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新アダムスキー全集

 ├ 写 真
中央アート出版社
TEL : 03-3561-7017
E-mail :info@chuoart.co.jp
 重力と宇宙の自然のパワー 第2話

UFOContactee No.120 1993 より

超絶的な宇宙的哲人でコンタクティーであるアダムスキーが生前に全米各地で行った講演の膨大な記録を入手して本誌は本号より多年にわたって連載を開始することにした。いずれも未発表のものばかりで、宇宙哲学と宇宙科学の最先端を行く驚異的な内容は、地球世界の未来の動向に関して重要な指針となるものである。今後の展開を期待されたい。

敵対者は私を阻止できない

ジョージ・アダムスキーが他界した翌年、人々が彼の生の言葉にいつまでも聞けるようにとの意図のもとに、彼が長年に渡って行なった講演、講義、会話等の録音テープの編集作業が行なわれた。その結果、4本のテープが作られ、それぞれに、"1-A"、"2-B"、"3-C"、"4-D"、とラベル付けがなされた。

▲在りし日のジョージ・アダムスキー氏

すべての一般講演において、彼はその時期に世界で発生していたことに関する話にかなりの時間をさいていた。ここで紹介する彼の講演の中でも、その傾向ははっきりとあらわれている。彼はいつも、そのときに起こっていることを、スペース・プラザーズ(友好的な異星人が実践している科学あるいは哲学と関連付けて説明しようと努めていた。

カンザス市での質疑応答の中では、イエスと救世主に関する質問が発せられているが、それに対するアダムスキーの答には、ある生命の法則の重要な鍵が含まれている。宗教的な言葉が用いられてはいるが、その下には、極めて重要な"本質" が横たわっており、それは、科学、社会問題、自然その他のあらゆる分野のいかなる言葉にも変換され得るもので、私たちが、どんな環境にあっても実践し得る法則である。

ビンガムトンでの私的講義および質疑応答は、彼が他界するほぼ1年前の1964年3月に行なわれたものである。その日、私たちグループはある個人の家に集まり、彼と昼食をともにした。そして、そのあとで彼は話を始めたのだが、私たちはもうただただその話に魅了されるばかりだった。内容の素晴らしさに加えて、いつになっても話すのをやめようとしないのだ。途中、私たちのリーダーが、彼の来訪に対する感謝の言葉と、もう疲れたのではないかという趣旨の言葉を、彼に三度も投げかけたほどである。しかし彼は延々と話し続けた。それが彼の習慣だった。時間が許すかぎり彼はいつも延々と話し続けたものだ。時間と知識を人々と共有することに常に意欲的で、ときおり休憩時間をとらねばならななったりしたときには、とてもつまらなさそうにしていたのを覚えている。

ビンガムトンでのディナーパーティーでも彼のその習慣はくり返された。それはまさに昼間の再現だった。ただしそのときは男性の参加者が増えたため、必然的に昼間よりも科学的あるいは機械工学的な話題が多くなった。

サンフランシスコでの講演は、おそらく1960年に行なわれたものであろう。それ以前にも彼は当地での講演を予定していたが、そのときは健康状態が思わしくなく、中止を余儀なーされている。

このサンフランシスコ講演は、例の世界講演旅行―その途中、彼はほとんど殺されそうになった―から帰国して間もない時期に行なわれたため、その旅行中の体験がまだ生々しく心に残っていたようだ。講演の中で彼は、「敵対者たちは絶対に私を阻止することはできません」という言葉を何度も口にしている。さらに、自分が受けた敵対的扱いに対する反応として、"両替商たち"とこの世界の経済状況に関して、ふだんの彼の講演では考えられないほどの、かなりの踏み込んだ講義を展開している。また、当時多くの人々が自宅の裏庭に設置しつつあった防空壕についても触れ、"もぐら穴"という言葉でそれを表現して聴衆を喜ばせている。

さらに、当時彼は、自分の活動のUFOに関する部分をある協力者に任せ、自分自身は、人々に宇宙の法則を教え、その実践を促すための学校の建設とその運営に専念したいと考えていた。その計画はもちろん日の目を見なかった。計画半ばにしてこの地球を去らざるを得なかったためである。

彼はサンフランシスコでの科学講演を次の言葉とともに開始している。「私がおおやけの場で講演をするのは、これが最後だと思います。あなたがたはこれから私の最後の一般講演を聞くことになるわけです」

アダムスキーは、心霊、あるいは神秘グループに、ときおりひどく悩まされることがあった。彼の心には彼らへの敵対意識は全くなかったのだが、彼は、彼らを自分の真実のメッセージの最も届けにくい人々であると感じていた。

ボストンでの講義中に、こんなことがあった。その場にいた形而上学のバックグラウンドを持つ数人が、ある時点で彼に対してさまざまな質問を矢継ぎ早に浴びせ始めたのだ。彼に自分のアイデアと彼らのアイデアとの違いを説明する時間を全く与えないほどの速さである。しかしアダムスキーは、たじろぐことも混乱することもなかった。彼は大いなる忍耐を保ち続けていた。ただ、それは人々を援助することがときにはとても困難なことがあるということを如実に示す出来事だった。事実、アダムスキーはそんなグループからの講義の要請を何度か断っている。彼らを援助することが極めて困難であることをよく知っていたためである。

ジョージ・アダムスキーが訪れるあらゆるところで、人々は彼の話をテープに録音し、あとでそのコピーを彼に送った。そして私たちも例にもれず、あるとき彼にテープを送る旨を申し入れたのだが、そのとき彼は、すでにテープが山のようになっているので、もういらないと私たちに告げた。ただアルゴンキンでの講義のときは別だった。その講義のあと、彼は私に録音したかと尋ねてきた。そこで私が録音したことを告げ、コピーが欲しいのかと聞くと、彼はぜひ欲しいと言ったあとで、「今日私は、プラザーズがとても近くにいるのを感じていた。彼らは私に大きな援助を与えてくれていたんだ」と語って、物思いにふけっていた。その思い出を彼はテープとともに保存しておきたかったのだ。

そして彼のその日の講義は私たちにとっても特に忘れがたいものとなった。とても重要なものだったのだ。彼が行なったほとんど最後の講義となったためである。

私たちと別れて次に彼はデトロイトへ行った。そして、そこでも講義を行なったあとで、また私たちのところに戻り、2、3日を過ごしてから、政府の要人たちに会う予定だと言い残してワシントンに向かった。 

彼が私たちを残してこの地球を離れたのは、それからわずか1週間後のことだった。(1991年10月)

第3話へ続く

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