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新アダムスキー全集

 ├ 写 真
中央アート出版社
TEL : 03-3561-7017
E-mail :info@chuoart.co.jp
  だれにもわかる「生命の科学」


第1課 生命の分析一原因を知ること−  第2部

インスピレーションを見逃さないこと

それでは「内部からの指令」とは何のことかといいますと、7ページのしまいに「最初このことは容易ではないでしょう。なぜならわれわれはこれまで心でもって研究するように教えられてきたために、想念の奥にある意義すなわち宇宙的な衝動にほとんど気づいていないからです」とありますが、つまり内部から来る指令というのは宇宙的な衝動のことです。俗な言い方をすれば、インスピレーションですね。アダムスキーはインスピレーションという言葉をほとんど使っていませんが、これは英語本来の意味ではちょっと違うからだろうと思います。でも日本では、内部から来る何らかの印象あるいは衝動などをインスピレーションと言っていますから、一応それでいいでしょう。ですから要するに、内部からインスピレーションがどんどんわき起こるようになつて、それによって生きていくべきだということをアダムスキーは言っているわけです。

ところがインスピレーションが起こっても、心はそれをよく見逃してしまいます。「今、何々をやったほうがよい」「どこそこへ行ったほうがよい」あるいは「どこそこへは行かないほうがよい」というような衝動がいろいろわき起こりますが、とかく心はそれを見逃しがちです。

しかしこれに気がついて「あらゆる物事に応用されるとき理解カは急速に増進します。そして完全な知覚カを持つようになるならば、始めは二人の自分が存在するような気がします。心の活動と意識の指令の二つです」とありますが、確かにこういう状態になることがときどきあります。自分というものがまずあって、それからもう一つ別な自分がどこかにいて、それが語りかけてくるような、そういう感じのすることがときどきありますが、そのことを言っているのでしょう。

善悪の基準を作ってはいけない

そういうようなインスピレーションを起こすために必要なこととして、8ページでまず「過失をおかすことを恐れては」いけないと言っています。そしてさらに「われわれは善とか悪とかに分類しているけれども、そのいずれにしてもあらゆる行為は完全であるということを記憶しなさい」とあります。つまり、自分自身の善悪の基準を作らないということです。これは大変重要だと思います。

一人の人間が浅薄な考えで「これが善だ。これが悪だ」と決めて、さらにそれをほかの人にも当てはめて「あれはいけない。これはよい」というふうなことをやっていたら、とても生きていけませんね。と言っても、それならば他人が人殺しをするのを平気で黙って見ていてよいという意味ではありません。つまりあらゆる行為は一応完全なものとしてあるがままに見るということです。それが善悪の基準を作らないということです。

ところが「他を審(さば)くな」と教えていたイエスでさえも寺院から両番屋を追い出してしまい、そして「一つの誤りをおかし」たとあります。エルサレムの大神殿にイエスが行ったとき、その境内で両替屋とかあるいはささげものにするための動物などを売っている商人がたくさん屋台店を開いていたわけです。そしてそれらは聖なる場所を汚(けが)すものだというのでイエスは屋台店をひっくり返して追い出したという話です。それは要するに「他を審くな」と教えていながら自分が他を審いたということであり、そこでイエスは自分の間違いに気づいて反省したということでしょうが、この部分は聖書を読んでみてもなかなかはっきりしたことはわかりませんね。

今またここで話が横へそれると時間がなくなりますからあまり詳しくお話できませんが、当時、パレスチナー帯にはずっと昔からユダヤ教というものがありましたが、そのユダヤ教の司祭階級と神殿貴族階級というものが非常に堕落して腐敗しきっていたわけです。一般大衆には「十一税」というものが課せられていて、収入が10円あったらそのうち1円は税金として出さなければいけません。1割です。大変な税金ですね。今でさえもサラリーマンの税金が多すぎるといってかなり文句が出ているのに、当時、あまり収入のない−あまりどころか、ほとんどこじきに近いような人たちからそんな税金を取り立てていたのですからねえ。大変な税金です。そこで、そのユダヤ教にたいする抵抗としてイエスが民衆を先導して革命を起こそうとしたのではないかというふうな見方も出てくるわけですが、しかしどうもそういう政治的な活動をやろうとしたのでもないらしいとも考えられます。なぜならば、ユダヤ教を攻撃したいのであれば当然のことながらエルサレムの大神殿を重なる湯所だなどとは言わないはずです。逆に、そこで商売をしている人たちのところへニコニコしながら行って「もうかりまっか?」などと話しかけ、もっともうけろとけしかけるかもしれません。あるいはもっと神殿を汚すようにしむけるかもしれまぜん。ところがそういうことをしたわけでもなく、どうもよくわかりませんね。

