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新アダムスキー全集

 ├ 写 真
中央アート出版社
TEL : 03-3561-7017
E-mail :info@chuoart.co.jp
  解説 テレパシー

第2章 1部 1980年 2月9日 解説
第1章1部 第1章2部 第1章3部 第2章1部 第2章2部 第2章3部

 皆さん今日は。今日はよくいらっしゃいましてありがとうございました。とりあえず「テレパシー」の19ページ「人間の四つの感覚器官」というところから解説いたしたいと思います。 人間には4つの主な感覚器官がございますが、しかし、人間の体は感覚器官だらけで、言ってみれば全身が感覚器官であり、とにかく感覚のないところはまずあるまいと思われるほど充満しているわけですが、その中でも特に人間のマインド(心)を形成するところの目と耳と鼻と口ですね、これがいかに重要であるかということが大体、今日のところで述べてあります。

テレパシーは誰にでも潜在する能力

  人間のこのテレパシー現象は昔"第六感"というものがあるんだというふうに言われておりましたが、アダムスキーはそうではなくて4つの感覚器官をさらにコントロールしているところの基本的なものがあって、仮にこれを"五感"と言うならば、その第五感であるところの触覚ですね、そういうようなものがあって、これがテレパシーの一番根元的なカを発揮するものであるということを言っているわけです。

 ですからテレパシーが六感だというような考え方は間違いだと言っているんですが、それはそうでしょうね、「六感」と言うと非常に神秘的な意味を帯びてきまして、幾分、六感のある人とない人というふうに区別をしてしまうことになりますが、そうじゃなくて人間なら肉体を持って生きている以上、誰の体の中にも第五感としての基本的な触覚があるんだということをアダムスキーは言っているわけです。そうなれば誰でもテレパシーの潜在能力はあるんだということになりまして、私たちにも開発できる希望が開けてくるわけです。

  六感として、そういう神秘的な能力を持つ人しかテレパシーのカは発揮できないんだというふうにしてしまいますと、もう私たちには関心がなくなってしまいます。これでは、いけないわけですね。

自然の驚異

  アダムスキーはまず万物の底を流れているひとつの根元なる英知またはパワーというようなものを知ろうというわけで、21ページに行きますと、自然の風景を観察して大変な驚異を感じたと言っておりますね。

 例えば「南のそよ風に芳香をただよわすオレンジの木は、大気の状態を科学的に分析して温和な気候だけが生存に適していることを知るのではありません。この愛すべき木は自然の法則にしたがって自己の永続性を保証しているのです。したがって"自然"は気まぐれに寒帯地へタネをまき散らしたりすることはなく、日光のあたたかい土地にまくのです」とこうありますね。

  確かにオレンジといいますのは暖かいところでないと、これはできない果物でありまして、カリフォルニアの、特に南部一帯がオレンジの名産地です。寒いところにはまずできませんので寒いところへ種を持って行ってまいても全然ダメなんですね。同様に寒いところでできる植物を暖かいところ、または熱帯地方へ持って行ってもダメです。ということから考えますと自然というものは何かひとつの根元的なもの、すなわちひとつの法則によって性質が決められておりまして、その法則に逆らって人間があれこれ間違ったことをやってもそれはダメだということになります。

  それからカシの木は絶壁の斜面にしっかりと根を張って巨大な木を交えているわけですが、これなんかも自然は計算尺を使って荷重やら何やらを計算したんじゃないんだと。何か知らないけれども倒れそうになればその方に強い根が張っていってですね、そして倒れないようにするというわけです。

  ホントにひとりでにそうなるんですが、これ、ひとりでになるというので「偶然だ、偶然だ」と言って片付けていたら、これじゃあもう何も自然の驚異というものを見出すことはできないですね。偶然というものは世の中にないわけでして、中には何トンもあるようなカシの木があるでしょうが、それが絶壁に生えていても下へひっくり返らないようにしているのはやはり巨大な根が下の方に張っているからで、そういうふうに何か英知あるカというものがカシの木全体をコントロールしているに違いないんです。そういうことにまず気がつかなくちゃいけないんだということを言っているわけですね。

