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新アダムスキー全集

 ├ 写 真
中央アート出版社
TEL : 03-3561-7017
E-mail :info@chuoart.co.jp
  解説 テレパシー

第2章 2部 1980年 2月9日 解説
第1章1部 第1章2部 第1章3部 第2章1部 第2章2部 第2章3部

『人間の四つの感覚器官』

最高の英知を知る方法

 さて、26ページに行きますと「最高の英知を知る方法」とあります。「最高の英知を知る方法」とはどういう方法か。これもたった−語で表わせるらしいんですが、真中へんのゴシック体で書いてある「自分自身を知れ。そうすればあらゆることがわかるだろうきという有名な言葉がそれですね。誰でも自分自身というものがわからないl状態でありながら他がわかるわけがないですからねえ。従って、例えば自然の驚異を感じる身分とはいったい何か、驚異を起こすような衝動が自分の中にどうして起こるんだろうかと、とようなことを考えてみますと、それによって自然界のいろいろな神秘的な状態もわかるようになるんだという意味だと思います。よく「自分のことは自分が−番よく知っているよ」と言う人がおりますがそういう人に限って全く知っていないということば言えるでしょう。

 なかなか自分のことはわからないものです、自分ですからね。ですから自分の、色々な欠点とか悪い癖他人に指摘されるまで気がつかないということがよくあるわけです。この「自分自身を知る」という有名な言葉は古代中部ギリシャのフォティス地方の古代都市にデルフォイの神殿というのがありまして(ここはアポロの神託書があった重要な聖地なんですが)そこのみこによる神託(神のお告げですね)です、これは。

 神託によって「なんじ自身を知れ」ということが言われたと伝えられているんですが、古いことなのでよくわかりません。それにしましても、やはりこれは永遠の真理でしょうね。そして人間として生きている以上、人間たる自分とはいったい何なのか、ということを知ることは永遠の課題でもあるでしょう。

宇宙の英知  

 そうやってありとあらゆるものは宇宙の英知―カを伴っている宇宙の英知ですね(カつまりエネルギーーが伴わないといけません)そのエネルギーを伴った宇宙の英知というようなものによって人間をはじめありとあらゆるものが創造され生かされているんだということが次第にわかってくるはずなんです。

 その一番よい例としまして27ページのしまいのところですね、4行ほどありますが「私の地上の両親は私の肉体の出生にたいして一つの経路として役立ったにすぎません。

 実は”宇宙の英知”のなかのこの”力”が計画をたてて、私の肉体の建設を指導したのです。如何なる妊婦といえども同じことです。母体はこの”主なる建設者”のために必要な材料を供給しますが、母体の内部でおこる創造の驚異を支配はしません」とあります。

 ここのところはよく引き合いに出されるんですが、いったい人間はどうして造り出されるのかという問題ですが、これはまあ、簡単に言えばお父ちゃんとお母ちゃんがせんそうやったからだと言えばそれまでですが、そんなことじゃ解決にならないですねえ。実はこの両親も本当はどうして子供というものが、はらまれて、そして成長していくか知らないんです。ま、医学的にはかなりわかってはいるでしょうが、いよいよのもとはまずわからない。

 ここで自分の地上の両親というものは「私の肉体の出生にたいして−つの経路として役立ったにすぎない」ということがよく誤解されるんですが、こういうことを言っているというんで、アダムスキーは親孝行というものの概念に反して、何か、親不孝のような、そういう思想を吹き込もうとしているというふうふうに前に言った人があります。これは大きな勘違いです。ここでアダムスキーは親不孝を言っているんじゃないんです。

 つまり、実際に−人の人間が創造されて(つまり、つくられて)、そしてこの世に出てくるためのその根元なるカを与え、英知を与えたのはこれは両親じゃなくて、実は両親の体内に宿るところの"英知”または”生命・パワー”ですね、こういうようなものなんだという、もっと深いことを言っているわけなんです。

 だから何もアダムスキーが親不孝を言っているわけじゃないんですが、しかしずっと以前、ここんところを一部の人々によって誤解されまして、そしてGAPを去って行った人もあったんです、「アダムスキーは親不孝を唱えている」と言って。これは誤解も甚だしいもんです。ですから母体は(母親は)ですね「この”主なる建設者”」すなわち宇宙の英知ですが、それのために「必要な材料を供給します。」これは当然そうです。

