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 『中米マヤ遺跡宇宙ロードの旅』 紀行 第1話

UFO Contactee No.123 1993 WINTER より転載

今年(注:1992年)8月13日より、22日まで日本GAPは予定通り中米マヤの遺跡見学をして大成功裡に無事帰国した。 (日本GAPは1999年末に解散)

▲グァダルーペ大寺院。地盤沈下のため傾いている。

日本GAPが企画してメキシコを訪れるようになってからこれが四度目だが、それ以前に筆者経営の出版社時代の1977年に一度メキシコ行きを企画して、これに参加したのはほとんどGAP会員なので、実質的には5度目となる。

行くたびに同国が近代化されて、1949年に公開されたメキシコ名画『真珠』 に見られるような大戦前の古い時代の土俗的なエグゾティシズムは薄れてゆくのがわかる。

しかし私たちの旅はたんなる異国情緒の満喫ではなくて、世界史上最大の謎の一つであるマヤ遺跡を見学することにある。謎だから面白いのだ。いつまでも謎であってほしい、との思いをこめながら、まずサンフランシスコに13日の朝着いて、ダニエル・ロス夫妻の出迎えを受けた。

空港で一同に紹介してから、夫妻も我々のバスで市内観光に向かう。あいにくサンフランシスコ市内は霧が立ちこめて、トウイン・ピークスへ登るのに、下界はよく見えない。世界一美しい都市の一つといわれるこの町は昔来て知っているけれども、やはり残念だ。

夜はホテルの食堂で夫妻と大いに歓談した。ロス氏はアメリカにおけるアダムスキー研究家としての第一人者。膨大な資料を収集しており、『UFO−宇宙からの完全な証拠』 と題する本を出している (日本語版は中央アート出版社から刊行中)。年齢にはかなり差があるけれども私とは古くからの親友で、東京の総会にも二度ほど来たことがある。

ロス氏は今年1月末に私のデザートセンター調査行に参加したから約半年ぶりだが、パメラ夫人とは2年ぶりの再会。久しぶりに彼女の流麗な西部英語を聴いて心が和んでくる。

陽気なメキシコ民族音楽

翌14日、サンフランシスコ空港で夫妻と別れてメキシコ行きの機上の人となる。メキシコ空港では税関でひっかかった。ここには特殊な押しボタンがあって、ゆっくり押すと赤、勢いをつけて押すと青の色が出る。麻薬を隠しもっている人は押すのに自信がないから赤が出る。私の場合も疲れていたせいか赤が出たので係官が訊問に来たが、すぐに釈放してくれた。一種の心理作用の応用だが、あまり効果はないだろう。

夜は久しぶりにメキシコ料理店でメキシコ民族音楽の生演奏を聴きながら一同で食事をとる。メキシコの民族楽団は大別してマリアッチとハロッチョに分かれる。前者はトランペット、ヴァイオリン、ギターその他で構成され、後者は男達全員がギターを弾きながら民謡を二部または三部で合唱する。いずれもメキシコ独特の異国情緒に満ちた陽気な民族音楽である。

一国の国民性や気質はその国の民族音楽の旋律に現れているというのが私の持論なのだが、メキシコ人は底抜けに陽気であるから、民謡の旋律もメイジャーばかりでマイナーはほとんどない。 この料理店のマリアッチ楽団の程度は相当なもので、ガリバルディー広場で夜通し演奏している連中などの比ではない。私が出したリクエスト曲『ランチョ・グランデ』も見事な編曲と演奏を示した。これはメキシコの代表的名曲で、この演奏が始まると、客席からも「ララーアッハー」というかけ声が飛ぶ。これはグイッペと呼ばれる独特なもので、メキシコ民族音楽に不可欠な合いの手だ。昔、革命戦争で農民に酒や麻薬を飲ませて、このグイッペでけしかけてかり集めた名残りが音楽に残ったという。

▲テオティワカンの太陽のピラミッド。

ディエゴの奇跡

翌日は市内見学。首都名は国名と同じメキシコ。バスであちこちの名所旧跡を回り、昼前にグァグルーペ大寺院へ行く。日曜日なので参詣人でごったがえしている。この寺院建立には次のような経緯がある。

アステカ帝国の首都テノチティトランがスペイン人に征服されてから10年後の1531年、アステカの神殿跡のテペヤクの丘に、ホァン・ディエゴというインディオ (原住民)の男がいたとき、突然岩の除から一人の女性が現れた。皮膚は褐色で容貌はインディオのそれだ。長い衣をまとっている。

女性はディエゴに向かって自分が聖母マリアであることを仄めかし、大司教に自分のための大聖堂を建てるように進言せよと、インディオの方言であるナワトル語で話しかける。ディエゴはただちに大司教へその旨を伝えるが、相手にされない。

再度出現した聖母に結果を伝えると、テペヤクの丘にバラが咲いているから、それをマントに包んで大司教の所へ持参せよと言う。ディエゴが丘へ登ると、不毛の地に不思議にもバラの花が咲き乱れていたので、それを包んで大司教のもとへ持って行くと、開いたマントに聖母の姿が写真のように印画されて浮かびあがっている。

驚いた大司教はこれこそ聖母マリアの奇跡だと信じて、その地へ大聖堂を建立した。以来、この話は聖母グァグルーペとしてメキシコ中に響き渡ったのである。

UFOが操作?

