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◆筆者パトリシア・フィンチ女史 |
フィンチ女史は現在英デウォン州アクスミンスクーに住んでいるが、以前ドーセット州シャーボーンに3年間住んでいたとき、大母船が飛ぶのを目撃したことがある。そのとき起低空で飛ぶことは禁止されていたにもかかわらずヘリコプターか屋根すれすれに飛ぶので、ヘリのパイロットが上空の大母船を市民たちにこ見させようとしていることに気づいたという。
ダイナミックなアダムスキー
私はジョージ・アダムスキーに会う特権と機会に恵まれて、1959年4月25日、イングランド、ハンプシヤー州ボーンマスのハイドロ・ホテルのリンデンホールでの講演を聴いたことがある。したがって、自分の信念を吐露する勇気と自己の個人的見解と体験ヒを他人に伝えることを恐れなかった、この非凡な人物に関する忌憚のない印象をお伝えすることは可能である。
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▲パロマーガーデンに立つGA。1950年代なかばの撮影。 |
この会合はボーンマス宇宙研究会の会員達によって開催された。この団体は、第二次大戦中とそれ以後に空中に出現した多数の未知の飛行物体の背後にひそむもろもろの可能性に対して多大な関心を寄せていたグループである。
アダムスキーは中肉中背の人で、鋭い眼差しと波打つ白髪をもち、端整な容貌を見せていた。この活動的な有名人は、内部からの活力を発揮しながら力強く知識情報を伝えたのである。彼は強いポーランド誰のあるアメリカ英語で語ったので、その語り口に慣れるまでは、話を聞き取るのが難しかった。
彼はみんなに見せるために持って来た映画フィルムのことに言及した。それは金星人の靴の裏から取った石膏板、彼のカメラに使用したフィルム上に焼きつけられた象形文字の文章と図形、それらの解説などを示すフィルムである。そこに伝えられたメッセージは宇宙船とその構造だけに言及したもので、それ以外の事には関係ないという。
(訳注=上の足跡の石膏とフィルムに出現した寄妙な文字や図形等に関しては、新アダムスキー全集第一巻『第二惑星からの地球訪問者』∧中央アート出版社刊)に詳述してある)
彼は語る。メッセージを含むその図形のコピーは世界中のあらゆる政府に送られた。そしてある政府(複数)は、いわゆる『空飛ぶ円盤』を建造中であった。アメリカ合衆国では、すでに宇宙船を建造していて、2機のモデルが研究所内で飛ばされていた。
ブラジルとメキシコの政府は惑星間を航行する宇宙船(訳注=いわゆるUFO)の存在を公式に認めていた。そしてアメリカの2人の天文学者は、冥王星の外側にある12個の惑星の軌道を追跡していた。このことは太陽系の惑星群の数を11個とし、さらにもう1個が発見されることになる(ここでアダムスキーは、太陽系の惑星の数が12個であることを異星人から知らされた点について聴衆に思い出させた)。地球の天文学者達はこうした面でゆっくりと前進しているのだ。アダムスキーが知る限り、我らの太陽系の全部の惑星群に人間が居住しているという。
メキシコ農場主の事件
つづいてアダムスキーは上映した映画の第2部に言及した。彼によると、それは長い話になるのだが、メキシコ政府の関係者は、一人の裕福な農場主の事件を3年間調査した結果、それが真実であったことを公表したという。この農場主は金星を訪れて、そこへ4日間滞在してから地球へ帰って来たと主張していたのである。
アダムスキーは語る。彼や他の人達の知る限りでは、この男は(アダムスキーは別として)他の惑星へ行って帰って来た唯一の人である。通常、別な惑星へ連れて行かれた人はそこへ永住するのであって、帰って来ないからだ。
本人は金星に滞在していたあいだ、地球から来た人達に会いに連れて行かれた。彼らはスペイン人だと聞かされていたが、本人が見たところではフランス人だということがわかった。この事件を詳細に述べた本が挿し絵を掲載してメキシコで発行された(訳注=1981年に訳者が2度目にメキシコヘ行ったとき、現地在住の日系メキシコ人ガイド氏からこの事件について聞いたことがある)。
当初、メキシコ政府は本人の名前が出されて事件が真実であるとされない限り、事実を公表するつもりはなかったが、彼は名前を出すことを拒否した。 だが結局本人の氏名が土地の部落で知られるようになり、人々が彼を襲って農場の建物や財産を破壊したので、本人は政府の手で別な場所へ移動させられて、今はそこに住んでいるという。
秘密保持の重要性
ここでアダムスキーは秘密を守ることの重要性を強調した。彼自身は他人の名前を出してよいという許可を得た場合には、それを伝えるが、名前を出すことは控えてくれと言われたならば、決して出さない。伝えられた情報をペラペラしゃべったばかりに、ひどい目にあった人達もいるのだとアダムスキーは話す。
第2話へ続く |