とにかくここのところは「他人を審いてはいけない」(書くということは善悪の基準を設けることですから〉 と言っていながらイエスは自分からやってしまったということです。

イエスでさえもそういう失敗をするのですから、私たちがしょっちゅう失敗するのは当たり前です。そんなことでいちいちくよくよしていたのではとてもやっていけません。ですから失敗してもくよくよしないで、反省したらまた次の段階に行けばよいと思います。

因果関係を理解すること

それから9ページに「人間とは何か」という小見出しがありますが、ここはさっきもお話した通り、人間はただの肉体だけではないのだから、その背後にある超絶的なカの存在を認めなければいけないということです。

そのためには、10ページのしまいにあるように、「現象の分析」が大切になります。特に原因と結果の法則を知らなければいけないとアダムスキーが強調しています。私たちは日常のいろいろの出来事を「なぜこうなったのか。どういう原因があったからこういう結果になったのか」というふうに分析しようとはなかなか考えませんが、これは本当は非常に重要なことです。これも釈尊が強調されたことですね。

例えば1本の樹木を見た場合、その内部では樹木の血液に相当する樹液というものがどんどん流れていて、すさまじいほどに整然とした,活動が樹木のいたるところで行われているはずです。それをただ樹木の外側の、幹の皮だけを見て「ああ、きたない木だな」などと言っているようではダメです。そういう内部の働きなども自分の心眼で見抜くような、いわば人間レントゲン的な見方で樹木を見なければいけないということです。

信念を持とう

そうして「原因と結果を見る」ようにするのですが、そこで重要になってくるのが信念です。13ページのまん中には「信念はあらゆる現象の基礎です」とありますが、この信念の重要性をアダムスキーは何度も強く言っていて、『宇宙哲学』という書物の中には「信念」という章まで設けてあり、薫晴らしいことが書いてあります。

この「信念はあらゆる現象の基礎です」というのは原文では「Faith is the foudation of all.」となっています。「あらゆる現象の基礎です」とは「万物(all)の基礎」だという意味です。「信念」はfaithで、「基礎」はfoundation と言います。 女性がお化粧するときの基礎固めをファンデーションと言いますが(本当はファウンデーションというふうに「ウ」を入れるのが正しい言い方です)あれと同じです。

それで「信念のない人はカジまたは船長の欠けた船のようなものです。ひとたぴあなたの心が信念に頼るならば、それは意識の指導に頼ることになり、かくて意識と心は一体化して働くようになります」とありますが、信念の重要さ−これをどんなに強調しても強調しすぎることはないということです。

その具体的な方法として、ミラクルワード(注:「奇跡を起こす言葉」 GAPニューズレター=新題・宇宙哲学とUFO=70号巻頭言「信念の魔力」参照)というものを唱えて反復思念をやり、イメージを描いて物事を実現させるということをGAPではここ数年来促進しているわけです。

これによって例えば難括を希跡的に治したりあるいは自分の運命を奇跡的に好転させることも可能です。 根本的に大事なのは、既に出来上がったイメージを描いていくということです。

意識とは何か

それから「意識とは何か」という説明がありますが「それは万物の創造主である生命力であるという以外に、だれも的確に知ってはいません。意識がなければ人間は生きものとはならないでしょう。そして人間においては、それを言葉であらわすのに最上の表現は」−ここが大事なところです−「"注意(または警戒)の状態"といえます」

