2人は、宇宙人であることを証明する特殊な握手をした。彼らは普通人のように見えたしふつうの服を着ており、髪も短いしほとんどなまりなしに話した。2人はアダムスキーを車に東せて、市の郊外へ案内した。円盤のある場所へ行くためである。そのドライブ中、アダムスキーは、2人のうち1人が火星から来た人で、他の1人が土星から来たことを知った。一向が円盤のいる所へ着いたとき、アダムスキーは、金星の友を見て喜んだ。今度は、どういうわけか、相手は完ぺきな英語を話した。
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▲金星の円盤の断面図。アダムスキーが3人の宇宙人と宇宙旅行した後、その説明に基づいて描いたもの。宇宙人の1人は最初のコンタクト以来の友人である。
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3種類の惑星から来た人々は、アダムスキーを円盤内に案内し、宇宙旅行に連れて行った。アダムスキーは体験記の中で、この人々をはっきりさせるために、仮の名前をつけている。彼らは、地球人のように名前を用いはしないからである。金星人をオーソン、火星人をファ−コン、土星人をラミューとアダムスキーは呼んでいる。 円盤の床にあるレンズのおかげでアダムスキーは、円盤が空間に上昇するにつれて、地上を見ることができた。円盤は母船の中へ入り、そこでアダムスキーは他の宇宙人たちに迎えられるが、その中に2人のすごく美しい婦人がいて、これがアダムスキーのほおにキスをする。アダムスキーが円盤の飛来の理由を聞かされたのは、この宇宙旅行中である。その理由というのは、核爆発によって「現代の地球人をおびやかしている重大な危険」を警告するためであるという。 また、地球の核爆発は太陽系のバランスを失わせ、近隣の惑星群に住む人々の生命を、危険にする恐れもあるという。
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▲金星の母船の断面図。上方に着陸用ハッチ、下方に離船用ハッチがある。また左側には格納デッキがあり、ここに円盤が収容される。アダムスキー著『宇宙船の内部』より。
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友好的な惑星人との―彼らの年齢は40歳から数百歳に及ぶ―別な宇宙旅行でアダムスキーは月を見に連れて行かれたと称している。宇宙の友人たちは、地球の科学者が月に関して誤った知識を持っていると彼に語る。月の状態は、想像されるほど極端なものではないというのだ。
「月の中心部には美しい地帯があって、そこには草木や動物などが生きていますし、人間も快適に生活しているのです。 地球人でさえもそこに住むことができるでしょう。人体というものは、宇宙で最も順応性に富んだ一種の機械なのです。」
1951年3月5日、アダムスキーが撮影した連続写真
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▲金星の円盤1機が発射され2機目が長大な葉巻型母船から飛び出ようとしている。 |
月の地球に面した側には、植物はまばらにしかないがアダムスキーは、毛に覆われた獣が1匹走り回るのを見た。その後、月の裏側へ連れて行かれたとき、彼は都市や山脈、川、湖などを見たという。
またアダムスキーは、不可視のスクリーンに投影される金星の立体映画を見せられた。この画面にも、都市や地球に似た光景が見られた。動物は、地球のそれに似ていることがわかったし、ウマやウシばかりでなく、カナリアのような鳥も見えたという。
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▲4機の円盤が現れてなおも母船近くに滞空し5機目が底部からでている。 |
ジョージ・アダムスキーは1965年4月23日に死んだ。宇宙飛行士が月へ最初に到着する4年前である。彼は月の探検が彼の多数の支持者の夢を消すのを見ずに逝ってしまった。我々は今や、月に生命がないことも、金星や太陽系の他の惑星群には知的生命が存在しそうにもないこともよく知っている。そうすると、アダムスキーは我々をだましていたのか、あるいは彼がだれかにだまされたのか、それともこれは、彼が真実だと思った心理的な体験なのか?
