みなさんこんにちは。本日も遠いところから多数ご来場いただきましてどうもありがとうございました。
今年は、きょうから『生命の科学』をまた改めて解説いたしたいと思います。これはちょうど12課ありますので、毎月一課ずつやっていけばちょうど1年間で終わることになります。『生命の科学』の解説講義は前にもやりましたが、そのころと今の私はかなり違いますので解説のしかたもやはり相当変わってくると思います。もちろん人間は、いつまで年をとっても全く同じというのではなく、絶えず変化しなければいけません。その意味で、私も変わってはいるつもりですから、新しい視野のもとにこの『生命の科学』の解説をこれから始めたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
『生命の科学』は世界最高
この『生命の科学』というのは腐題では『SCIENCE OF LIFE』といいます。これは昔、アダムスキーから各国のGAPのコー・ワーカー(co-worker)、つまり、リーダーに送られたものですが、いっペんにドサッと来たわけではありません。1カ月に1分冊ずつ(1課ずつ)来て、そして1年かかって送られてきたものです。
これがアメリカで出たころはかなりの奇跡が発生したと伝えられています。アメリカ人というものは−こう言っては失礼ですが一単純な人が多いですから、よい意味において単純であれば、こういう素晴らしい教えをあまり批判を加えずにそのまま受け入れて実行するでしょうから、確かに奇跡も起こると思います。その点日本人というのは複雑に考えるほうですから、それで批判を加えたりするためにあまり効果があがらないというようなことがあると思います。しかし一方、日本はキリスト教国ではありませんから、そういう宗教的な先入観もなく、割と受け入れやすい面もあると思います。日本というのはかなり無宗教な国ですからね。それがよいか悪いかということは別問題として、少なくともこうした哲学的な思想を受け入れやすい面は輝かにあるということは言えると思います。
ところで、10年ぐらい前だったと思いますが、ある方面からこういうことを聞いたことがあります。 この『生命の科学』というのは「世界最高の書物であり、人間を向上させるためにこれ以上のものはない」ということだそうです。これをだれから聞いたかといいますと、スペース・プラザーズからです。金星から来られた方だったと思います。それで私はこれを非常に重視することにしたわけです。
世界に類を見ない内容
この『生命の科学』では、"意識"というものと"マインド(心〉"というものとの一体化ということを、いたるところで述べてあります。この"意識"というのは"宇宙の意識"のことですが、これはいつたい何かということを哲学的に理論づけて解釈しようとすると大変難しい内容になります。こういう"宇宙の意識"というようなものを説いた哲学は、どんなに探してもないですね。
ただ、昔、日本の生んだ偉大なクリスチャンである賀川豊彦(かがわ・とよひこ1888〜1960)という方が(アメリカで勉強された方です)「宇宙目的論」というすごい論文を書いておりますがね。これはライフワークとして書かれた論文です。宇宙はみな目的があって創造されたのであるというような内容ですが、その「宇宙の目的」というのは、アダムスキーの言っている "宇宙の意識"というのとだいたい同じことを言っていると思います。
この方はクリスチャンではありますが偉大な方であり、戦後、日本がアメリカに占領され、日本人は人間ではないとさえ思われていたころでも、あの賀川豊彦氏がアメリカヘ行くと、大統領専用車で迎えに来て、旗を立ててホワイトハウスのほうへ堂々と行進したというほどの大歓迎ぶりだったそうです。それぽどに偉大な方ですが、日本ではあまり知られていないようです。
自然は "創造主"の具体的表現
さて、『生命の科学』の5ページの最初の見出しを見ますと「まず自然を見つめること」とあります。この見出しは私がつけたものではありません。 これば昔、この本を出してくださった文久書林の岸社長がおつけになったものですが、実にうまくつけてありますね。本当にうまくつけてあります。
それで、なぜ「まず自然を見つめること」が大切なのかを、アダムスキーはこのあとで言っています。5ページのしまいから6行目の「創造主の最高の創造物としての人間はその責任を一任されています」というところから、最後の行の「この創造物はわれわれが自然と呼んでいるものの中に現れています。なぜならそれが冬至上なる英知もの具体的表現であるからです」というところですね。つまり、いわゆるや創造主やというものを私たちが悟るには、自然の創造物の観察が不可欠だということです。
ところで、「悟る」という言葉は宗教的な用語ですが、これを哲学用語では何と言うかご存じですか。これは「認識」と言います。俗に私たちは、何かを「認識した」というふうに軽い意味でも使いますが、難しく言えば「悟る」ということです。
創造主は言葉を超えたもの
それでは、創造主というものを認識するためにはどういう方法があるか、理論的に説明せよ、ということになりますと、これは現代までの哲学ではまだ解答が出ていません。「創造主というものは、こんな形をしたもので、どこにあり、こういうふうにすればだれもが見ることができるのだ」というような方法を出した人はいません。どんな哲学にもない。宗教にもないですね。
