所のほうには何の責任もないわけです。発電所では公平に電力を分配しているだけです。
これと同様に、宇宙の創造主ともいうべき宇宙の根源的なパワー(ここでは神と表現してありますが)というものは人間に全く平等に英知・パワー・意識というものを与え、みんなを公平に生かそうとしています。ところが人間サマは残念ながらそれに気がつかず、自分の内部に宿るパワーを悪いほうに使ったりします。例えば私たちの持っている腕力というのもやはり神から与えられた力の応用ですが、これを人を助けるために使うのならよいですが、人を殴ったりするのに使うのは大変な誤用です。そして人にけがをさせたり殺したりすれば、警察に捕まえられて、行くべきところへ行くことになりますが、これは全く本人の責任であって、そういうカを与えた神の責任ではありません。
人間には腕力ばかりではなく、そのほかにも無限と言ってもよいほどの能力が内蔵されていますが、人間は全くそれに気がつかず、そういうカを無意識に悪用してしまっています。それは、人間のエゴの心が強く、何もかも自分中心に考えようとするからそういうことになるのです。だから「エゴの心を訓練すること」という見出しが34ページのところにあるわけです。つまり「人間は自由意志を持っていて創造主の法則の応用法を知らねばならない」にもかかわらず、普通はそれを知1らないからその自由意志をむちゃくちゃに応用していますが、この素晴らしい自由意志を正しく用いるならば本当に素障らしい応用法になるというわけです。
親切で豊かで美しい
「意志」というのは人間の心の意志と、内部に宿る神とも言うべき宇宙の意識の意志と、二つあります。原文では「意識の意志」は「will of consciouness」となっています。willというのは名詞になると「意志」という意味になります。そして「心の意志」は「will of maind」とあります。この二つは確実に存在するものであって、否定できません。そしてこの二つとも非常に重要なものですが、特に「意識の意志の表現は親切で豊かで美しい」とあります。これが大変重要なところです。この「生命の科学」の中には最も重要だと思われる部分が何箇所かありますが、これもそのひとつです。
ここは原文ではどう書いてあるかといいますと−いちいち原文を出すのは、私が自己流のいいかげんな訳をやったり、突拍子もない意訳をやったのではないということをはっきりさせるためです−「It is kind and mellow」となっています。itは意識の意志のことを意味します。mellowは「豊かで美しい」という意味を持った形容詞です。例えばよく発酵したワインを表現するときに「芳醇こ〈ほうじゅん)な」とか「甘美な」という意味で用いられます。つまりmellowというのは、ものの内容自体が非常に成熟して「豊かで美しい」というような意味です。ですから「豊かで美しい」というのを「rich and beautiful]などと言うとまるでおかしな意味になりますね。beautifulというのは見た目で美しいというだけで、内容までは言いません。ですからこのごろテレビのコマーシャルで「美しい人生のために」という意味で「For beautiful human life」というようなことを言っていますが、あんな英語は本当はないのだというので問題になっているそうです。ですからここの「豊かで美しい」というのも、内容自体が非常に豊かなことですからmellowを使います。
例えば「The mellow colors of the roofs in a Swiss village.」という文は「あるスイスの村の屋根の色の美しさ」という意味になりますが、これも見た目で美しいという意味ではなくて、その屋根の色が非常によく考えて作られていて、自然とよく調和しているというような、内容のある美しさという意味です。これを「beautiful colors」と言ってしまうと、見た目だけできれいだという意味になります。それにしてもスイスの屋根の色というのは本当にきれいですね。とてもじやないですが、日本の家屋は足元にも及ばないほどです。
それはともかく「意識の意志の表現は親切で豊カ)で美しいのですが、エゴの意志は攻撃的で威張っていて自己中心的です。意識の意志は恐怖を知りませんが、エゴの意志は生活すべてを通じて恐怖し、多くの過失をおかします」というわけです。これが二つの意志の根本的な違いですが、このように意識の意志は全く恐怖を知りません。それは、この大宇宙の中に恐怖すべきものは本来何もないということを知っているからです。ところが心はそういうことを知りませんからいつでも恐怖心に満ちているというわけです。
意識の意志は完全
そして35ページのしまいのところには「神の意志は常に完全な調和をもって表現し、いかなる現象にもゆがみをひき起こしません。だからこの意志のもとにある人体はかくも見事に表現されているのです」とあります。この「神の意志」というのは意識の意志と同じことです。神(原文ではGod〉という言葉を用いるのは宗教と勘違いされますからあまりよくないのですが、どういうわけかアダムスキーはこれをときどき使っています。
