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 アトランティス大陸の謎 久保田 八郎

   

第3章2話 消えたモーリス大佐、シュリーマンの秘密文書

モーリス大尉が、フランスの若い民族学者ルイ・マレパン、2人のインディオの案内人とともに南米のクヤバを出発したのは、1934年のことだった。彼らはフォーセットの足跡を求めて、うっそうたるジャングルのなかを進んでいった。

■ モーリス大尉が見た驚くべき光景

▲1951年に発見されたフォーセット大佐の遺骨。後に大佐の物ではないと判明。

ジャングルのなかは、さまざまな危険でいっぱいだった。巨大な吸血ヒル、毒ムカデ、大蛇が横行し、川にはワニや人食い魚カリベがいる。あるときは黒い巨大なじゅうたんのようなアリの大群にも遭遇した。この魔のじゅうたんは大蛇でさえも、ほんの数時間のうちに骨にしてしまう。

探険に出発してまもなく、2人のインディオが恐れをなして逃亡した。やむなく大尉とマレパンの2人は、ガイドなしでジャングルをかきわけて前進をつづけた。しかし、ついに力尽きて原住民のインディオに捕えられてしまい、奥地の部落へ連行された。

ここで2人は驚くべき光景を目にすることになる。2人が連れて来られたのは、石造の神殿が立ち並ぶ大きな都市のような場所であったからだ。このような人跡未踏の地に、なぜこのような立派な神殿が存在するのか。この疑問も解けぬまま、インディオの酋長の前に引き出された2人は、ここでふたたび驚くことになる。脅長の肌の色は、原住民というよりも白人に近かったからだ。そして、あらためてまわりのインディオたちを見回してみると、やはり皮ふの色はさほど黒くない。彼らは内心叫んだ。

「これこそアトランティス人の子孫が住む秘密の都市ではないか!」 

いかなる学者もけっして知らない驚くべき事実を知った2人は、このことを一刻も早く文明世界に伝えて、おそらく神殿のどこかに幽閉されていると思われるフォーセットを救出しなければならないと考えた。なぜなら、この秘密都市に白人が捕えられているかという質問に対して、酋長は謎めいた微笑を浮かべただけだったからである。

■ 脱走したマレパンの無残な最期

▲大佐の息子ブライアンが描いた父の探検隊とインディオの遭遇の様子。

彼らは謎の神殿都市に幽閉されたまま、日々を送っていたが、ある日、マレパンだけが脱走を試みることになった。川のアシの茂みのなかにかくしてあった丸木舟で、川を下ろうというのだ。モーリス大尉は、それまでに書きためていた手記を水にぬれないように樹脂びきの布に包み、マレパンに渡した。

ある闇夜、マレパンは脱走した。しかし、彼が無事に逃げ失せたという報告はなかった。そして案の定、しばらくしてジャングルのなかで別の種族のインディオに発見されたときには首なしの骸骨と化していた。かたわらにあった包みのなかには、まぎれもなくモーリス大尉の筆跡による手記が入っており、マットグロッソ州知事ドン・ヒメネス・ド・ガルシアの宛名が記されていた。そのため、手記はこのインディオによって知事の手元に届けられたというわけである。

神殿都市に残されたモーリス大尉はどうなったのか。それは知るよしもない。謎の都市に幽閉されたままだったのか、あるいはインディオたちに虐殺されたのか。また肝心のフォーセット大佐はどうなったのか。彼らよりもずっと早く捕えられて、謎の都市で無事に過ごしていたのだろうか。真相は永久にわからないまま、マットグロッソの大ジャングルは今も沈黙を守っている。

■ ハインリッヒ・シュリーマンの業績

▲ハインリッヒ・シュリーマン

トロイの遺跡を発掘した人物として、ハインリッヒ・シュリーマンの名はあまりにも有名である。彼は幼いころ両親が買い与えてくれた『子どものための世界史』 という本に読みふけり、このなかに書かれていたホメロスのトロイの伝説にすっかり魅せられてしまったのである。 そして大人になったら必ずトロイの城壁を掘り出そうとかたく心に誓ったのだった。彼はまわりから、とくに専門の考古学着からバカにされつづけた。「あれはたんなる伝説にすぎない。伝説を事実とまちがえるなんてあきれたバカ者だ」 これがまわりの者たちの言いぐさだった。ところが、今日明らかなように、本当にシュリーマンはトロイを発掘してしまったのである。伝説は真実を語っていたのだ。

