人類の記憶をとどめぬほどの大昔から灼熱の砂原に不思議な建造物が立っていた。天空を圧するこの四角錐の巨大な石造構築物を人々はピラミッドと呼び、神聖視し、畏敬した。
ところはエジプト、カイロの西方15kmのギザ。激烈な太陽の光を浴びて碧空の中にそびえるのは雄大なクフ王、カフラ王、メンカウラ王の3基の大金字塔である。
クフ王のものが最大で、高さ138.6mあり、これは48階建ての超高層ピルに等しい。したがってクフ王(ギリシャ語ではケオプスと呼ばれる)のピラミッドは特に『大ピラミッド』と称されることもある。これは3基の北端側にあり、観光者は通常これを主体に見学する。
80基もあるピラミッド
平均2.5トンの巨石を推定280万個も使用し、200種もの謎を有し、見上げる者を瞠目させるこの途方もない大建造物は、今を去る4700年の昔、エジプト第4王朝の2代目ファラオ(王)クフの治下に完成した。その後、クフの王子カフラ(ケフレン)とメンカウラ(ミケリヌス)のピラミッドが並び、ギザの3大ピラミッドが形成されたのである。
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▲大ピラミッドを下から見上げる。筆者撮影。 |
しかし、いわゆるピラミッドと称される建造物はこの3基だけではなく、エジプト中に大小あわせて80基ものピラミッドが現存し、発掘されていない未完成のものをあわせれは推定100基以上になるという。
ピラミッドは古王国時代の第3王朝のジュセル王の階段ピラミッドから始まり、第4王朝でギザの3大ピラミッドを中心にして黄金期に入り、第5王朝で定着したが、第6王朝から第10王朝までの第1中間期と呼ばれる混乱時代は中断されている。そして前2050年から1778年までの中王国時代の第11王朝から12王朝に至るまでがピラミッド建造の第2期にあたり、第13王朝で2人の王がピラミッドを築造したのが最後となる。
前1570年から715年までの第18王朝は、ピラミッドに入り込む盗掘者を避けて、ルクソール西岸の大岩山地帯の地下に各代の王墓を築き、永久に後世の俗人の眼から隠蔽しようとしたが、そうはいかなかった。考古学者によりツタンカーメンの墓をはじめとして、次々と白日のもとにさらけ出され、古代エジプトの燦然たる文化の跡が明るみに出たのである。
観光旅行者にとって世界で最も魅惑的なエジプトの地は、ピラミッドやマスタバ(墓)の建設者と盗掘者と考古学者のすさまじい三つ巴の競争の場であったといってよいだろう。
大ピラミッドは果たして王の墓か
紙数の都合により詳述はできないが前述のとおりエジプトの遺跡中で最大のものは ― 古代の遺跡中で世界最大でもある ― ギザのクフ王のピラミッドなので、ここではこれを主体に考察することにしよう。
驚嘆すべきこの大建造物について最初に歴史的な記録を残したのはギリシャの史家ヘロドトスであり、その大著『歴史』の第2巻にエジプトの遺跡についてくわしく述べてある。
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▲ピラミッド前に立つ筆者。 |
これは叙事詩人である彼が前5世紀にエジプトへ大衆行したときの見聞記であり、現在も考古学者にとって重要な参考文献となっている。
それによると、ピラミッドは階段式の構築法を応用し、最初に階段を建造してから木製の起重機で石を吊り上げたと記している。
しかしヘロドトスが現地人から聞いたときとクフ王ピラミッドが建設されたときとは実に2OOO年以上の差があるので、この建造法が真実であるとは断定しがたい。その他にも後世の人により種々の憶測が試みられたが、いずれも正解には至っていないのである。それほどにこの巨大なピラミッドは深い謎を秘めており、世界中のエジプト学者を悩ませてきたのだ。
ヘロドトスによると、大ピラミッドの築造には一時に10万人の人間が従事し、ひとつの集団は3ヶ月交替で働き、完成までに20年を要したという。そうすると20年間で2400万人を動員したことになるが、一説によると延べ人員は1億人に達したともいわれる。
いったいこのような天文学的数字の資材や人夫を用いて建設したピラミヅドなるものの用途は何であったのか。史上の定説どおり、果たして王の墓であったのか。
現代の科学機械を応用しても容易に構築できないようなこの偉大なるオパケを4700年前に実現させるような想像を絶した知識と技術を有していた頃に、いかに無知とはいえ王の命令により数千万人の民衆は肉体労働のみによって300万個近い巨石を積みあげるほどに生けるロボットにすぎなかったのだろうか ― 。
