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▲1897年4月22日付、アーカンソー・ガゼット紙に掲載された謎の飛行船の記事。 |
修理されていた飛行船
申し立てによれば同じ頃に発生したという次の"技師"の物語は(正確な日時は不明)、裁断がさ性ど容易ではない。目撃者の人柄に関する情報が少ないからである。だがこの人はかなりすぐれた人だったらしい。彼のうわさは一体に良好である。まだはるかに"俗っぽい"飛行船目撃者事件類をかつては嘲笑していた"アーカンソー・ガゼット"紙でさえも、この事件を「最も真実な物語」と称した。
話の主はジェイムズ・フートンで、"よく知られたアイアン・マウンティン鉄道の車掌"と述べられている。
「もちろん私は飛行船を見た。これは絶対に間違いない。だから私が話すことを信用してよろしい。それはこんなふうに起こった。
私は臨時列車を回送するためにテクサーケァナへ行っていた。そしてテクサーケァナで8時間ないし10時間の余暇がとれることがわかっていたので少しばかり狩猟をするためにホーマン(アーカンソー州)へ行った。その場所へ着いたのは午後3時頃だった。狩猟はうまくいった。それで駅へ引き返そうとし始めたのは6時すぎてからだった。ヤブの中を歩いていると聞きなれた物音が耳についた。どうみても機関車の空気ポンプの作動音に似た音だ。
私はすぐに音のする方へ行った。すると5〜6エイカーばかりの空地で音をたてている物を見た。「驚いた」と言ってみたところで、そのときの感情をとても十分にはあらわせない。すぐに私は、こいつはあちこちで多くの人が見た有名な飛行船だなと思った。
船内には中くらいの身長の男が1人いたが、その男は黒メガネをかけていた。彼は船体の後尾と思われるあたりで修理をやっていた。近づいてみて私は驚きでものも言えなかった。相手は驚いて私を見て言った「こんにちは。こんにちは」私は尋ねた「これが例の飛行船ですか?」「そうです」と相手が答えた。すると船の竜骨とおぼしきところから、3〜4名の人間が出てきた。
よく調べてみると竜骨は2つの部分に分かれていて、ナイフの鋭い刃のように前方で合してとがっており、船体の横腹は真ん中が次第にふくらんでいる。両横には曲がる金属で作られた3つの大きな車がついていて、船体が前進するにつれてそれがへこむようになっているのである。
「失礼ですが、その音はウエスティングハウス社のエアーブレーキによく似ていますね」と私は言った。「たぶんそうでしょう。これは庄縮空気と飛行翼とを使っているのです。だがあなたはあとでくわしいことがわかるでしょう」「準備完了です」とだれかが叫んで全員が下へ姿を消した。見ていると、各車の前にある2インチの管が車にたいして空気を噴き出し始めて車は回転を開始した。すると船体はシューッという音をたてながらしだいに浮かび上がった。突然翼が前方へはねて鋭いフチを空の方へ向けた。次に船体の後尾にあったカジが一方へ回転し始めた。車が急速に回転したので回転翼はほとんど見えなくなった。そしてあっという問に視界から消えてしまった。
ここに描いた絵はこのような事情で私が描き得る最上のものだ。私は飛行船を見ることができて幸運だったと思う。船体が静止していたあいだ、何かのエンジンの空気ポンプみたいに、ポンプを使用していたと言ってよいだろう。私がおぼえている1つの特徴は排障器(機関車や電車の前につけて線路上の障害物を取り除く装置)に似た物がナイフの刃のように鋭くてほとんど針のようにとがっていたという点だ。船体のまわりによく整った機関車には当然についていると思われるベルまたはベルのヒモはなかった」
フートンがスケッチした飛行船の図は、見たところバカらしくて、ありそうもない物のような印象を与え、この物語を全面的に受け入れるのに障壁となるかもしれないが、−方それは飛行船存在の状況証拠となるかもしれないのである。これにやや似たような飛行船(複数)が以前に報告されているし(特にシカゴ南部の飛行船目撃者事件に注意)、横腹の扇風機型車輪は、1986年のカリフォルニア州の目撃(複数)でも目立っていた。そのことをフートンが知っていたとは考えられないことだ。前述のアレグザンダー・ハミルトンが推進機構と関連した"車輪"の存在を報告したことを忘れてはならない。
