■ 泥球のたとえ
少し別な工合にこの問題を説明してみましょう。湖水、クリーク、海水のいずれにせよ、水滴はあくまでも水滴です。
同じ元素からできた水です。さて、一滴の水をここへ落とすことにしましょう。それは落ちるとすぐに形態物になります。その水滴は平たい表面に落ちたので、底の平たいドーム状の形となります。そこで水滴は言います。
「ぼくを見てくれ。ぼくは個別化した実体になった」と。しかし落ちた他の水滴は少し違います。どれも底は平たいのですが、形は大小さまざまです。したがって各水滴はそれ自体、個性化されています。私たちが経験によってわかっているのは、この水滴はもっと大きな水のボディーに属しているということで、世界中の水に属しているということです。それがボディーを離れることによって自身を個別化させ、一個の実体になったのです。この水滴はころがるにつれて正体を失います。それは泥のかたまりになるからです。どこをころがろうとも、何を吸収しようとも、一向に気にしません。そしてついに泥の球になります。状況は変わりました。今や一個のフォームになったわけです。
それ以前はフォームではなく、液体ガスでした。今はフォームですから液体ガスは消滅しました。しかしその元の支持者すなわち創造者は水だったのですが、今や泥球は言います。
「ちがうよ。そうじやない。ぼくを見てくれ。ばくは泥の球体なんだ。表面には水なんかありやしないよ」。こうして水よりも泥球として認めてくれと主張し続けます。しかし水こそそのフォームの真の基礎です。だが泥球はなおも主張し続けて、水分が眼に見えないために、こちらが伝えようとすることを認めません。自分に見える自分の姿は泥球だけです。
しかし泥球になった水滴はついに止まって言います。
「ぼくはここで止まることにしよう。もうころがるのはやめよう。他の泥球たちはもうころがるのをやめて、古き良き時代に返ろうとしているらしい。ぼくもそうしよう」
泥球たちは停止し、時間はすぎて、水分は蒸発し、"チリから作られて、ふたたびチリに返ってゆく"のです。私たちはこれを"死"と呼びます。一方、チリとしての無機物はチリに返り、まもなく他の泥球になるでしょう。大小さまざまの個体にまた応用されるでしょう。最初の泥球の正体はなくなりました。永遠に!それは短期間、自己本位に生きただけです。意味がわかりますか。
■ 進化する泥球
しかしもう少し利口で知識欲のある泥球があるとします。あらゆる物を分析して、その奥までも探ろうとします。そこでこの泥球は更にころがり続け、探求を続けます。それは単なるフォームではありません。その内部に何かがひそんでいて、他の泥球とは違うのだと語りかけます。私たちが個体と呼ぶこの泥球を、何かが作り上げているのです。そこで泥球はますます探求を続け、ころがり続け、ひどい場所に打ち当たり、地獄のような時をすごし、どこかへ到達しようとします。そして、ときには疑問を起こします。自分はいつかそこへ行けるのだろうかと。いつかは行けるだろう。
ついに泥球は広大な水面の岸辺に来ました。ここは海なのかもしれない。泥球は途中であらゆる恐ろしい物事を体験しました。さまざまの泥れた物に接触しました。純粋な物は何もありません。あらゆる種類の汚濁した土くれがくっつきました。
しかし泥球がこの大海原の岸辺に着いたとき、燦然と打ち寄せる最初の波が、彼を水面の中に運び込みました。そのとき、このフォームを形づくっていた水滴は急に分離して、海洋の一部分になりました。そしてフォームを形成していた泥や砂も広大な海中に吸収されました。その瞬間、それは純粋になったのです。あらゆる泥や砂は消滅しました。泥球は今やそこで"万物"と一体化したのです。
かつて泥球のすべてを成していた水分や要素は、海洋の一部となりました。これは海洋との一体化であり、彼はその一部と化したのです。その海洋がいかに広大であろうとも、その中のどの部分といえども、全体は彼の体そのものです。泥球が海洋の体と同じになったからです。しかし、泥球はなおも彼自身が水滴であったときの自身の正体を忘れていません。