これらの推測に先立って大ピラミッドの内部構造を調べてみよう。
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▲ルクソール神殿内部を調査中の筆者。 |
周知のとおり、大ピラミッドの内部には王の墓所といわれる玄室と王妃の間といわれる部屋がある。ピラミッドの北側斜面にある正規の入口から高さ約1.22m、幅1.07mの下降通廊が26度18分の勾配で下り、これは基底部より地下の岩盤の中をつらぬいて地下の間に達し、この部屋からは縦に底なしの洞穴がある。
しかし下降通廊の途中で上昇通廊が交差して、ここからは下降通廊と同じ勾配で天井の低い上昇トンネルが続きこれを37.7m登ると急に高さ8.5mの大通廊と接続して、更に47.8m登ると控えの間に達する。この隣が玄室である。
しかし現在、一般観光客が入る個所は正規の入口ではなく、外部の最下段から5段目の盗掘入口である。これは820年にこの地へ来たカリフ(モハメッド亡きあとに回教の最高指導者に与えられた称号)のアル・マムーンが火と酢と梃子(てこ)を用いて掘り進んだトンネルで、上昇通廊の花崗岩の栓のあった部分につながっている。
マムーンが発見した玄室の内部には1個の空の石棺以外に何もなかった。12世紀の著述家カイシによると、マムーンではなくて別な墓泥棒がその頃に玄室に侵入して、貴金属におおわれた1個の遺体を発見しただけだという。他の副葬品はまったく見当たらなかったのだ。この石棺は現在も玄室の中にあり、くたびれた参観者たちが腰かけがわりに使用している。
1922年、11月26日にイギリス人のハワード・カーターがテーべの山間で発見したツタンカーメンの地下墳墓の絢欄豪華な様子にくらべて、クフ王の玄室のあまりに粗末な ― というよりも墓所らしからぬ ― 内状に失望したのはマムーンだけではない。以来数千年間、盗掘者や考古学者はこれを中心に頭をひねってきた。
『このピラミッドはいったい王の墓として建てられたものなのか?』
そして、大ピラミッドの建造目的について大論争が展開する。いわく旧約聖書に出てくるヨセフの食糧貯蔵庫、偉大な天文観測所、あらゆる数値の見い出せる知恵の書、予言の殿堂etc。思いつく限りの推測と想像が学者やアマチュアの頭脳を流れたのである。
陰の偉大な人物が指導した
しかし子細に調べてみると、ここで奇妙な事実に出くわす。このような壮大な石造建築物、特に四角錐のピラミッドが現存するのは、世界広しといえどもエジプトだけであり、他のどこにもないという点である。
メキシコ、ユカタン半島とグアテマラのティカルに残る古代マヤのピラミッド群がよくエジプトのそれと対比されるが、年代がまるで違う。マヤは西歴600年から900年までの古典期後期が黄金時代で、それより早いオルメカ人がピラミッド建設の技術をエジプトから学んだとしても、作り方が異なるのだ。クフやカフラのピラミッドが、建設当初は紅花崗岩の板を張りつめたなめらかな外装をほどこしていたのに、マヤのそれはすべて階段状ピラミッドで、最大のものでもティカルの神殿は60mにすぎない。
したがってエジプトとマヤのピラミッドはまったく異質のものである。古代マヤは太古に太平洋に沈下した輝かしい大陸ムーの影響を受けたと思われるが、詳細は本誌1977年11・12月号に連載した拙文『灼熱のジャングルより永遠に』を参照されたい。
ところでギザのピラミッド文化の漂流は何か。やはり太古に大西洋(?)で沈下したといわれるアトランティスの流れをくむものではないか。
4700年の昔、熱砂の地に突如として大地から根が生えたように出現したあの巨大な構築物の想像を絶した建造技術は、どうみても偶然の思いつきの結果ではないし、漸進的な学問の発達の成果でもない。原始的な象形文字しか知らなかった古代エジプト人の文化的所産としてはあまりに唐突にすぎるのである。
もちろん古代の巨石文化の跡は世界の各地にも見られるし、それらにまつわる神話や伝説は多く残っている。しかしエジプトのギザのピラミッドは群を抜いており、特に大ピラミッドのもつすばらしい科学性は現代の技術水準に肉迫するものがあるのだ。これがどうして、人間をミイラにすれは永遠に生きられると信じた原始的な人々の頭脳の所産だろう。
陰にだれかがいたのだ!傑出した偉大な人物が ― 。
第2話へ続く |