この"注意(または警戒)の状態"というのは原文では「state of alertness」となっています。alertnessが「警戒」という意味ですから「警戒の状態」となります。ただしこれは、人を恐れて警戒するというような意味ではありません。そうではなく、知覚力を高めてどんどん周囲を知覚していくという、「知覚の状態」と言ってもよいでしょう。わかりやすく言えば、おわん形のパラボラ・アンテナというものは四方から来る電波を捕らえようとして絶えずぐるぐる回っていますが、ちょうどああいう状態です。

そして「動物においては音響に顧る必要のない"本能"として知られています」とありますが、動物には本能というものがあります。なかでもネズミは素晴らしい本能を持っていますね。例えば大きな災害が起こる何日か前にそれを予知してどこかに逃げていきます。

この光景を私も実際に見たことがあります。昔、自分の家の縁の下からネズミの一族が出ていくのを見かけたのですが、そうしたら何日かたって大雨が降り、それで実に不思議な思いをしました。幸い私の家では床下までは水が来ませんでしたが、すぐ近所まで水が出てきましたから、それをある程度ネズミが知覚したのだと思います。

もっと不思議なのは、船火事が起こることをネズミが予知して、出航の何日か前に係留索(船を岸壁につないでいる網)を伝わってゾロゾロどこかへ避難していくということですね。こういうような予知能力をどうしてネズミが持っているのか本当に不思議です。

ネズミのような小さな動物でさえそれぐらいの知覚力を持っているのなら、人間サマにそれがないわけはないですね。ところが人間は長い年代の聞に、そういう潜在能力があることを忘れてしまい、今ではもう唯物論教育のために、さっき言いましたように、肉体はただの物質にすぎないというふうに思っています。ですからなかなかそういう能力が出て来ないわけです。しかし、出て来ないからといって何もしないでいるとますます出て来なくなりますから、私たちは忍耐強くテレパシーの練習をすることが大切です。そうすれば少しずつでもそういう能力が出て来るようになります。きょうは後でテレパシー練習をやりますから、それで試してみて下さい。思わぬ自分の潜在能力を発見して大喜びされることもあるでしょう。

苦しみを求めてはいけない

14ページヘ行きますと「われわれは未加工のダイヤモンドのようなもの」だとあります。未加工のダイヤモンドは、切ってどんどん磨いていかないと、いわゆるダイヤモンドの輝きは出て来ませんが、それと同じように人間も大いに磨かれて−ときには苦しい日にあうでしょうが−よけいなものを削り取られたりして初めて輝きが増してくるのだということをここで言っています。

といっても自分から好んで苦しみを求める必要はありません。もともと楽しむために人間の生活つまり人生があると思いますから。ただし享楽におほれてもいけません−そこは常識的な問題でしょうが。

とにかく「自分を大いに苦しめなければいけないんだ」という考え方は間違いです。それはさっきの釈尊の悟りのように、苦行のための若しみなんかやっても何にもならないというのと同じです。人生は本来楽しむべきものです。ですからその意味で、たまに集まって飲んだり食べたりして大いに愉快に話し合うということは決して悪いことではありません。きょうも後で新年会をやりますが、そのときは大いに楽しんでいただきたいと思います。ただ、あまり度を超してもいけませんがね。

私は万物と一体である

ところでこのごろ私は「人間の生活はいかなる場合においてもとにかく楽しいのだ。そして日に見えるありとあらゆるものは自分自身なのだ」というような認識に到達したと思っています。年賀状にもそういうことを書きましたね、「大宇宙は私である。私は大宇宙だ」というようなことを。(注:「まえがきにかえて」) あれは単なる詩ではなく、私がいつも唱えている言葉です。

大宇宙はすべて私だということは、宇宙の中に包合されているありとあらゆるものはすべて私自身だということにもなるわけです。ですから「何を見てもみんな自分自身であるから、結局万物は一体なのだ。そして何を見ても楽しいのだ」というような想念を起こすようにしています−なかなか難しいですがね。