アトランティスに興味をもつ者にとって、シュリーマンの偉大な業績はまことに心ひかれるものがある。いつの日か、シュリーマンのように、アトランティスもその謎の全貌を誰かの手によって明かされるのだろうか。

さて、この偉大なシュリーマンの孫にあたる人物に、パウル・シュリーマンという人物がいた。驚くべきことに彼は、1912年10月20日付のアメリカの新聞に『私はどのようにしてアトランティスを発見したか』と題する記事を発表したのである。

話を要約すると次のとおりだ。祖父のハインリッヒ・シュリーマンは、1890年、死の数日前に1個の包みを残した。包みの表には「この包みをあけるのは、家族のだれかがここに書かれた指示に従って、仕事の継続に生涯棒げることを誓った場合にかぎる」

 死の1時間前にハインリッヒはみずからふる、言手で最後の遺書を書いた。

「封印された包みにたいする秘密の言葉。フクロウの頭のついたツボを砕け。なかに含まれる物を調べよ。それはアトランティスに関するものである。サイスの神殿の遺跡から東にあたる場所、シャクンの死者の野で発掘を行え。重要!なんじはわたしの理論が正しいという証拠を発見するだろう」

このメモと先の包みを1906年に孫のパウルが開いたところ、次のように記された書類が出てきた。

「自分はアトランティスがアメリカ、西アフリカ、ヨーロッパのあいだに存在した大陸であり、ヨーロッパ文化のもとをなしたという結論に達した。メモや資料、指示などを同封しておくので、これに従って調査を続けるならば、わたしの仮説の証拠が出てくるだろう。フランスの銀行には特別の預金があるので、この手紙を持参したものにはその金が渡される。学問のために重要なこの仕事の完遂に神のご加護のあらんことを。ハインリッヒ・シュリーマン」 

さらに続いてハインリッヒは、南米ボリビアのティワナコで出土したいくつかの土器や金属の品を入手した。そしてそれらを科学的に調査した結果、そのなかのあるものは現代でも未知の合金であることがわかったという。これはプラトンのいうオリハルコンではないだろうかと、ハインリッヒは秘密の文書で述べている。要するにハインリッヒの説は、南米や古代フェニキア、中部アメリカの古代文化は共通した源泉からでたもので、その源泉とはアトランティスだと断言しているのである。

■ 古代エジプトとアトランティスの関係

さらに秘密文書は述べている。

▲アトランティスの位置を示すパウル・シュリーマンの地図。

シュリーマンがエジプトで発見した古代のパピルス文書によると、紀元前2750年頃の第2王朝の王が、アトランティスの遺跡探しのため探険隊を西の方へ送り出したと述べてあった。なぜアトランティスのことをエジプト人が知っていたかというと、その探険より3350年前にエジプト人がアトランティスからあらゆる知識を持ち出したからである。また別のパピルスによると、エジプトの歴史は紀元前1万6000年代に始まるのである。

また古代エジプトと中米メキシコのマヤ族の文化には共通したものがあるけれども、それは大西洋にアトランティスが存在して、そこから文化の源泉が両方に流れたからである。

以上がハインリッヒの秘密文書の内容だが、紀元前2750年の第二王朝より3350年前にエジプト人がアトランティスから知識を得たといえば、いまから8100年前にはアトランティスはまだ健在だったということになり、1万2000年前に海没したというプラトンの記述と合わなくなる。

■ フクロウの頭のついたツボの謎

孫のパウル・シュリーマンの手記は続く。彼は祖父の残した古代出土品のコレクションのなかにあったフクロウの頭のついたトロイのツボを遺言どおり砕いたところ、なかから奇妙な四角形の銀色の金属板がでてきた。表面には見たことのない不可解な記号が彫ってあった。これはアトランティスのものであった。

▲祖父ハインリッヒのヒッサクにおける発掘調査を描いた絵。パウルによれば祖父はこの発掘でアトランティスの遺品をいくつか見つけたという。

その後、彼はエジプトへ行き土地の住民のコレクションのなかに、例のトロイのツボのなかにあったのとまったく同じ四角い金属板を2枚発見してひじょうに驚いた。いずれもアトランティスから伝来したものだという。

さらにパウルは、パリでもフクロウの頭のついたツボを見つけて、そのなかからも同じ金属板を発見した。その他の場所でも同じような金属板を数枚見つけたが、これらはみなアトランティスで貨幣として使用したものだとパウルは確信している。

その他、エジプト、クレタ、ミケナイ、アメリカ、南米、地中海の諸文化はすべてアトランティスが起源だという証拠があるという。

パウルは続ける。フランスの古代マヤ学者であるル・プロンジョンが中米で集めたトロアノ古写本には、太古のムー大陸海没の話が出ており、いっぽう、チベットの寺院に保存してある4000年以上も昔のカルデア人の古文書にも大昔のムーの話が登場している。ということは両方とも同じ大変動に関係があるのだ。いま自分がもつ証拠を提出すれば、アトランティスの謎は即座に解決できる、と手記のなかで述べている。

■ パウルはいかさま師だった!?