それで、この意識の意志は人間を完全にしようというふうに衝きかけているということです。これは人間ばかりではなく、あらゆる現象界を完全にしようとしているはずです。ですから人体というものは非常に精妙・複雑につくられているばかりではなく、本来は病気にもならない、完ペきな健康体であるはずなのですから、自分のマインドを意識の意志に合わせていくならば完全な健康体になるはずだという理論が成り立つわけです。つまり人間は本来病気であってはならないはずです。
ところがほとんどの人がたいてい病気になって悩んだり苦しんだりしていますが、これは完全に生かそうとしている内部の意識の意志に全く気がついていないからです。エゴの意志だけで、つまり心の意志だけで生きようとするからしょっちゅう過ちを犯します。
例えば腐ったものをそれと知らずに食べて腹下しをすることがありますが、これは「食べてはいけませんよ」という内部の意識の意志のささやきに気がつかず、エゴの判断で食べたからそういうことになるわけです。そのことが36ページのはじめに書いてあります。「もしエゴが動揺し、混乱し、緊張し、法則すなわち意識と調和しないならば、必ず不消化と便秘が起こります」
消化不良というのは胃腸が悪いから起きるわけですが、胃が悪いと言っている人を見ますとたいていものをくよくよ考えるタイブの人ですね。あるいは職場で、怒りっぼい上役からしょっちゅう怒鳴りつけられていつもしょばんとしたりイライラしているような人も胃がやられます。人体のあらゆる器官のなかで胃ぐらいに人間の思念をよく反映するものはないのだそうです。
ですから怒りっぽい上役のもとでこき使われているような職場なら断然そんなところはやめてしまって、もっと明るい職場を見つけて移ったほうがよいです。そしてそれは当然のことながらミラクルワードによって確実に実現します。心配はいりません。それからみなさんが職場である程度上役であって、(ある程度と言っては失礼ですが)多勢の人を使う立場にあるならば、絶対に部下を怒らず、明るくさわやかな態度で接するということが大変重要です。
心とは別の調和の法則がある
それから神の意志は「人間のゆがめられた意志に自らを貸」さないとありますが〈p36、2〜3行目)、ゆがめられた意志にまでは神は関係ないわけです。
「そこで人間は苦痛によってそのゆがみにたいする代価を支払」わなければなりません。そして「これはある種の人々が学びとるための唯一の方法」です。しかしそれほどまでに人間が、内部に宿る神とも言うべき意識の意志に気づかずにめちゃくちゃな生き方をしていても、人体はある程度保たれます。人を傷つけたり殺したりした人の体は次第にダメになってしまうかというと、そうではありませんね。食事さえとっていればなんとか生きながらえることができますが、これは要するに、心とは全く無関係に肉体を生かそうとしている意識の働きあるいは調和の働きというものがあるからです。
そこで「人体内には知性の二つの面があることがわか」るというわけです。つまり「一つは肉体の機能を指示する宇宙的なもの、他の一つは肉体内に苦痛を起こす心の対抗です」というわけです。
生命の神秘の実例一幼児に見る驚異−
「しかし本当にその意識というものが人間を生かしているのだろうか」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、そこで赤ん坊を見てみることにしましょう。赤ん坊というものは、普通の成人のような知能や知性を持たずに生まれてきますが、しかし間違いなく成長していきます。例えば頭が三角形のおむすびみたいに少しゆがんだ状態で生まれてくる赤ん坊がいます。どういうわけかは知りませんが。それで母親は「これはえらい子供が生まれてきた」と心配するわけですが、しかしそれは何日かたつと自然にふくらんできて適当な丸みを帯びてきます。必ずそうなりますから心配いりません。ですから赤ん坊のマインド(心)が赤ん坊を生かしているのではなくて、もっと別なものが生かしているということがはっきりわかります。それはいったい何者かということは普通の人にはわかりませんが、私たちにはわかっていますね。それは内部に宿る宇宙の意識というものの力あるいは英知であるということです。
そしてそういう生命力というようなものを観察するのに赤ん坊ほど素晴らしいものはありません。生まれて間もない赤ん坊というのはまだ自分でものを考えたり判断したりすることは全くできませんから本当に自然のままの生き方をしています。だからこれをよく観察すれば、本当に鋭い人は、神というものを感じなくてはいられないほどに感動するはずです。
ただ、たいていの赤ん坊は生まれ出た途端にギヤーギヤー泣き出し、そして乳幼児期間もよく泣きますが、これは、残念ながら地球をとりまく巨大な想念披動のほとんどが悲痛の想念であるために、それを感受して泣くわけです。進歩した別の惑星の赤ん坊というのは泣かないようですね。これは地球だけの特殊な現象のようです。医学上はこれは単なる一種の反応みたいなものだろうと言われていますが、そうではないと思います。
それから地球の赤ん坊でも、生まれたときはもちろん純粋ですからまだ恐怖すべきものを知りません。恐怖の状態が心の中に起こるようになるのは、周囲から次第に恐怖心を植えつけられるからであるということです。