 材料といえば要するに胎児が成長するための栄養分でしょうね、それを供給しますが「母体の内部でおこる創造の驚異を支配」はしない。支配しないどころか、母親にもわからないんです、腹の中でどういうふうに子供が大きくなっていっているかということは。

  もちろん見えもしませんし、第一あんまり普通の人はそういう医学的な知識もありませんね。まあ、結局、なぜこうして母親の体の中で、まだ空気も吸っていない小さな胎児がですね、ほんの小さな人形みたいなものがああして自然に大きくなっていくんだろうかというようなことは人間にわかるわけないです。

 そして28ペ―ジへ行きますと「以上のような考え方をおしすすめてゆくうちに、私は一大発見をしました。妊婦にむかって子供の生まれる時期を予告できますかとたずねても、彼女は『いいえ』と答えるでしょう。もちろん誰にもわからない。「彼女は女は赤ん坊の動きをどうすることもできないのです。」ときどき腹の中で動くらしいんですがね。「そしてそれが動いたという知識は行為が行なわれたのちに警戒すなわち感じとして彼女にわきおこってきます。」

 これも当然です。「したがって、私たちが触感といっている彼女の感じを通じて母親に知らせを伝えるのは英知あるカなのです。」ここでですね、触感とか触覚というものが最も基本的な重要なものになるんだということを言おうとしているわけですね。

  人間のありとあらゆる感覚の中で最もも重要なのは触感(触れるという感じですね、何かに触れて「触れた」という感じですね)であるということです。これによって私たちはやはりひとつの想念が発生します。

 想念の発生もやはりあれはひとつの触感によって起こると考えられるんです。触感つまり他からくる波動が自分の内部の基本的な触覚要素に触れて、そしてそれが脳髄で増臆されてひとつの想念となってわき起こるというふうに考えられますから、根本的に重要なのは触感であると。ただし体の一番外側の皮膚ですね、これはもちろん触感を起こしはしますが、しかし人間の持つ基本的な触感の一番外側にある最も鈍い感覚ですね、皮膚の触感というものは。

  これは物に触れなければ「触れた」という感じを起こしませんから最も鈍い感覚ですが、この内部に行くに従って次第に鋭い感覚器官があって、そうしていよいよ基本的な中心部に(中心部と言っても体の真中じゃないんですが)あらゆる波動を感じることができる触覚要素というものがあるんだというようなことをアダムスキーの理論で私たちは学んでいるわけです。

 そこで「いいかえれば、触覚は万物の内部にある創造力をもつカです」と。これが触覚要素というものが封造カを持つカでありまた生命だというふうなことを言っているようですね。人間は体に宿る生命というものをばく然と考えています。何かの生かすカだろうぐらいにしか思っていませんが、実は触覚要素だということなんです。ですからその触覚要素というものが体全体を支配しているのならば、それに支配されている感覚器官のうちで主なものは四つしかなく(目と耳と鼻と口の4つの感覚器官ですね)それ以外に主な感覚器官は5つはないし、同様に六感というものもないと。従ってテレパシー現象はいよいよ基本的な、内部の本当の中心的な触覚要素によって発生するひとつの"感じ”というもの、それが要するに増幅されてそして我々のマインドに伝えられるものであろうとこう考えるわけですね。

 ですから肉眼というものはそのときは必要ないですね。耳も必要なくなってきます。肉眼はなくても、要するに盲目であっても物をみるカのある人がいますからね。そうなるともう、肉眼というものはひとつの光の波動を感じる道具に過ぎないもんで、光よりも別な性質の、もっともっと高次な波動を感じるにはもっと別な触覚要素が必要だということになるわけです。

 これ、いつかテレビでずっと昔やっていましたが、アメリカの少年で小さいとき目を怪我してそして片目をきれいにくり抜いて代わりにガラスの入れ目をしている少年がいるんです。入れ目をしているのは確か右側だったと思いますが、左側の目は普通のあたりまえの目なんです。その少年が左の本物の目をふさいで(ふさぐと完全に何も見えないはずです、右は入れ目ですからね)机の上に置いてあるものを、これは何だ、これは何だと当てることができるんですね。そういう超能力少年をずっと以前、テレビで見たことがありますが、こうなりますともう、これば肉眼というようなものではなく、全然別個な方法でものを見ているということになるわけです。

