■ 太古のパワー
ホピ・インディアンや古代マヤ、その他の中米の種族は、空中の大戦争、爆発による大都市の破壊、沈む大陸、大変動の後の文明の復活などを語り伝えている。
数千年間伝えられた伝説を記録した古代インドの古書には、ロケットや強烈な閃光のなかで全軍隊が全滅する様子が述べてある。これは、われわれ現代の人間には完全に理解できる現象である。
こうした伝説などをまとめると、バミューダ三角海域の謎の現象は、海底に沈んでいるピラミッドや、他の建造物の内部に残っている太古のパワーによって発生するのではないかとも考えられるのである。そして、このパワーがアトランティスのそれではないかと考える専門家が多い。バミューダ海域研究家のチャールズ・バーリッツもそのひとりである。
一方、科学はめざましい進歩をとげて、今や大気圏外から地球を観測し、地理学上はかりしれない貢献をするようになってきた。人工衛星から深海を見通して異常をキャッチすることもできるようになった。この科学の大発展により、大昔の失われた文明の謎も解決するかもしれないのだ。
■ 人工衛星、ジャングルの建造物を発見
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▲NASAが開発したレーダーはジャングルの下に運河網を発見した。 |
▲普通の航空写真ではうっそうととした大森林しか写らない。 |
もし月から地球を見れば、中国の万里の長城が唯一の人工建造物として肉眼で見えるだろうといわれている。だがまだ月面からそれを撮影した人はいない。
しかし、地球観測衛星は大気圏外から地球の写真を撮っており、数千年間失われていた古代の建造物をキャッチしているかもしれない。
地球観測衛星はNASA(アメリカ航空宇宙局)が打ち上げた物で、地球表面の地形、資源、農業の適地、水と森林の状況などを調査する目的で写真を撮るように作られており、これによって集められた情報はあらゆる国に提供される。
1975年12月30日に地球観測衛星ランドサット2号が打ち上げられて、ペルー南東のジャングルを900キロの高度から撮影した。
その写真類のなかの1枚が、不可解な8個の"点"を示していた。あとでわかったのだが、これは地面から出た突起物で、直線状に2列に並び、間隔は等しかった。さらに詳細に調査すると、これらは石の建造物であることがわかった。アンデス山脈高原地帯の奥地の大ジャングルのなかである。
その後、リマ市のアンデス考古学研究所が計算を行った結果、各建造物はエジプトのギザの大ピラミッドよりも少し低いことがわかった。
ランドサットは、900キロの高度から特殊なカメラと装置を用いて、地上の80メートル以上の長さの物体をキャッチできる。画像はデジタル信号化され、地上の中継局のパラボラ・アンテナへ向けて送信される。すると地上局でその信号を磁気テープに貯蔵し、カラーまたは白黒写真に変換するのである。
いったいに大気圏外から地球を見れば、人間の目にも信じられないほどの微細な部分が見えるらしい。1963年5月に打ち上げられたマーキュリー・ロケットで大気圏外へ飛び出したゴードン・クーパー宇宙飛行士は、地上の道路、建物、煙突から出る煙までも見えたと証言して人びとを驚かせている。
■ 植物に覆われたピラミッド群
さて、前述の8個の物体について、もっと近接調査をしようというので、普通の飛行機を低空で飛ばせて探査した結果、その物体群は、樹木でおおわれたピラミッドであることが判明した! しかも8基ではなくて12基あるのだ。もとの8基以外に少し小さいのが4基あり、これも2列に並んでいた。
現地を調査するために探険隊がくり出されたけれども、ものすごいジャングルにさえぎられて、死者や行方不明者が続出した。毒へど、毒虫などがうようよしているし、またこの地域に入ってくる侵入者を生きて帰さないインディアンが、音をたてない吹き矢、長い槍などで襲撃してくる。彼らはその地域を大昔の聖なる都市の跡と信じているのだ。
小型飛行機でこの上空を飛んで観察したアメリカ人探険家のハーブ・サウインスキーとフィリップ・ミラーはピラミッド群の写真を撮ったが、60メートルの低空で飛んだサウインスキーは次のように述べている。
「それらは植物におおわれた建造物らしい。左右対称にきちんと並んでいる。数基は頂上付近が決壊しており、このことは人工建造物であることを示している。全体をおおっている植物の色に差があるところを見ると、あたりの地面とは異なる材料で造られていることがわかる。
これ以外に長方形の構造物2つと、半円形の物体が2つあるが、8基のピラミッドほど高くはない。また全遺構の端には半円形の高い棟がある。これは壁かもしれない」
■ インカ以前の古代都市
この謎の遺跡は何を物語るのだろうか。ペルー奥地の原始的なインディアンが、高さ100メートルを越えるような大石造記念物を建造するほどの技術をもつとは思えない。だいいち、これらは樹木におおわれて肌を見せないほどに古いのだ。一体誰が建造したのだろうか?