しかしそういう想念を起こしていた偉大な先覚者が日本に一人いました。高原佐吉(たかはら・さきち)という方ですが、一般には全然知られていません。最初、内村鑑三の影響を受けてクリスチャンになりましたが、従来の重苦しいキリスト教の解釈に我慢できなくなってそれを飛び出し、その後がぜん悟りを開いて「万物はみな自分自身なのだ。すべてが楽しいのだ」というような思想を持ち、岐阜県の高山市で「みちづれ」というグループを組織して、自給自足の共同体を経営しておられたそうです。もう亡<なられたのかまだ健在なのか、よく知りませんが。とかく偉大な人というのは一般に認められないもので、普通の人はこの方を全然知りません。

習慣的思念に振り回されないこと

話を戻しますが、人間には本来ダイヤモンドのような薫晴らしい潜在能力あるいはカがあるのだけれども、普通はコケに覆われていて見えないというわけです。そのコケを確り除くためには、まずいろんなくだらない習慣を排除することが重要です。これは15ページのしまいから5行目に「このコケとは真実の人間を覆っている人間の各種の習慣をも意味します」とあることでもわかります。あるいは『テレパシー』にも書いてありますが、とにかく習慣的思念を除くことが基本になります。

注意して見てみると、私たちは習慣的な考え方に振り回されており、がんじがらめになっています。その中には善悪の基準を作ったりすることも含まれています。ですから私たちは、まず自分で自分の想念をよく観察してみて、その分析の結果「自分はどうもつまらない習慣的な考え方に振り回されて生きているようだ」ということに気づいたら「こんな考え方を持っていても意味がないから、思い切って捨ててしまおう」というふうにして、少しずつなくしてい<ことが大切だと思います。

ただしこれは社会的な習慣を全部無視していこうということではないと思います。もちろん社会的な習慣にはずいぶんつまらないものもあるでしょうが、付き合いの上ではどうしてもそれに従わなければならない廃合もあるでしょう。例えば身内や近所で不事があったときに、その葬式に行って何らかの手伝いをして、亡くなられた方をねんごろに弔うというようなことはどこでもやっていることです。ところが「そんなことは非宇宙的だ。特に東洋人がそういうことをやるが、あまりいいことではないのでそんな習慣はどんどんなくしたほうがよい」というようなことを私はアメリカのグループからずいぶん聞かされましたが、はっきり言って、間違いですね。彼らは、東洋人がいかに思想的に深いものを持っているかということを知らないからそんなことを言うのでしょう。確かに葬式というのは儀礼的なものかもしれませんが、しかしそれを頭から無視してかかり、自分の身内に死人が出ても全くとりあわないでどこかへ逃げてしまったとか、あるいは隣近所に不幸があっても全然顔も出さないというようなことをしたら、その人はつまはじきされて、気違い扱いされて、どうしようもなくなるでしょう。ですからそういう場合は一応出席してねんごろに弔い、そしてその死者にたいしては(既に転生しているでしょうが)よき想念を送り、そうして堂々と帰って来るという態度が必要だと私は思います。

善き原因を作ろう

そして第1課のしめくくりとして16ページで「生命の探究者がまずなさねばならぬことは、"原因と結果"についての絶えまなき知覚力を養うことにあります」と言っています。物事の因果関係というのは究極的には物理的なものだろうと思いますが、人間の想念とその想念によって起こる物事も、やはり原因と結果の法則に従っていると思います。つまり善き想念を起こせばいつか必ず善い結果が生まれてきて、悪い想念を起こせば悪い結果が生まれてくるというようなことですが、これは絶対的な真理だと思います。ですからそういうようなことを知っておいて、常に善き想念を起こすようにしたいと思いますね。

第1課だけでお話したいことはまだまだ山のようにありましたが、1時間ではとても無理ですからきょうはこれぐらいにしたいと思います。ちなみにこの『生命の科学』で最も重要なのは第1課と第9課であるということをアダムスキーが生前言っていたそうです。ともあれこれから毎月一課ずつやってい<ことにいたします。それではこれで終わらせていただきます。どうもありがとうございました。

(1982年1月9日 東京文化会館にて)                   

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