しかしこの広大な宇宙を考えてみますと、そこには無数の恒星・惑星・衛星などがつくられ、しかもその中に無数の無機物があり、さらに無機物から有機物が生まれてきて、そして生命体がたくさんあるわけですから、これらが全く偶然にわいてきたというふうに考えるわけにはいきませんね。みな何かの目的(あるいは使命)があってできてきたと思います。だからそういう自然の現象あるいは自然の中で生きているいろいろな生物を見ると、どうしても何か英知あるものがそういうものを設計してつくり出したのだとしか考えられません。
しかしこういう考え方は西洋哲学では認められていません。昔、私は大学の哲学のレポートで−今でもはっきり覚えていますが−「この宇宙に満ちる大生命があるんだ」とかいうようなことを書いて出しましたところ、バツをもらいまして「そういうものが世界にあるとは哲学では考えられない」というような批評を書かれて帰ってきたことがありますね。でも私は逆に「この大学にいる連中に何がわかるものか。彼らはいわゆる西洋哲学を受け売りしてメシを食っているにすぎない」と反発した党えがあります。それは私がまだ若いころでしたし、しかもある新興宗教の影響を非常に受けていたころですから、若気のいたりで反発したのだろうと思います。
ともあれ、そういうように、実際は西洋哲学では認めていません。というのは、西洋人は非常に理詰めな考え方をする傾向があり、あ<までも実証的にいきますから、本当に創造主というものを見ようとすれば「それは、こういうふうに、こういう方法をとって、そしてこうだから、これが創造主だ」というふうに、はっきりだれの目にもわかるように証明できなければ納得しないわけです。ところが東洋人というのは、そんな理屈をこねてものを認識するのではなく、直感でいくわけです。これが西洋人と東洋人の大きな違いです。
しかし、この『生命の科学』などの中にあるや創造主や"宇宙の意識"といったようなものは、アダムスキーの単なる直感による言葉ではなく、自然界を深く観察した結果、そういうものを認めざるを得ないという認識に到達して言ったのだと思います。
それに、この『生命の科学』というのはアダムスキーが死ぬちょっと前に出されたもので、その意味でこれは彼の哲学の、いわば総決算であると言えますが、それに至るまでにはスペース・ピープルからの何か大きな"教え"を受けていて、その大部分をこの中に盛り込んでいるはずです。ですから『生命の科学』で言われていることは、スペース・ピープルから伝えられた教えであると思っても間違いはないでしょう。
宇宙の意識が満ちている
6ページヘいきますと今度は「宇宙の意識が存在する」という小見出しがあります。その下に「医師によっては更に人体を深く研究し、自己の"意識"をもって人体を観察します」とあります。この"意識"というのは、普通の会話で使う意識とは少々異なり、あくまでも人間の内部に宿る根源的なものを意味します。
ところで私にはどういうわけか医者の知り合いが非常にたくさんいて、私の親せきの男も医者でしたし(この男はもう死にましたが)、その息子や娘も医者になったり医学生でいたりしています。また、田舎にいたころもどういうわけか医者の友達が多かったです。そういうことで、医学面のいろいろな話をときどき聞きましたが、医者のなかには「結局人間の体が根本的に何によって生かされているかということはわかりゃしないんだ。われわれ医者は、学校で教わったことをただ応用して、こういう病気にはこういう手当てをすればいいんだというふうにやっているだけだ。だが、本当は、その病気を治すカはどうも内部から出てくるらしい」というようなことを言う人もありました。そして「そんなことを言えば自分のところへ来なくなるから「この薬を飲めば治る」とか「こういう手当てをすれば治る」と言って、自分のプ病院に来るように言っているだけだ」というようなことでしたね。
本当に優れた医師というのは「自分たちが病気を治すのではない。薬が治すのでもない。本当は内部に宿る自然治ゆカというものによって治るのだ」というようなことを言いますね。
その自然治ゆカという素晴らしいカがだれにも宿っていますが、その力を起こしているのが、アダムスキーの言う"宇宙の意識"です。これは本当は言葉では表しにくいものでしょうが、ほかに言いようがないというのでアダムスキーは"意識"と言っていますが、これは適切な言葉だと思います。意識という言葉は、何か知的な要素が含まれているという意味のある言葉で、したがって盲目的なカではなく、目的のある英知を含んでいる何らかのパワーというような意味にとれますから、これは大変よい言葉です。
その意識によって私たちが生かされているということは、人体を克明に観察すれば素人でもわかります。例えば、ちょっと転んでひざをすりむいたというような場合、だれでもすぐに軟こうを塗ったりして一応手当てをしますね。しかし手当てをしないで放っておいても、皿がだんだん固まってきて、しまいにポロツと取れてて、下には薄い皮ができていて、自然に治ってきます。そういうふうに人間の体は本当にうまくできています。こういうようなことは人間の体のいたるところを観察すれば無限に見いだせるでしょうね。