おそらく、インカ以前のはるか昔に存在した種族によって造られた、古代都市の遺跡ではあるまいか。
これについては、第3章で紹介したイギリス陸軍大佐パーシー・フォーセットの確信がふたたび思いだされるのである。現在、南米の奥地に眠っている古代都市の遺跡は、以前海中に沈んだ大陸からのがれてきた人びとが建造したというのだ。そして彼が、現在の広大なブラジルの一部はアトランティスと関連があったと考えて、大ジャングルを探険し、悲劇的な最期をとげたことは前に述べた。
大佐の推測は、はからずも数十年後に、ランドサット衛星によって少し実証されてきたかの感がある。
■ ホピ・インディアン |
■ 地球観測衛星 |
■ アトランティスはどこに!? |
北アメリカ、アリゾナ州に住むインディアンの一種族。いれゆるフエフロ・インディアンのうちでも、もっとも代表的なものである。粘土と石で作った家に住み、農業を主体とした生活をしている。平原インディアンに比べきわめて温順、平和的であり「ホピ」という名も「平和な者」という意味からつけられた。 |
気象衛星、静止衛星など、主に地球の気象状況や海流変化などを調査する人工衛星の総称。
日本の気象衛星 「ひまわり」も、地球観測衛星のひとつである |
プラトン以来2000年が経過した。その間多くの学者や研究者が推測したアトランティスの場所は45ヶ所以上にもなる。アトランティス実在説を主張する研究者の中には、プレートテクニクスの活動によってアトランティスは地中に埋没したと言う人もいる。 |
■ マルセル・オム教授の探検
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▲オム教授と愛犬マルアイ。 |
1949年の秋のことである。フランスの考古学者で、後にブラジルのサンパウロにあるアメリカ人博物館長になったマルセル・オム教授が、南米考古学センターの依頼により、ブラジル北部のジャングル地帯の奥を探険した。
教授は、ブラジルの大未開地の謎の古代遺跡を組織的に調査した最初の科学者である。彼自身はブラジルの北部一帯を、1万数千年前に海中に没したアトランティスの一部である、と確信していたのだった。
オム教授は、アルジェリアのアルジェ大学で考古学を学び、母校でアラビア古典を教えたのち、1940年にアメリカ、ハイチ、ベネズエラ経由でブラジルへ行った。ここで落ち着いて南米古代の遺跡研究に没頭するようになったのである。その前には、アフリカ大陸で15年をすごして、地中海沿岸の古代遺跡を調査した。さらにピグミー族も調査して、サハラ砂漠の有名な岩石彫刻紋様等も研究している。
こうした研究は、すべて先史文明のアトランティスの謎を解明しようとした結果であり、教授自身はアトランティス大西洋説をとなえていた。したがって、49年の探険行は数度にわたるアマゾン川流域調査の最終的な大探険であった。
10月に出発した一行の目的地はブラジルの最北端、ベネズエラと英領ギアナとの国境地帯で、太古からの謎につつまれた秘境である。教授、夫人、数名の従者、それに愛犬マルアイからなる一行の進路には多くの困難と危険が待ち構えていたが、マルアイがたびたび教授を危機から救出して事なきを得ることがあった。
目的地は、直線距離でいうと北方の英領ギアナの海岸町ジョージタウンから500キロばかりの、大アマゾンの支流ブランコ川の上流のゴチンゴ川流域地帯である。このあたりは平野だが、北側にべネズエラからギアナにかけてバカライマ山岳地帯が巨大な壁をなしているので、北側からの侵入は容易ではない。
また、アマゾン川北端にあるゴテンゴ川流域には、標高2500メートルのセルラ・ド・ソル山がそび、え、その他1000メートル級の山々がつらなっているので、ギアナ側からは簡単に入れないのである。
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▲ペドラ・ピンターダの全景。岩のあちこちに赤い塗料で塗られたドルメンが置かれている。 |
■ 謎の大岩石、ペドラ・ピンターダ
一行がタラメというところへ来たとき、その付近にべドラ・ピンターダという巨大な岩があるのを発見した。ぺドラ・ピンターダとはポルトガル語で「色を塗った岩」という意味である。
