心が求めるもの
さてきょうは第7課の「宇宙的記憶」というところです。原題は「Cosmic Memory」となっています。
最初のところを見ますと「人間は記憶力を持たないということはないので、記憶力こそ生活の続行にたいして基本的なものとなります。しかしほとんどの人が前生における体験を記憶していない理由は、心が過去に得た重要な価値ある物事を記憶する術を全然学んでいなかったためです」とあります。「心が過去に得た重要な価値ある物事を記憶する術を全然学んでいなかった」というのは少しあいまいな表現ですが、あとから具体的に出てきます。
続いて「心というものは、変動してやまない束の間の諾現象に頼っているのであり、特に『ほとんど価値はない』と自我が感じる、重要でない物事に執着したがります」とありますが、これは本当ですね。心というものは絶えず何か面白いことを求めていてしかも「あ−、面白かった。楽しかった」と思ったこともやがて忘れてしまい、また新しい快楽を求めます。ですから結局何にも覚えていません。何かを覚えようとするには受験生がするように参考書のある1カ所を猛烈に反復して唱えないと覚えられません。記憶というのはそんなものです。
私は今でも外国語をいろいろ勉強していますが、とにかく覚えるのが大変で、ちょっと何もやらないでいるとすぐ単語を忘れます。英語の難しい単語などは忘れる一方ですね。一時は3万5千語から4万語ぐらい覚えていたと思いますが、今では1万5、6千語知っていればいいところでしょうね。こんなことではプロの翻訳家としてやっていけません。辞書を見ればいいじやないかと思われるかもしれませんが、辞書を見ながら訳すのだったらだれでも訳せます。プロの翻訳家というのは、頭の中へ辞書をつめ込んでおいて、英文の原書を読むと同時にまるで日本語の文章を書き移すようなスピードで訳していかないと務まりませんね。しかし記憶力が優れている人はいいですが、私のように忘れっばい人間は常に覚えよう、覚えようと意識的になっていないと覚えられません。英語でさえそうですからましてスペイン語とかフランス語などになりますと、覚えては忘れ、覚えては忘れということを何度くり返しているかわかりませんね。
とにかく人間の日常の心は価値のないことのほうをよく覚えています。
地球における困難
そして次に「日常のきまりきった物事は習慣となり、自我を支配していますが、これを記憶と呼んではいけません。人間は宇宙的記憶≠つちかわない限り何もなりはしません」とありますが、本当の記憶とは宇宙的な記憶であり、これによって前生または過去世の記憶がはっきり残るのだということです。しかしこれは大変難しいことです。なぜかといいますと私たち地球人は、生まれ出た瞬間からものすごく低劣な想念波動の大海である地球という環境に置かれるために、除々に過去の記憶が消し去られてい<わけです。幼児のころにはだれしもまだ過去世の記憶が残っているはずですが、成長するに従って打ち消されてしまいます。そのために過去世のことをほとんど思い出せないということになるわけです。
いかに地球上に低劣な想念波動が充満しているかということば、赤ん坊が母親の胎内から生まれ出た瞬間にワーワー泣き叫ぶことでもわかります。つまり赤ん坊のような非常に純粋な状態でこの低い想念波動の大海の中に投げ出されると、地球の悲痛な想念を感じて赤ん坊がワーワー泣くわけです。これを医学的にはどのように解釈しているのか知りませんが、これは地球だけの現象らしくて、別な惑星ではそんなことはないようです。だいたい日常においても幼児が泣くということはめったにないようです。人間が泣くというのは地球だけでしょうね。それほどに私たちは悲痛な想念渡動の中に生きているということですから、絶えず自分の想念を高めるように注意していないとすぐに巻き込まれてしまいます。
宇宙の中の記憶喪失症
85ページのしまいを見ますと「自分の正体に関する記憶を失った人を例にあげましょう。こうした例はときどき起こります」とありますが、これは確かにあります。「裕福で、よい地位についていて、家族を維持している人が、自分の正体の記憶を失うとします。しかし本人は他の場所で新たに生活を再建し、家庭を持ち、普通の労働者として働きます。かっての知人から探し出されても、自分は別人だと主張して否定しますが、これはかつての生活に関する事を何一つ記憶していないからです。これは、最初の個性が心にたいして死減してしまい、一方肉体はなおも正体を保っていることを意味します」−こういう人はときどきあります。10年くらい前の新聞に、記憶喪失症に陥った中年の男の人が市ヶ谷の駅あたりからタクシーに乗って、目的地に着いて運転手さんから金を払ってくれと言われたら「お金とは何ですか?」と答えたそうです。うらやましい心境になれるもんですね(笑)。それでタクシーの運転手さんはあきれかえって交番へ連れて行ったということですが、この人はお金というものの存在を完全に忘れたわけです。それから、自分のかつての本当の名前や家族のことなどをすっかり忘れてしまい、全然別な人間になったつもりで生きてる人も実際にあるそうです。