 きのうも新聞に出ていましたね、読売新聞ですが、最近中国で超能力少年が、何か7〜8人集められて科学者の前ですごいことをやってみせたと。例えば、足の裏で封をされたものの中に入れてあるものを当てたり(足の裏で当てるんです!)あるいはわきの下で当てる。―どうして当てるのか知りませんがね。とにかく目を全然つかわないで封をされたものの中の品物を当てるというんで科学者が大変驚いたということがきのう、新聞に出ていましたがね。切り抜きを持ってこようと思ったらもうその新聞、家の者が処理してしまらて見当たらなかったので、きょう、持ってこれなかったんですが、きのうの読売に出ています。まあ、中国あたりでああいう報道を出すようになったというのは実に素晴らしいことでして、大変参考になったんですがね。

【触覚ーすなわち基本的感覚

四つの感覚器官は独立している

 ですからこの触覚というものが基本的感覚器官であって、それはさらにコントローールされているのが四つの感覚器官であり、しかもこの四つの感覚器宮はそれぞわ独立しているんだということなんですね。互いに独立して、しかも普通一般の人間の場合はその四つの感覚器官がそれぞれ勝手な解釈をしてケンカし合っているということをアダムスキーが言っているんです。このことについて「普通の医学約な分野ではあんまりまだこういうところまで研究されていないんじゃないか、アダムスキーだけが勝手にこんなことを言っているんではないか」と思われるかも知れませんが、実はそうじやないんです。

 これはですね、前にもお話したことがありますが、例えば目ですね、目というのは、まあ、ものを見るだけのものなんです。つまり外部からくる光の波動を網膜がキャッチしてそしてそれによって何らかの電気信号(ま、電気的なものでしょう)を起こして神経へ伝わって、そして脳へ送って脳で増幅されてそして物が見えるという感覚を、感じを起こすんでしょうね。

 これも一種の接触です。つまり触感ともいえるでしょうね。ところがそのとき網膜が勝手な解釈をしているんだという研究が実は昔から行われていまして、これを研究した学者は河人もいるんですがね。日本で有名なのはずっと以前、東北大学の学長をやっておられた本山博士という偉大な学者がおられまして、この方が網膜の研究をなさって、そして網膜が勝手な解釈をしているんだという研究結果を発表したわけですね。これが大変な大発見だというのでノーペル賞になるところだったんですが、惜しいことにオーストラリアあたりでしたかね、その学者に先を越されてノーベル賞にならなかったそうですがね。そういうような科学的な研究によって網膜が勝手な解釈をしているということは証明されているんです。これは網膜の細胞に限ったことではないですね。人閏の体は基本的には全て細胞ですからね、それがみんな勝手に解釈し合っているんだと。

 まあ、細胞というのもまた生き物ですからね、生き物ですからそういうふうにちゃんとしたひとつの意識を持っていると言いますか、あるいはフィーリングを起こすと言いますかね、そういう状態だということがある程度言えるわけです。これをもっと医学的に細かく勉強しようとされますならば、朝倉書店という出版社から「生理光学」という本が出ているんです。私はまだ読んだことがないんですがかなり専門的な専門書だそうでして、値段も4500円というちょっとした値段なもんですから「4500円ありゃあ、2枚組のレコードのいいのが買えるんだがなあ」(一同笑)という感じもするもんですからちょっと手が出ないんですが、余裕のある方はお読みになるとよいでしょう。

  しかし、かなり専門的な用語があるらしいんでちょっと読みづらいかも知れませんですね。その24ページに「大脳の生理」というところがあって、ここに細かく書いてあると、それから146ページに網膜及び何々というふうに、網膜が独自の解釈をするということが説明してあるそうです。ま、そういうわけでして、アダムスキーがここで言っておりますことは、もう既にに科学的ににちゃんと地球上でもある程度知られてはいることなんですが、一般ではなかなかまだそういうことを学校なんかでは教えないらしく、「四つの感覚器官がそれぞれ独立して勝手に解釈しているんだ」というようなことを言いましても普通の人は受け入れないですね。