ただし、この場合は車が大きくて、横側ではなく船体の下部にあった。更に、アートンの見た飛行船は、1880年にニューメキシコ州を横切った不思議な物体との明確な類似性を帯びている。
3人の男女が乗った飛行船
1897年の飛行船目撃騒動は4月の第3週以後、たしかにピークに達した。ただし5月まで散発的に発生は続いていた。しかし1つの実例だけは詳細に述べるにあたいする。
以下の証言はアーカンソー州のホットスプリングズの2人の官憲サンブター警官とマクルモアー郡保安官補の目撃談で、申し立てによれば2人は公務中に1機の飛行船とその乗員たちを見たという。
「1897年5月6日の夜、この町から北西に向けて馬で疾走中、我々は天空高く1個のきらめく光体を認めた。突然それは消えたが我々はそれについて一言も発しなかった。犯人を捜査していたので物音をたてたくなかったからだ。丘々のあいだを通り抜けて4〜5マイルばかり乗りまわしてから再びその光を見たが、今度はかなり地上に近づいているように思われた。2人は馬をとめてそれが降りてくるのを見つめた。やがて急にそれは別々な丘のかげに消えてしまった。2人が更に半マイル前進したとき、両方の馬は動かなくなった。すると約100ヤードむこうにライトを持って、動きまわっている2人の人間が見えた。銃を手にしながら−というのは今や事の重大さを十分 に認めたので−我々は呼びかけた。
『だれか? 何をしているのか?』
長く黒いヒゲをはやした1人の男が片手に燈火を持って前方へ出てきた。そこで我々2人の身分を明かしたところ、相手は自分と他の2人−若い男1人と女1人−計3人でもって飛行船に乗ってこの国を旅行中である旨を語り始めた。我々は飛行船の外形をはっきり識別できた。それは葉巻型で約60フィートの長さがあって、最近の新聞に出ている飛行船の図にきわめてよく似ていた。あたりは暗くて雨が降っており、若い男は30ヤードばかり離れたところで大きな袋に水を入れている。女は暗闇の中で1人だけ背後に控えていたが、手にカサを持って頭上にさしていた。ほおヒゲをはやした男が我々に飛行船へ乗らないかと誘いかけて、雨の降っていない場所へつれて行こうと言う。我々はぬれているほうがいいのだと言った。
船体の強い光がたびたび点滅するのはどういうわけかと男に尋ねると、その光はきわめて強力なのでパワーを多く消耗するからだと答えた。ホットスプリングズに数日間滞在して温泉に入りたいのだが、時間の余裕がないのでそれができないと言う。彼らはこの国を十分に見てからテネシー州のナッシュビルで解散すると言った。急いでいるので我々は別れたが、帰途40分後には何も見えなかった。その飛行船が飛び立つ音を聞きもしなければ見もしなかった」
ジョン・J・サンブター
ジョン・マクルモアー
右は公証人立ち会いのもとに署名宣誓されたことを証す。
1897年5月8日 公証人 C・G・ブッシュ
フオート・スミス市の"デイリー・ニューズ・レコード"紙は、「サンプターとマクルモアーは手ひどい嘲笑をこうむったけれども、両氏はその体験が絶対に真実であると主張している。しかも両氏のその真剣さは、その物語を事実として受け入れられぬ一方で両氏がふざけているのでないことを知っている多数の人々を迷わせている」と報じ"アーカンソー・ガゼット"紙は両氏は疑いなく誠実な人なので、両氏の陳述は真実なものとして十分に信用できるものであると述べている。
右の物語の1節に特に注意を払う必要がある。すなわち船体の光とその光源との関係である。これまでにも互いに無関係なさまざまの目撃者が「飛行船が加速するときはいつも光が暗くなる」と述べている。
サンブターとマクルモアーがウソをついているとすれば、両名は他の目撃事件類や、入手しがたいと思われるような新聞記事にさえにも精通していたということになる。(偶然の一致か否か、4月中旬にイリノイ州の作男(複数)が、2人の男と1人の女とが操縦する飛行船に出会ったと称している)
やはりUFOか?