そして86ページの4行目には「ところが人間の宇宙的な正体ということになれば、右と同様の事が一般人にもごく普通に起こっているのです。これこそ各人が前生についての記憶を持たない理由です」とあります。つまり私たちはみんな宇宙的な記憶喪失症になっているようなものだというわけです。
過去世の記憶
そういうわけで過去世の記憶というのは思い出すのが大変難しいのです。といってもある程度はわかります、だれにも。例えば外国を訪れてある場所に行ったときに、非常に懐かしい感じがして、自分は以前ここに住んでいたことがあるんじゃないかというようなフィーリングが起こった場合、あるいはまだ外国に行かないうちからある国に非常なあこがれを感じ、そこへ行ってみたいと思ったりするような場合は、やはり過去世の記憶が残っているからでしょう。GAP会員の方々はだいたいに金星とか土星とかいう非常に進歩した惑星に非常なあこがれを持つ人が多くて、そのためにこうして集まって研究していらっしゃるわけですが、それはかつてそのような惑星に住んだことがある方がその記憶をなんとなく保っているからであると言えるのでばないでしょうか。
ただ、そんなに簡単に過去世がわかるものでもありません。以前、GAP内部で過去世病≠ニいうのがはやりまして(病気みたいなものですね)お前の過去世はこうだった、自分はどうだった、お互い兄弟だった、姉妹だった、仲がよかった、ケンカをしたというふうに、まるで自分がその過去を見てきたように言う風潮がはやりました。そのため、遂に大きなトラブルが2、3起こりましたので、そんなことはやめようじやないかと私が呼びかけて、今はそんなことを言わないことにしています。
だいたい、他人の過去世などを簡単に透視できる人なんてめったにいません。もし本当に見える人がいるとしたら、その人は地球人のレベルをはるかに超えたものすごい人ですね。ですから自分の過去世さえ思い出せない人が、他人の過去世などわかるわけがありません。
しかしアダムスキーはそれができた人です。生前、2000年前のイエスの姿を透視して、それを大きな油絵にしたそうです。その絵は私も実際に見たことがあります。アダムスキーの弟子で、メキシコに住んでおられたマリア・クリスティーナ・デ・ルエダ夫人の大邸宅の2階の特別室にかけてありました。普通の人には見せないのだそうですが、1977年8月に私が尋ねていったときは特別にそこへ案内されて見せてもらいました。それを写真に撮って帰って、ずっと前のニューズレターの表駄に載せたことがあります。
ところがマリア夫人は数年前に亡くなられて、その絵は遺言によって棺の中に入れられ、一緒に焼かれてしまったそうですからもう残っておりません。惜しいことをしたものですが、ご本人の遺言ですからしようがないですね。
そのように、アダムスキーでこそ過去世を透視することができますが、普通の人には(私も含めてみなさん方にも)そう簡単に他人の過去世を透視するということはできませんね。仮にそういう能力があつたとしてもあまり人には言わないほうがいいのです。言えばトラブルのもとになりますからー。
宇宙的記憶を保つには
そういうわけで、本当の宇宙的な記憶というのは過去世の記憶としてちゃんと残っているはずです。自分では思い出せないながらも、ビデオテープのように万人の内部のどこかにそれが録画されてあるはずです。
その宇宙的な意識を保つためにはどうすればよいかといいますと、87ページのはじめに「もし心が意識と混合しなければ、それは〈心は〉生命の海の中で失われてしまうことがある」とありますように、自分の心を意識と混ぜ合わせればよいのだということです。これは『生命の科学』の中だけでも何度出てきたかしれませんが、結局はこれが唯一の手段なので、だからこそアダムスキーは何十ぺんも何百ぺんも繰り返して言っているのでしょう。
したがって心だけであれこれ踊り回っていたのでは「生命の海の中で失われてしまう」のです。そしてもちろん意識が持っている本当の宇宙的な記憶も思い出すことはないでしょう。
ですから「だからこそイエスのごとき偉大な指導者が『肉体を切る者を恐れないで、魂を切る者を恐れよ』と強調した」というところの「魂を切る者を恐れよ」というのは、本来心は意識に気づくべきなのに、そうさせないようにする者を恐れよという意味になります。
それでは心が意識に気づかないようにさせているものは何かといいますと、日常生活の中にたくさんあります。例えばそこの上野の坂を降りたあたりに映画館街がありますが、そこを通るとポルノ映画とかいうものの毒々しい大きな看板が目に映ります。そうしますと「これば面白そうだな」「入ってみようか」そしてあたりを見回して「GAP会員はいやしないだろうな」(一同笑〉 というわけで入ってみたりするわけです。そういうのはそのくだらない映画によって心が完全に切られた、つまり目という視党器官が外界にとらわれて、内部の宇宙の意識の存在を忘れ果てたと言えます。だからその状態を恐れよと言っているわけです。