それから生まれて間もない赤ん坊が、まだ目も見えず、ものも言えない状態でありながら、ときどきニツコリ笑うことがあります。もちろん笑うというのはおかしいから笑うわけですが、まだ判断力もついていない赤ん坊がなぜ笑うのかということを考えると非常に神秘的ですね。これも本当のことはわかりません。田舎のおばあさんなどは「産土(うぶすな)の神様がくすぐっているからだ」というようなことをよく言いますが、それはどうだかわかりませんがね。
とにかく赤ん坊は非常に神秘的な表現をしますから、それをよく観察なさってみて下さい。進歩した惑星の人々は赤ん坊をよく観察するということが、アダムスキーの著書のどれかに出ていたはずです。
特殊な生活は不要
それから38ページのまん中のところに「私があなたにおすすめしたいのは、あなたの真実の自我、あなたの内部に宿る永遠の神性すなわち創造主である部分に気づくようになりなさいということです」とあります。そしてその前で、そのために特殊な精神統一や瞑想などを行う必要はないと言っています。かえって「こうした古代の方法は今日われわれが世の中で直面している不愉快な状態をもたらして」いるのだとあります。
確かに、人間の内部に既に宇宙の創造パワーというようなものがあるのならば、それ以外に宗教的なものを求めて祈ったり、偶像を崇拝したり、あるいは何かの行(ぎょう)をやったりする必要は全くないと思います。私たちは、ごく普通に生活していてしかも素晴らしい宇宙的なフィーリングを身につけることが十分できるはずです。別に田舎にこもらなくても、どんな大都会の中に住んでいてもできるはずです。
精神統一とかめい想はむしろ弊害があるということは私もずっと書から感じていたことです。私はアダムスキー哲学に触れる前は、ある新興宗教の熱狂的な信者でした。10代の、まだ若いころからです。その新興宗教では特殊な行法をやります。20分から30分ぐらい正座合掌をするわけですが、一種の精神統一ですね。これを私はずいぶんやったものです。ところがこれをやるととてもくたびれます。だいたい、腕というものは、支えるものもないのに空間に持ち上げていたらくたびれるにきまっています。これは自然の法則ですね。それを無視してこんなことをやれば当然自分の考えもゆがめられてきます。ですから本当のめい想にもなんにもなりません。へたをするとそのうちに一種の霊動状態といわれるような、手がぶるぶるふるえてくるような状態になります。これを内部から神性が発現してきたといって喜ぶ傾向がありますが、とんでもない事で、これは単なる肉体のけいれん以外の何物でもありません。その上その正座合掌をして精神統一をやったあとで、どういうわけかよく失敗をしました。それでそういうのは結局本物ではないということを私は感じていました。
こだわりなく生きる
38ページのしまいのところを見ますと「また私は読者に普通の生活をすごすことを禁じませんでした。(訳注。特殊な行法や祈りなどの伴う異常な生活をすすめなかったの意)あなたにすすめたいのは、心による生活でなくて『意識による生活をすごすこと』これに尽きます」とあります。「意識による生活」というのは前に何度も言いましたように、内部からわき起こるインスピレーションを感じながら生きる生き方ですから「インスピレーションによる生き方」と言いかえてもいいでしょう。
そして「あらゆる物事を適度に行」えばいいのだと、次に書いてありますね。つまりあれをやってはいけない、これをしなければならないというふうに
こだわってはいけないということです。
こだわりというのは非常に重要な問題です。英語にはmust(「〜せねばならぬ」「〜ねばならぬ」の意)という助動詞がありますが、このmustの生活になつてはいけません。ところが考えてみますと私たちはありとあらゆるものにこだわった生き方をしています。「こうしなければならない」「ああしなければならない」というふうに自分自身の判断でひとつの価値基準を作ってしまい、それに縛られて毎日を明け暮れしているわけです。服装などはいい例で、きようはちょっと家族連れで動物園にでも行こうじやないかというようなときでも、お父さんはスーツを着てネクタイを締めなければなりません。食物にしても、これを食ペなければならない、あれを食べてはいけないというふうに片っばしからこだわっています。そのためにストレスが生じたり、いろいろ不愉快なことが起こるわけです。ですからこのこだわりをなくすということが本当のリラックスをする意味につながると思います。
私もこのごろはあまりこだわらなくなりましたが、それでもいつのまにか自分でも気がつかないうちにこだわっていたということもよくあります。こだわりというのも習慣的想念によって形成されているわけですから、自分の想念をよく観察して少しずつなくすようにしていかなければなりません。そして何事も、めちゃくちゃにやってはいけませんが、全然やってはいけないのだと思い込んでもいけません。「あらゆる物事を適度に」やればいいでしょう。
>>第3課 2部へ続く
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