こうした飛行船の存在を認める人々は、この乗物が地球人、それもおそらくアメリカ人の発明家によって操縦されているということをほとんど疑わなかった。キャンザス州コロニーの"フリー・プレス"紙のある主筆を除いて(この人は飛行船が火星から来るという説をたてた)、飛行船がそれ以外の何かであるかもしれないという考えが人々の心に浮かんだとは思えない。
1897年の諸事件は我々が現在知っているようなUFO活動の典型的なものでないことは当然明らかである。
実際私は飛行船をUFOの部類に入れることを差し控えてきた。というのはそれが文字通りの意味をなす物(未確認飛行体)である一方、我々が今日UFOと呼んでいる物とは全然異なるからである。1890年、1896年、1897年に米国で見られた現象は(1909年にはウェールズとニュージーランドで、1914にはアフリカで見られた)、飛行船であって、この大気中を限られた飛行をするために作られた一種の空気より重い建造物である。それは現代の"空飛ぷ円盤"の如き宇宙船でないことはまず疑いない。
その時代のあらゆるコンタクト物語において、飛行船が地球の建造物であるという考え方は当時の科学技術や気質を都合よく支持するのに都合よく用いられていた。当時科学において比較的急速な進歩をとげつつあったのであるから、ある種の航空機が近い将来に発明されるだろうと広く信じられていた。これは現在、惑星宇宙船が数年後に完成するものと期待されているのと同様である。想像による飛行船のあらゆる機能が19世紀のアメリカ人によって予言されていた。ここには彼らの理解カを超えた概念はなかったのである。"反重力によって推進するUFO"だの"高度に進歩したデザインの飛行体"とか"小人"とか"金髪の金星人"といった考えは存在しなかったのだ。要するに今日UFOの存在を認めている我々にとって事新しく期待すべきものはないのである。
1897年のコンタクト事件(複数)は避け得られないものであった。ただし制限されたコンタクトは起こることもあるし、また起こっているという前提を人が認めるならばである。飛行船の特殊な性質のためにコンタクトはそういうふうに行われねばならなかったのだろう。したがって地球の建造物であるという信念を強めたのである。もし乗員たちがその出現にたいする地球人の反応に無関心であったならぼ、当時の新聞に掲載されたような、きわめてコッケイな物としてよりも、もっと進歩したデザインの機械を飛ばしたことだろう。
1897年の飛行船目撃報告類を研究して、1人の著名なUFO研究家は、これらの飛行船は米国の一科学者によって発明されたのだと結論づけている。いずれ著書でそのように述ベるだろう。彼をこの結論に導くような特殊な情報を持っているのかどうかは知らないが、むしろその考えは、存在する資料の皮相的な不完全な調査に基づいているのではないかと思う。たしかに1〜2度その時期を研究したことのある人のほとんどすべての人は、これは全く地球人の仕業ではないかと考えている。人を迷わせるに足るほどのデマが新開に載ったからだ。しかし結局はトーマス・エジソンが言ったように「だれかがうまく飛行船を作ってそれを秘密にしておくことができるとは絶対に考えられない」と結論づけねばならない。 しかも右のUFO研究家の言葉を信ずるには、1880年にニューメキシコ州に、1896年にカリフォルニ了州に、1897年には全米に、1909年にはウエールズとニュージーランドに、1914年には南アフリカに、匿名の発明家と飛行船を操縦する役目の数十名の人間が出現したと信ずる必要がある。またこのことすべては実際上完全な秘密裏に遂行されたと信なければならないし、しかも、そのとき以来、最初の"空気より重い飛ぶ機械″の創造においてライト兄弟が果たした役割を無に帰せしめるような物は、何も現れていないと考える必要がある。
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▲LZ−127 |
私が意見として述べたいのは、本記事で推定したように、真相はこの飛行船はその素性において現世のものではないらしいということである(必ずしも惑星間宇宙船とは言えないが)。このように臆測すると、UFOをあやつる人間は@我々を惑わそうとしているのか、またはA観測者の環境を考えて出現すると仮定するならば、この神秘は解明されると言いたい。この2点は重複するかもしれないが、これはUFO乗員の目的に関する正反対の推測に基づいたものである。