 ですから私たちはテレパシーの能力を発揮するということを単なる超能力の見世物的なものとして考えますとダメなんです。テレパシーというのは人間が宇宙的な生き方をするための根元的なものであり、この方向へ向かわなくちゃダメなんだというような認識を持ってですね、そうして「まず、自然を観察する」ということの一語に尽きるようですね。

  今の人間は自然など、もう観察しやしないんです。まあ、地方で農業などをやっておられる方は大変よい機会に恵まれていますけれども、こんな大東京のコンクリート・ジャングルの中で過ごしている私たちはもう自然の驚異なんてものを感じる機会はないですからどうしても人間が鈍感になり、そしてまた、いわば無感覚になりますねえ。

  このごろの青少年が「五無主義」といいまして ― つまり無感動・無気力・無関心・無責任・無作法ですね、そういうつまらない人間に成り下がってしまったとこの前の日教組の大会で発表されたそうですが(日教組の大会でしたかね)大変残念なことですが、しかし、自然からとにかく離れよう、、離れようというような生活態度あるいは教育なもんですから、どうしても白然の驚異というものを感じることができなくなってしまった、そこで無感動になり無気力になる、無気力になれば当然無責任になりますからね、それで無責任になれば当然またこれは無作法にもなってくるんで、全く自分以外の外界というものを考えることができないというような人間になりやすいでしょう。

 ですからまあ、私たちは書物を捨てて野外へ出て行って自然のいろんな植物や動物などを観察して「ああ、素晴らしいなあ」と感動するような機会を持つこ方がいいですね。その意味であとから発表しますが、素晴らしい企画がありますので楽しみにお待ち下さい。(注:腕時計を見ながら)あともう1時間ほどですね (一同繁笑)。

  サスガ日本G A Pだというような素晴らしい企画があるんです。「なかなかやることが違うなあ」(一同笑)というようなことなんですがね。それはまあ別としまして・・・・。(注:「素晴らしい企画」というのは1980年5月17・18両日に行なわれた「GAP河口湖パスツアー」と称する富士山周辺の1泊2日の短距離旅行) 

  それから21ページのしまいに「木の根もとに生い茂っている野生のポピーや、斜面に点在するヨモギの茂みなどもすべて同じ造化の原理を証明しています。」と。ほんの小さな草花を見ましても「これが人間の手でつくれるだろうか」というと絶対つくれないですね。

 生きた草花というものはどんなに小さくても人間の手ではつくれないんです。似たような造花はつくれますが、ホントに生きた植物は絶対つくれない。だからそのことが22ページで「私が心から感じたのは地上の如何なる人間といえどもこの草の葉をつくることはできないということでした。"自然"だけが種子を発芽させ、その芽を固い土の中から日光の方へ導き、立派に成熟させたのです」とあるわけです。

 ま、人間にしてもそうですが、ひとつの種の中にもやはり青写真が描かれていて、そしてある−定の大きさになったら成熟して、それからあとはまた枯れて散るというようなパターンが決まっているようでして、それにみんな従っているわけですね。じゃ、その青写真を誰が描いたかといいますとこれは当然宇宙の創造主ともいうべきひとつの"英知ある力""絶対的なもの"でしょうね、それが全て青写真を描いているということなんです。そういうふうに考えますと生命の尊厳さというものをこれぐらい強く感じさせられることはないですね。どんなつまらなく見える人間でもみんな創造主の青写真によってちゃんと成長したんだということになりますと、もう他人を傷つけることはできないですね。

 その次へ行きますと「ついで私は目を移して小鳥、コン虫、獣などを仔細に観察してみましたが、これらのどれにもやはり同じ造化の驚異を見いだしました」とあります。え−、全くの偶然に生きているような小さな動物でも本当は偶然じゃなくてみんなそれぞれ目的を持ってちゃんと生きているということですね。

 特にビーバーという動物のことが書いてありますね。これをパラシュートで降下させて山の中へばらまきますと、彼らはすぐ集まってダムを築くわけなんです。こればダムを作る能力を持っていますからね。それで「毎年春季になると低い渓谷へ流れ込む大洪水を未然に防いでいるんだということです。