その名の示すとおり、この岩には赤い塗料を塗ったドルメンがあちこちに置かれている。岩の高さは30メートル、長さ100メートル、奥行80メートルという途方もない巨大な花崗岩のひとつ岩だ。これは太古の文明の遺跡なのだろうか。広漠たる平野の中に雄大にそびえている姿は印象的だ。幸いなことにこの辺一帯には凶暴なインディアンもいないし、猛獣やアナコンダも現れない。
教授一行は畏敬の念をもって近づいた。 「おや、奇妙な図形が刻まれているぞ!」
さすがの教授も、まだ見たことのない不思議な紋様や図形が岩の表面600平方メートルにわたって、ぎっしりと刻まれているのを見て驚喜した。
「うー。すごい物を発見したぞ!これはこの文明のものではない。1万年以上昔の先史文明の遺跡だろう!」
オム教授は狂ったように無数の彫刻を撮影したりスケッチして歩いた。そしてこれらを「アトランティス文明の石の書物」と呼んだ。アトランティスの巨石文化遺跡の一部と考えたオ ム教授は、探険後にこのことを『太陽の子ら』と題するすばらしい書物のなかで詳しく述べている。
このべドラ・ピンターダへ来たとき、豪雨にみまわれて一行は岩の内部へ入り、ここで一夜をすごした。この巨大な岩の内部には人工的な通路や洞窟などがある。一同が発見したのは"埋葬の洞窟"と"骸骨の洞窟"と名づけた、ぶきみな部屋である。
"骸骨の洞窟"では多数の人骨が発見された。ここで一同は人骨とともに夜をすごしたのだが、この夜、横になっている教授の眼の前に多数の亡霊が出現し、"血のいけにえの踊り"と後で名づけた気味悪い踊りを演じたという。まことに恐怖すべき一夜であった、と教授は述べている。
岩の内部の探険は興味深いものだった。あちこちに小洞穴や赤い色を塗ったドルメンがあり、儀式に使用したと思われる演壇も数筒所あった。太古の文明の人間が聖なる場所とした跡らしい。
■ 太古の不思議な図形
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▲オム教授がペドラ・ピンターダで発見した不思議な図形。 |
マルセル・オム教授の探険で発見したもっとも重要なものは、このべドラ・ピンターダそのものではなく、ペドラ近くにあった石器に刻まれた小さな図形である。
長い間風雨にさらされてかなり磨滅していたため、教授はさほど気にもとめなかったが、いちおう参考資料として写真にとっておくことにした。
後に教授は、アメリカのコンタクティー(異星人と接触した人)として名高いジョージ・アダムスキーの著書『空飛ぶ円盤は着陸した』を読んでびっくり仰天した。なんとその本には、教授がもち帰った石器に刻まれていた図形や文字と同じ種類とおぼしきものが掲載されていたのだ。アダムスキーはその図形を異星人から与えられたといっている。
この点について教授は、「私はアダムスキーの本を読むまでは、自分が発見した図形についてほとんど関心がなかった」という。
アダムスキーがこの本を最初にロンドンのワーナ一ローリー社から出版したのは1953年。 これは、オム教授が『太陽の子ら』を出版する以前のことだから、アダムスキーがオム教授の発見を知っているはずはない。だいいち、たがいに未知の人間で、事前に連絡が行われた事実もないのである。
ということは、1万2000年前のアトランティス文明当時に、すでに異星人が地球に来ていたことを立証すると同時に、アダムスキーの異星図形と文字も真実のものであることを証明することになる。
■ ピグミー族 |
■ ドルメン |
■ アナコンダ |
アフリカ、東南アジア、メラネシア地域に住む平均身長150センチ以下の民族の総称。とくにアフリカのコンゴ盆地に住む民族を指す場合もある。 |
原始時代の巨大な石造墳墓。環状列石、立石などとも密接な関係をもっている。ドルメンは、ヨーロッパ、アジア、アフリカの各地て発見されているが、その特徴には違いがある。 |
中南米の熱帯域に生息する地上最大のヘビで、休長12メートルに達するといわれている。水辺に近づく動物にかみつき、しめ殺したのち飲みこむ。毒はないが、歯がするどい。 |
第5章2部へ続く |