まず右の@においては"どこか他の場所"から来た人間によって行われた長期の航空作戦行動と考えられる。必ずしも敵意ある者ではないが、この人間たちは自分の正体や目的が何であるかをこちらに知らせようとしないし、それゆえに巧妙さ、より明確な行動、コンタクトにおいて伝えられたメッセージ等によって、彼らに関する誤った概念をこちらに植えつけようとしてきたのである。彼らがこの地球上でやっていることは右の仮説を立てる上に特に関係があるわけではない。ただし、いずれ別な記事でこの問題を論じようと思っている。
地球人に勘違いさせるために、UFOに乗っている連中は、自分たちこそ地球人に最も容易に信じて理解してもらえる人間であるかの如く振舞っているのである。古代においては迷信にとらわれた人々はUFOを神または魔法使いと呼んだ。W・R・ドレークが述べたある奇妙な物語("ノルマン時代の宇宙人"と超する記事)で、人間たちが自分らは"マゴニア"または"マグス(魔法の国)"から来たと言ったと述べている。またポール・ミスラキー(ポール・トーマス)はそのすぐれた著書"各時代に現れた円盤"の中で聖書に出てくる天使なるものは実際にはUFOに乗った人間であったと論じている。今日この宇宙時代において我々は空飛ぶ円盤が宇宙船であると信じさせられている。とすると、1979年4月に−これはライト兄弟が初めて飛行機に乗った年よりも6年前だが−ナゾの飛行船が地上のものであったという説よりもっと話のわかる説があるとすれば、それは何だろう? 前記2点のうちAの場合は多分に同じ推理に基づいているが、UFO訪問の動機については私はさほど疑わしい見解をとっていない。思うに、おそらくUFO乗員はUFOの性質そのものによる理由で、地球人とおおっぴらなコンタクトができないのだろう。着陸して彼らの存在をはっきりわからせることが不可能なために、目撃者が理解できるようなかたちで自分たちを見せることによって自分たちを知らせようしているのだ。1974年には宇宙船で、というふうに−。もし彼らがその真の姿で現れるならば、それはあまりに奇妙なために我々は彼らを全然認識できないかもLれない。たぶん時代の流れとともに人間の知識が拡大するにつれて、UFOの神秘も発展し続け、ついに我々はその真の意味を理解するようになるだろう。
明らかにここで我々は1つの重大な論理に関する思索におちいっている。だが右の後者の推測は大体に私の独創ではなくて、米国の数種類のUFO誌にピーター・コールという筆名で記事を発表したあるUFO研究家による説であることをはっきりさせねばならない。UFO問題に関連して一連のきわめて高度に複雑な仮説を打ち出したコールは、UFOの神秘の意義を研究家達は完全に解釈し誤っていると論じている。彼らは必ずしも完全な自信を持っていないが、重要な新しい領域を開こうとしているので、これを無視してはならない。
とにかく真相が究極には何であろうとも、1897年の騒ぎは一般の状況から"空飛ぶ物体"を引き離そうとする試みの無意味さを示している。コールが書いているように、個々の報告はこのナゾにたいする我々の理解を妨げるにすぎないというのももっともなことだ。たぶん個々の円盤は何も意味しないだろう。一般の円盤こそ何よりも重大なことを意味するのである。
そこで例の飛行船はナゾを解くための最大のカギの一つであるかもしれない。ケネス・アーノルド以後の時期にわたる研究家にたいするその教訓は明らかである。我々が故意にだまされていても、またUFO人が彼らの側の条件で地球人と会えないにしても、とにかくUFOは我々のほとんどが喜んで認めようとするよりもはるかに深遠な神秘を生み出しているのである。
久保田八郎訳
訳注:飛行船のアイデアはかなり昔からあったけれども、近代においてこれを実用化させたのはドイツ人技師ツェッぺリンである。彼は1894年、56歳のとき、アルミニウム骨組にアサ布、絹布を張った硬式飛行船の設計、試作に着手し、第1号LZ−1が完成したのは1900年であった。資金難で第2号は1905年に、第3号は1906年に建造され、これにより飛行船の実用性がやっと認められるようになった。したがって第1号は使いものにならず、それ以前すなわち1800年代に各国を周遊できるはどに進歩した飛行船がどこかで建造されていたという記録はない。
ツェッぺリン飛行船は全部で119隻作られたが、それらはすべてガスによって浮揚する方式のもので、"車輪"をそなえたのはない。ツ伯の死後、ツェッぺリン飛行会社はLZ−127を27年に建造し、これが29年8月に世界一周を20日間でなしとげて新記録を作った。しかし、最新鋭のLZ−129(ヒンデンブルク号)が1937年5月6日、レークハースト飛行場に着陸の瞬間に大爆発を起こした事件は、訳者の記憶に残っているが、これでもって飛行船時代は終わりを告げたのである。
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