上のパウル・シュリーマンの報道はヨーロッパで大センセーションをまき起こした。ところがハインリッヒ・シュリーマンの協力者であった考古学者のヴィルヘルム・デルプフェルトによれば、ハインリッヒが生前アトランティスの問題に専門的にとり組んだことはなかったという。

つまりパウル・シュリーマンの新事実の報道なるものは、新聞記者の作りごとであって、インチキだったというわけである。

その後パウルは、いずれ驚くべき新事実を発表すると約束しながら姿をくらましてしまった。一説によれば殺されたともいうが、ハインリッヒ・シュリーマンの孫にはパウルという人物は存在せず、すべては悪質なジャーナリストのいたずらだと、アンドレ−エヴァは『失われた大陸』で述べている。

しかしこのジャーナリストが流した"パウル・シュリーマンの声明"は、多くのアトランティス夢想家を生みだしたのである。そのなかにはいかがわしいペテン師、ホラ吹きもたくさんいたし、心霊家や神秘家なども登場して、大昔のアトランティスの位置や様子などをあたかも見てきたかのように語り、本に書いたりした。また学者たちのまじめな研究も行われ、1921年にノーベル化学賞を受けたイギリスの科学者フレデリック・ソディなどもそのひとりである。

これらのアトランティス狂、アトランティス学者が書いた本は2万点にのぼると、ドイツの考古学ジャーナリストC・W・ツエーラムは言っている。

いま実在しない大昔の国について、2万点もの研究書や解説書が出たとは、他に例のないことだろう。

■ ホメロス ■パピルス文書 ■ カルデア人
古代ギリシアを代表する二大叙事詩『イーリアス』と『オデッセイア』の作者として伝えられる詩人。彼に関する事柄は古代においてすでに伝説の霧につつまれていた。 エジプトのナイル河畔に生するパピルスの茎を材料としてつくった用紙に書いた古文書。エジプトでは紀元前2500年ごろから紀元後1000年ごろまて用いられた。 紀元前1100年ごろにバビロニア南部に定住していたとされるセム系遊牧民の1種族。パベルの塔をはじめ壮大な建築物をつくった。星座もカルデア人の発見といれれる。

■ アトランティス調査研究年表
B.C  
355頃
プラトン、『ティマイオス山『クリティアス』において消えたアトランティスについて記述する。
340頃
プラトンの弟子アリストテレス、アトランティスの実在を否定する。
A.D
10頃
ヌミディア王ユバ2世、アトランティス探査のためカナリア群島を調査。
1492
コロンブスのアメリカ大陸発見。
1521
マゼランの世界周航。
1650頃
イエズス会士キルヒャー、『地下の世界』において、アトランティスの地図を作成。 
1660頃
F・ベーコン、プラトンのアトランティスはアメリカだと考える。
1870
シュリーマン、ホメ一口スの『イーリアス』にもとづいてトロイの城壁を発掘。
1882
ネリー、『アトランティスー最古の世界』発表。大反響を呼ぶ。
1912
パウル・シュリーマンによるスキャンダラスなアトランティス談譲が話題を呼ぶが、のちにジャーナリストの創作と判明。
1925
フォーセット大佐、マットグロッソにて行方不明となる。謎の白人都市を発見したと伝えられる。
1934
モーリス大尉とマレパン、フォーセット大佐の捜索に出かけるが、行方不明となる。のちに手記が発見され、「白い人の町」のことが知られる。
1940
エドガー・ケイシー、1968年と69年の間にアトランティスが隆起すると予言する。
1949
M・オム教授、ブラジルの密林で古代遺跡発見。
1968
バレンタイン博士、ビミニ諸島で巨大な石板発見。
1978
アリ・マーシャル、カリブ海底にピラミッド発見。
1982
サウインスキー、バミューダ三角地帯の海底に点差道路らしき長く続いた岩を発見。
 
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