心は暴君

  それで四つの感覚器官がそれぞれ独立して勝手に解釈してお互いにケンカをやっておれば、当然混乱がおこりますね。だいたい人間のマインドというのは四つめ感覚器官の解釈によって発生するものであるということをアダムスキーが言っているんです。そこでお互いに感覚器官がケンカし合っておれば結局は心というも中は落ち着かないですね。それによって形成された心は混乱に満ちていて落ち着かない―統制されていないわけですね。ですから33ページのしまいに「暴君のようにふるまっているではありませんか!」「”宇宙の因”を知る者ではなかったのです」とこうありますね。

  34ページに行きますと「次のように説明してみましょう。日常私たちが出会う普通の人々の心は、本人の四つの感官」(感覚器官ですね)「の反応から集められた意見を表現しているにすぎません」と。これが今私が申しましたことが書いてあるわけです。「それゆえ、本人のいわゆる知性は、その人の好ききらい、その人の理解していないものすペてにたいする一人勝手な判断などによって左右されます。」

  つまりですね、私たちは何かものを見ますときにー例えば他人を見た場合、「どうもあの人は、自分はきらいだ」「何か、顔の格好が気にくわないな」というふうに思いますね。それは実は自分の目が借手に解釈しているんだ、目が好ききらいをおこしてそういうふうに言っているんだということになるわけです。ところが、顔かたちはどうもあまり好きではないが、あの人の声はなかなかきれいだというふうにまた一方でそういう印象が起こるかも知れません。

  それは耳の方が、耳という生き物が今度は相手の音声をキャッチして勝手に解釈して「こりゃなかなかいい声だ」と言うわけです。例えば男性でいう太い声を―私の声みたいに。あ、こういうの「マダムキラー」というんだそうですね。(一同笑う)とにかくそういうふうにそれぞれが勝手に解釈をするというようなことから両方がケンカするわけです。「あの人は顔はあんまりよくないが声はきれいだから好ましいところもあるが好ましくないところもある、あの人を自分の友だちにしようかすまいかどうしようかな」と思って迷いますね。この迷いの状態が感覚器官同士がケンカをし合っている状態だと、こういうわけです。特に、人間の目をひくような非常に官能的な刺激的なものが何かあってですね、それに目を奪われますと、本当に文字通りそれは「目を奪われる」ということになるわけです。自分の目が勝手にそれを好んでですね、「あそこへ行ってみよう」「入ってみよう」というふうに騒ぎ立てるわけですね。

 ではどうすればよいかといいますと各感覚器官をですね、自分の意志でもって―「意志でもって」ということはばく然とした抽象的な言い方ですが、ま、とにかく意志でもってそれを抑制してコントロールしてですね、目と耳と鼻と口、この四つをはっきり自分で意識して、何かつまらないものに目が奪われそうになったならば、「やめとけ!」と言って自分で自分のまぶたをつまんで見せないようにするぐらいの意志の力が必要になってくると思います。あるいは何かくだらないことを聞いたり耳にしたりするような場合に耳がその方に傾きそうになったら自分で耳をふさいでですね、それを聞かないようにするというような積極的な抑制策が必要ですね。これをやらないともう、ダメです。 

  こういうことを全くやらないでですね、自分の感覚器官の抑制法をやらないでただ「神の愛」だとかやれ「神は万人を愛し給う」とかの抽象的な言葉に陶酔していてもダメなんです。人間が向上しませんね。実際にそういうふうに感覚器官をコントロールして自己訓練を猛烈にやるような傾向があるのはこれは古代インドのヨガを中心とした東洋哲学であって、西洋の哲学ではこういうことばダメです。
               
 それで、目と耳が互いにケンカし合っているという例えが35ページに書いてあります。ま、これはお読みになればわかりますね。で、「目は人を見ます耳は音を聞きません。そこで、ウソをついているといって聴覚は視覚を非難します。」 これが、迷いの状態です。入間が迷っている状態です。ですから人間は迷う動物なんだ、迷いやすいものなんだとよく言われますが、それはもっと具体的に言えば、人間というものは自分の感覚器官をコントロールできない動物なんだとも言えるでしょう。

>>第2章3部へ続く

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