なぜなら泥球は自分に関することすべてを万物の一体性の中に持ち込んだからです。そして泥球は体験や記憶が永遠となっている場所へ自分を置いたのです(訳注=この泥球をアダムスキーは自分にたとえてT「アイ」と表現している)。
■ 心(マインド)が忘れた体験を意識(カンシャスネス)が思い出させる
7歳の子供でさえも70歳になったときになおも物事を記憶できるように訓練できるのですが、7歳をすぎるともう子供は記憶を次第に失い始めます。子供に対しては、まず記憶を失わないように育てる必要があるのです。
人間というものは、今何かを聞いて1時間後にはそれを忘れています。これでわかるのは、心は記憶を保たないということです。これは人間が7歳の当時以上に現在は心で物事を処理しているからです。
しかし意識は記憶を保っています。したがって泥球を形成した水滴や海洋は"全意識的"であり、いわゆる"創造主"または"宇宙"なのです。そして水滴が経験として経たものやその記憶の一部として残したものは、今や時間と永遠という記録所の中に保管されています。本人はいつも自分自身の正体を認めることができるのです。
これは一本の指が自身の正体を認めるのと同様で、手の一部分ですが、もう手と一体化していて、分離して生きることはできません。創造主でさえも二種類の法則を働かせているので、常に学んでいるのです。今かりに人間が創造主に似せて作られたのではなく、創造主を人間に似せて作った個別的なものだとします。
いいですか。この個別的な創造主がどこかの王座についているとして、彼が二種類の法則を作って、それを働かせているとします。この二つの法則とは"男性と女性"原理であり、陰と陽です。この二者が結合するごとに一つの現象を生み出し、各現象はみな相違します。常に少しずつ違うのです。これは万華鏡みたいなもので、二種類の材料をその中に入れて、好みの速さで回せば、千変万化の模様を見ることができます。二つと同じ模様はありません。
そこで創造主は王座について、その変化する模様を見ているとします。彼は二種類の俳優を用いて人生劇を演じさせ、瞬間的にさまざまの変化を生じさせます。彼の心は各模様のどれにも特別に好みをもちません。一瞬はある模様で、別な瞬間は別な模様となり、絶えず異なります。そして模様が異なるたびに彼は学びます。
これと同様に私たちも学ぶことをやめません。もし人間が肉体内に自己の実体(意識)があるとまず考えて、それを写真に次々と撮影するとすれは、ある瞬間には写しそこねたり、ある瞬間には写ったりします。言い替えれば、わずかなギャップが生じるわけです。そうすると70歳までに本人は無数の死と生まれ変わりを経たと考えてよいでしょう。なぜなら、撮影済の写真はすでに過去のものであって、決して返ってはきませんし、これから撮影しようとする瞬間は現在のものであり、それもやがて過ぎ行こうとするからです。
私たちが現在すごしている生活の段階に到達するまでには、やはり無数の死を経ています。死とはすでに役立ってしまった、決して返ってこないもので、生とはそれにかわってこれから役立とうとするものです。したがって生命は死ぬものではありません。人間がそれを正しく理解するならば、生命は死ぬことはあり得ないのです。
しかし生命は未来の経験を迎えます。 経験というものに終わりはありません。
もし何もすることがなければ生命存在の意味はなくなります。生命が生命であるためには活動的でなければなりません。だから旧約にも"神"をあらわす創造主のことがあとで述べるように書いてあります。しかしなぜ一般人は神がアゴヒゲを生やし、白髪の老人であるかのように描きたがるのか、私にはわかりません。
創造主とは実際には基本的な状態の生命として表現されるはずです。それは赤ん坊でもなけれは老人でもなく、基本的な状態です。旧約のある個所に創造主が次のように表現されています。