 ビーバーといいますのはネズミを少し大きくしたような、長さがだいたい20〜30cmぐらいですかね、茶かっ色のかわいい動物です。これはすぐ近くにいます、上野動物園にいけば。で、その能力にめをつけたアメリカ人がパラシュートで大量に空中から降ろしてダムを築かせるっていうんですからなかなかスケールの大きいことをアメリカではやっているわけです。そのビーバーはダムをつくるのに「これぐらいの高さ・幅でつくれば水が防れるだろう」というようなことをいちいち計算しているわけでも何でもなく、彼らはただ何となくひとつのフィーリングまたは衝動によってつくっているんでしょう。

 しかもそれが立派に用を成すということなんです。そういうふうにありとあらゆる動物が内部フィーリングによって立派な役目を果たしているということですね。そして「地上で創造された最高の存在である人間」はそういう万物に依存しているのであるということなんです。

自然のいとなみ

  次に昆虫の例があります。昆虫というのはいかにも害虫みたいなものが多いように思われがちですけれども、実際はたくさんの益虫もいるわけでして、それらが大量に移動しながら活動しているからこそいろいろの植物がうまく成長するんだという面もあるんですが、まあ、そういう細かいことは今は抜きにしまして、とにかく自然界のありとあらゆるものが渾然一体となってそれぞれの発育・成長を互いに助け合っているということなんです。そしてこういうような「あらゆる生命はただ一つの"宇宙の英知"の現われであるということを悟ることができるのです。」と。

  これは当然そうでしょうね。宇宙の英知というものが二つも三つも、あるいは何十も別々にあってですね、それぞれの英知がみんな違うということになったら世の中がめちゃくちゃになるでしょう。そうじゃなくて本当は根元を流れる宇宙の英知はただ一種類だけであり、それがありとあらゆる生き物に作用しているんだということは、自然界を観察すればするほどわかってくることなんです。

  しかし私たちは自然界を観察するときに専門的に植物学あるいは生物学というものを勉強してその知識があればそれにこしたことはありませんが、別にそうする必要もないですね。,自然界を観て「なかなか素晴らしいな。」「偉大な生命力というものがあらゆるものに潜んでいるな」ということを自分のフィ−リングで感じることができればだいたいそれでいいと思いますね、自分のフィーリングを高める上でですね。

動物のテレパシー

  それから「動物はテレパシー能力を、持つ」(p.25)と。これも当然そうです。動物はは人間のような言葉というものを持ちませんから言葉に代わる何らかの意思表示あるいはコミュニケーションの手段があるにちがいないんですね。これがなかったら動物はバラバラになって混乱が起こってしようがないでしょうが、しかし整然と生きているからにはやはり何かお互いに意思を伝えあう方法があるんでしょう。アリなんかはそのいい例ですね。1匹のアリが何か大きな獲物を見つけたら急いで帰ってみんなに伝えるんでしょうね、「こっちへ来れば大変よいものがある」と。どうやって伝えるのか全くナゾですけれども。とにかくそうしてみんなゾもゾロやってきます。そして今度は大移動作戦が始まって膨大なアリが行列をつくりながら運んで行きますねえ。だからいわゆる言葉はないけれども何かを伝え合っているに違いないんです。

 ところでそういうのを見るにもただ「おもしろいなあ」と見ているだけじやダメですね。つまり「すごいなあ」「人間以上じやないか」というふうに驚異を起こす人ほど優れた人だろうと私は思うんですがね。さっきも言いましたように今の子供たちはあまり自然を観ませんから、自然に対して驚異を起こさなくなった。その結果、何か感動できるような代わりのものを自分で求めようとして、やみくもにロックというような音楽というやら騒音に近いものをステレオか何かで腹の底へ響くほどの大きな音を出さないと自分がなかなか満足できないというような状態になるんでしょう。ちなみに、ああいうような音楽をあんまりやっていますと神経が壊れて精神分裂症になる恐れありますからね、あれはよくないんです。それから妊婦がしょっちゅう、ああいうロックのような騒がしい音楽またはそれに近いような騒音のある場所に住んでいますと奇形児が生まれたりする恐れがありますからこれは重々注意してですね、そしてなるべく静かなところで静かに生活するというようなことが必要なんです。音楽を聴くにしましても静かな、本当に心がなごやかになるようなものがいいわけですね。

>第2章2部へ続く

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