以上はフランス・ルールドのベルナデットの体験と酷似しているが、ディエゴが会った聖母は褐色の皮膚であった。

ルールドやポルトガルのファティマの例でも考えられることだが、こうした聖母出現は心霊やオカルト的なものではなく、上空のUFO (スカウトシップ) からの操作によると思われるのである。つまり特殊な放射線で立体像を見せる方法だ。そしてイエスの愛の法則に従って生きるように仕向けるのであると思われる。

しかし結局は宗教上の奇跡とされ、美化されるのであって、似たような例は他にもいろいろある。ルールドやファティマと同様に、グァグルーペでも奇跡的に難病が治る例があるらしい。これはたぶん「ここへ来れば必ず治る!」という病人の熱烈な信念の作用によるものだろう。治らない人も沢山いるようだ。

1978年にルールドへ行ったとき、私は有名な聖泉の水を多量に飲んだが、慢性持病に全然効かなかった。

82年の8月にファティマへ行ったときには、3人の主人公の1人であるルシアの家の裏の井戸から出る生水が奇跡を起こすといわれていたが、私は気持が悪くて飲まなかった。

テオティワカンの大遺跡

グァグルーペの次に私たちはメキシコ市北方約50キロの位置にあるテオティワカンへと向かった。ここの目玉は太陽のピラミッドと月のピラミッドで、『太陽』は高さ65メートル、正方形の底辺の長さは225メートルあり、『月』はこれより一回り小さい。

ここは紀元前後頃に建設された巨大な宗教都市で、4世紀から7世紀にかけて繁栄の極に達した。いかなる種族が住んだかは不明だが、7世紀末に謎の種族によって滅ぼされ、廃櫨と化した。後年、ここへ侵入したアステカ族がこの偉大な遺跡に畏怖感を抱き、神殿ピラミッドに太陽とか月とかの名称を与えた上、太陽の前の広い大通りを『死者の大通り』と名づけたのである。

テオティワカンは後に隆盛を極めたマヤ文明に多大な影響を与えたらしいが、すべては謎に包まれている。『太陽のピラミッド』を修復したとき、元は五層だったものを監督がうっかりして四層にしてしまったという逸話がある。

私自身はここへ4度来ているので、見慣れたせいか感動は起こらないが、昔ここにUFOが関係していたというような外国の文献を思い出して複雑な気持になる。

UFOはともかくとして、洋の東西を問わず古代人の技術には驚嘆のほかない。高さは低いけれども日本の仁徳天皇陵も規模からいえば相当なものだ。

一同がピラミッドへ登って下りた頃にスコールが来た。ここは夏の遅い午後にはかならず俄か雨が降るから、午前中に来るのがよいようだ。

スペイン人の宗教政策

翌日は昔銀山で栄えたタスコの町へバスで行く。途中、クエルナバカという覚えやすい町へ寄る。一時過ぎにタスコへ着く。ここも二度目。町は昔のままで、赤い屋根に白壁のコロニアル風の古い家が多い。外国の家のデザインに強い関心をもつ私は、さすがスペイン風だと感心していたが、ガイドさんの話によると、なんのことはない、白壁にしたのはタランチュラという毒グモやヘビなどが壁にへばりついているのを発見しやすいためだという。

ここでサンタ・プリスカ教会へ入る。昔銀山で大儲けをやったスペイン人ホセ・デ・ラ・ポルダの寄進になるもので、1.5トンの金を使用したというだけあって、金ピカの絢爛豪華な建築だ。ここでの見所はこれぐらいしかないが、往時、中米を占領したスペイン人がインディオに対して強力な宗教政策をとったことがわかる。

ここからメキシコ市へ通じる道路は、1622年、伊達政宗の家臣、支倉常長が通った道そのものだという。当時、最初にアカプルコへ上陸した彼は、家来180人と共に18台の馬車に分乗してメキシコ市へ向かったのである。

以前に来たときは未開発の道路だったが、今は立派に舗装されて、対向車線も増えている。

>>第2話へ続く

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