そして、そういうふうにうまくつくったもとはいったい何かということを考えると不思議でしようがありません。第一、こうして人間というものが存在すること自体が不思議でしようがないです。ほかの動物ならともかく、人間というのは普通の動物とは飛び抜けて違いますからね。もちろん生物であることは間違いありませんが、しかし惑星を破壊してしまえるほどのカを持つものをつ<り出したり、あるいは別な惑星まで行ったり来たりできる宇宙船までも造り出しています。そんな英知を持った人間という動物が存在すること自体が不思議でしようがないです。
不思議がってばかりいても始まりませんが、しかしやはり、こういう人間というものをつくり出した何かの驚異的なー驚異的というのをはるかに超えた"カ"というものを認めざるを得ないということになりますね。
人間の体もそうですが、自然をそのまま観察すれば、その奥に何かがあるということは次第にわかってきます。釈尊が悟りを開かれたときも確かそうだったと思います、詳しいことは知りませんが。釈尊というのは正しく言えばゴータマ・シッダッタ、もつと正し<言えば、敬称として「悟った人」という意味の「ブッダ」という当時の言葉をつけてブッダ・ゴータマ・シッダッタと言います。普通は略してブッダと言いますが、このブッダがガヤーの町で悟りを開かれるまでは、森の中へ入って古代のヨギ(ヨガの行者)としての自己訓練をされたそうです。
そして骨と皮ばかりにやせ衰えて、歩くにもひざがぐにゃぐにゃしてよたよたするという状態だったようです。そういう苦行の後「しかし考えてみれば苦行のために苦しんだだけのことだ。こんなことをしていていったい何になるのか。これではいつまでたつても自分は進歩しない」というわけで、「もっと自然をありのままに見つめよう」というふうな考えを起こし、がぜんパーツと目が開けたというようなことだったと思います。
ですから結局、自然を見つめる、しかもありのままに見つめるということでしょうね。それをアダムスキーは重視して、ここで説いています。そうすればや宇宙の意識やというものの存在を認めざるを得なくなるはずです。
そしてこれは万物に宿って万物を生かしているということですから、当然のことながら人間にも頭のてっペんからつま先まであらゆる細胞もと満ちているわけです。細胞は原子から成り立っていますが、もちろん原子にも満ちています。そこで結局、私たちの体は、肉体というよりは全身が意識体であると言えます。
ところが普通の人は、人間なんてものは機械的な肉体だけの存在だと思っています。そして病気というのはその患部だけの故障であって、専門の医師でなければ治せないと思っていて、肉体を全く機械視しているわけです。しかしアダムスキー哲学によれば、そんなものではありません。肉体というのは全身いたるところがすごい英知こ満ちた意識体であるというようなことです。
ところで"宇宙の意識"を「宇宙意識」と言う方が多いようですが、この「の」の字が有ると無いとで意味がまるきり変わってしまいます。つまりこの「宇宙の」というのは形容詞で、「意識」というものの性質を表しています。宇宙全体に満ちる意識的な力・英知・生命といったものを意味しています。
ところが「宇宙意識」と言うと、宇宙にたいして人間が持っている考え方という意味になってしまいます。よく学生さんなどが街頭に立って「生活意識実体調査」というよ、うなアンケート調査をしていますが、ああいう揚合の「生活意識」というのは、人間が生活にたいして感じている意識的な考え方というような意味になります。つまり人間の持つ側のものです。それと同様に「宇宙意識」というのは、人間の持っている側の考え方のことになります。
"宇宙の意識"というのはそうでばなくて、宇宙全体に満ちている、そして宇宙全体を生かしている何かのカというような意味で使われています。英語ではCosmic Consciousness とアダムスキーは言っています。
宇宙の意識と心の一体化が重要
一方、心というものは、肉体によってつ<り出された器官にすぎません。しかしこれも重要です。ものを推理したり考えたりするための道具として必要です。ただし、心というのは人間の主に四つの感覚器官(目・耳・鼻・口)からつくられるものであるため、非常にあいまいな判断をすることもありますから、心だけで判断してはいけません。だから全身に満ちている意識と一体化させなければいけないというわけです。これがアダムスキーの爆弾宣言とも言える理論で、こういう哲学はー私もずいぶん調ペてみましたが−ほかにないですね。
そして、これが「進化した惑星の人間が自己を発達させるのに用いている方法です」となっています。なかなかピンとこないかもしれませんが、進化した惑星の人たちは、精神または心というものを、私たちの恕像を絶した使い方をしていて、心というもののあり方も地球人とはまるっきり違うようです。これもやはり10年ぐらい前に聞いた話ですが。そして優れた惑星の人には感情がないそうです。感情がないと言うと、何か冷たい顔をしたロボットみたいな人間を憩像されるかもしれませんが、そういう意味ではなくて、地球人が言うような感情はないということなのだそうです。彼らは心というものを完全にコントロールして内部の意識と一体化させているからそういうふうに言われたのだろうと思います。
とにかくそういうふうに内部の意識と心とを一体化させるならば、宇宙的なパワーによって内部から「こうしたらよい。ああしたらよい」という本当に正しい指令がいろいろやってきます。それに従えば間違いないというわけです。
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