「神は今日であり明日であり、永遠である。変化のない、同じものである」 これが真の生命であって、決して変化するものではありませんが、しかし生命それ自体はさまざまの結果を生じさせます。あなたがたは、生活を楽しむために生命があるのだ、さもなければその存在の意義がないと言うかもしれません(ここでアダムスキーは笑う)。
しかし、それこそ人間が迷ってしまった姿です。私たちは"眼に見える物"を通じて働いている"眼に見えない物"なのであり、泥の球なのです。なかには途中で嫌になって立ち止まる泥球もあるでしょうし、なかには探求を続けて、ついに全包容的な意識という海の岸辺に着いて、それと一体化するのもあるでしょう。
「これはまばたきするほどの短時間で達成できる」とイエスは言っています。説教師や教師や他人がそこへ連れて行ってくれるのではありません。自分でその道を旅しなければならないのです。教師はその道がどこにあるかを教えることはできます。これが奇妙な問題となるところです。
教師というものは他人に何かを教えるのではなく、他人がすでに知っていながらも忘れてしまった事を思い出させるものだというのですが、しかし自分が理解してもおらず、体験もしなかったのに、どうやって教師の言う事を理解できるのかという問題です。新しい物事を学ぶには時間を要します。しかし何かが伝えられると本人はそれを把捉して理解します。
そこで教師が行うことは、本人がすでに知っているか体験している事を本人に思い出させるということなのです。私たちは言います。
「自分が5歳であったとき、ああいう事をやったことがある」 しかし私はそんなことをすべて忘れているでしょう。だれかがやって来て言います。
「ジョージ、おまえが5歳のときに、これをやった、あれをやった、ということ を覚えているかい?」
「冗談じゃない。私はみんな忘れていますよ」 そこで相手は私に思い出させます。私がそれを思い出せるのは、自分で体験をしているからなのです。体験をしていなければ、相手が話してくれても思い出せないでしょう。教師の役割は、ただ本人に知覚を起こさせるということにほかなりません。
これと同様に、人間の心が忘れている事柄を意識が思い出させようとしているのです。子供に美しいオモチャを買ってやりますと、子供はそのオモチャを誤って用いるかもしれません。私たちは肉を食べるときに、それを歯と指で引き裂くかわりにナイフを用いて面倒をなくします。しかしそのナイフで他人を斬れとは教えられていないのに、斬りつけたりします。
したがって、それは人間を楽にする目的で創造された物の誤用ということになり、そこに悪魔が入り込むことになります。しかし元の創造物は、それを創造した"至高なる英知(創造主)"と同様に聖なるものです。したがって、これ以上改良すべき物は何も存在しません。ナイフはすでに完全に作られています。それを認識して正しい目的に使用すればよいのです。
昨夜お話ししましたように、私たちは現在住んでいる世界こそ聖なる世界なのであって、この世界は創造主によって作られたのです。その創造主は神にほかならず、しかも私たちは自分の実体の真の源泉から自分を切り離すことによって自分を軽視し、小さくしています。真の源泉というのは自分の意識です。
私たちは心や知性の面では巨人になっていますが、意識の面からみると、"道徳低能"になりさがっています。本来の人間になろうと思えば、その意識の面を表面に出さねばなりません。私たちは一極端から他の極端へ移動してはなりません。イエスは言っています。
「人間は物を使用することを禁じられているのではなく、それを適度に用いればよいのだ」。
言い替えれば、バランスをもたせるのです。人間は巨大な心を持つ極端な発達をとげましたが、道徳面では何もやっていません。今、人間がやらねばならぬのは、この心という巨人を50パーセントほど小さくして、私たちが見失っているこの巨人の創造主を表面に出すことにあります。心と意識を各50パーセントずつにして混ぜ合わせるならば、私たちは本来の人間になり、世界は一体化するでしょう。私たちが人間のあいだに設けたあらゆる分裂を排除すればよいのです。私たちの意識は永遠なる部分であり、心は別なものなのです。
(完) 久保田八郎訳 |