心が切られるとはどういうことかといいますと、その次に「人間は二つの魂を持っています。センスマインド(肉体の心)の魂と意識の魂の二つです。いわゆる具体的なもろもろの結果(現象)にのみ執着することによって起こる記憶の喪失のために切られるのは(無価値とされてしまうのは)センスマインドです」とありますように、無価値になってしまうということです。
ですから結局「イエスは自分の心を意識と混和させていました」(p・87、8行目)・「これをなすためには、人は心に、神を信頼するように意識を信頼させねばなりません。これにはときとして盲信ともいうべきほどの強烈な信念を必要とします」(p.87、12−13行目)「ゆえに人間は意識で見ること≠キなわち心が意識と協力することの重要性に気づかねばなりません」(p.88、2〜3行目)とありますように、肉眼で物を見るのではなくて意識眼≠ナ見るというようなフィーリングを起こし、さらにそれを実際的な技術にしてしまうことが大切になります。そうすれば「永遠の生命」が得られるということです。
類は類を呼ぶ
そのように心と意識とを一体化させるということは、二人の人間が一体化するのと似ていると89ページのしまいにあります。例えば夫婦同士で何十年も一緒に生活しますと二人は本当に一体化してしまったというようなフィーリングが起こってくるものです。ただし2年や3年じやなかなか起こりません。何十年も一緒にいて、ときにはケンカをし、ときには仲よくするというようなことを繰り返していますと、いつの間にか相手が本当に自分の分身というような感じがしてくるものです。
そういうことを考え合わせますと「自分と意識は常に一体だ」というような言葉を唱えたり、あるいは意識≠ニいうものを絶えず心で意識していますと、いつの間にか自分は宇宙の意識的な人間だというようなフィーリングが起こってくるはずです。そういうことを全然考えもしないというのではダメです。まず考えること。それからそういうフィーリングを起こすこと。そして絶えずそういう言葉を唱えることが大切です、「自分は宇宙の意識と一体である」というふうに。宇宙の意識≠ニいうのがどうもピンと来ないという方はや神もと言っても構いませんし、天の父≠ニ呼んでも同じことです。あるいは宇宙のパワー≠ニ言ってもいいでしょう。言葉は何であれ、結局同じフィーリングで感じればそれでよいわけです。
それから90ページの2行目に「絶えず気になるような人または物が身辺にあると、それは(気になる物事は)そのまま自動的な現象となり、もはや努力は必要となくなることがわかります」とありますが、ここは大事なところです。「類は類を呼ぶ」という言葉がありますが、良き想念を持ち、そして他人にたいして良き態度を示すようにすれば、それに応じた同じような人が現れてきてつき合うようになり、援助してくれたりするようになります、必ず。
例えば私がそうです。 みなさん方はニューズレターをご覧になるとき、40ページほどの薄っペらなものですからペラペラツとめくってみて「なんだ、こんなもの」と思われるかもしれませんが、実はこれが完成するまでには大変な人手がかかっているのです。まず私が翻訳をしたり集まった記事を整理した上で原稿を毎号230枚ぐらい書きます。その原稿にしましても、そのまますぐ活字になるのではなく、まず写植(写真植字の略)屋さんに頼んで中の文字を全部写植で打ってもらいます。それからタイトルなどは別の写植屋さんに頼みます。そしてバラバラにできあがってきたものを私が全部自分でデザインして台紙にはり込みます。そして今度はそれを印刷所にまわしてそこでオフセット印刷にするのですが、そこでもまた写真製版の人とか、印刷されたものを裁断して閉じたりする製本屋とか、いろんな人の手に渡ってやっとあの40ページのものが1冊できるのです。
その写植屋さんですが、これはすごくいい人ですね。全くいい人です。この方は山形市の出身だそうですが、かなり安い値段で非常に誠実に写植を打ってもらっています。それから印刷を依頼しているのは、従業員を何人か抱えた中小企業の印刷屋さんですが、この社長がまた大変によい人で、もう10年以上のつき合いになります。
そのように私のまわりにはよい人ばかりが現れて来ては良い仕事を安くやってくれるというような状態になってきています。これも「類は類を呼ぶ」ということだろうと思います。
逆に以前やっておりました本格的な出版社の事業は大変に次元の低い世界であったものですから、必然的に私はその世界から外れてしまうことになりました。生活はちょっと難儀になりましたが、しかしそのほうが良かったですね。 あのまま出版屋を続けていたら今ごろ私はこの世にいなかったかもしれません。過労で倒れていたでしょう。生きていたところで、非常に低劣な人間になり下がって、GAP活動なんかやめてしまったかもしれません。やめはしないにしても、これほどに続けることはできなかったかもしれません。ですから自分の持つ想念がいかに重要であるかということがよくわかります。
>>第7課 2部へ続く |