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▲6機の円盤と母船が一団となり、どれも明るい輝きに包まれている。 |
ところで彼は、完全な不信から逃れえた少なくとも1つの謎を残している。つまり最初の宇宙旅行記の中で、彼は次のように体験を述べているのだ。
「ファーコンが円窓の一つへ行けと合図をして言った―『宇宙空間が実際にはどんなふうに見えるか、知りたいでしょう。』外を見たとたんに、さっきの失望感はすぐ消えてしまった。宇宙空間の視界が完全に暗黒なのに驚いたのである。しかも、船体の周囲いっぱいに発生している現象があった。 まるで、無数のホタルがあらゆる場所を、あらゆる方向に飛び回っているように見えるのだ。しかもこれは多彩な光色を放っていて、宇宙の花火大会ともいうべき、すさまじい美観を呈している。」
このアダムスキーの言葉を、有人宇宙船で地球周回飛行中に宇宙飛行士ジョン・グレンが述べた言葉と比較してみよう。
「宇宙飛行の最大の驚異は、夜明けに発生した……私が窓から振り返って見たとき、最初の反応は、宇宙船が引っくり返って、窓からは星しか見えないということだった。 しかし、まだ正常な姿勢にあることに気づいた。宇宙船が光る粒子に取り巻かれているのだ。これらの粒子は、明るい黄緑色である。まるで宇宙船が花火の野の中を進行しているかのようだった。」
偶然の一致なのか? アダムスキーの体験記は1955年に初版が刊行された。グレンの宇宙飛行は1962年2月20日である。このことは、アダムスキーが宇宙人と真実のコンタクトをしたことを意味するのかもしれない。しかしアダムスキーは、自分の体験記を大衆に認めさせようとして潤色したということかもしれない。
アダムスキーは、自分の体験がユニークなものだとは全然言っていない。宇宙人は、他の人々にもコンタクトしていると語ったという。 当然、多数のこのような物語が間もなく現れた。たいていの本は、証拠について何も提供していないし、どの書物ももっとファンタステックにしようとして、先輩たちと張り合っているように思われる。
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▲画家で作家のR.L.ヨアニスが描いたUFOパイロット。彼は1947年8月、イタリアの丘で2名とコンタクトした。その話は当時、国際的に話題を呼んだ。 |
まじめなUFO研究家、特に円盤は惑星間宇宙船だと信じている人々は、どちらを向いてよいかわからなかった。 彼らの待ち望んでいた証拠がやっと出て来たというのに、それは望みどおりのものではなかった。
彼らは、こうした字宙人との個人的なコンタクトの物語は、まじめな研究にとっては、軍当局の無数の否定宣言よりも、もっと有害になるだろうと考えたのである。UFOマニアの中には関心を捨てた人もあるし、空中のあいまいな物体や光体の研究に立ち返って、コンタクト事件をわざと無視するようになった人もあった。一方、コンタクト事件の研究をねばり通そうとする人もあった。コンタクト事件類の中に一定のパターンを確立することは、実際上不可能だった。あらゆる事件が真実であったとしても、そのいずれもが異なる惑星からの飛来に違いないと思われた。巨人、小人、毛むくじゃらの生物、滑らかな肌をした人間、そして多数の変なものがあった。
最も初期の2件のコンタクト事件は、空飛ぶ円盤がホットニュースになった年に起こった。ケネス・アーノルドが、1947年6月24日に有名な目撃をやってから29日後で、アダムスキーの体験より5年前である。
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▲1952年9月12日にウェストバージニア州フラットウッズでUFOの付近に見られた怪物。 絵を持っているのは目撃者の1人である。この怪物は、光る黄緑色の目をしており、身長は3〜4.5メートルぐらいだった。一群の目撃者のほうへふわふわと浮かびながら近づいて来たのでみんなは恐れて逃げた。なかには、後でひどい病気になった人もある。 |
測量士のジョゼ・ヒギンズが、ブラジルの奥地で一団の人々と一緒にいたとき、灰白色の金属の大きな丸い飛行体が、ヒューツという音をたてて空中から下降した。ヒギンズの仲間たちは逃げた。直径約45メートルの巨大なUFOが、曲がった金属の脚を出して着陸し、3人の人間が中から出て来た。男か女かよくわからない。彼らの身長は、約2.1メートルあり、頭と体はふくらんだ透明の服で覆われている。その下には、明るい色の紙で作られた衣服を着ているように見えた。3人とも背中に金属の箱を背負っている。みんな同じような頭だ。大きく、丸〈て、大きな目をしている。まゆやひげはない。ヒキンズには、彼らが異様に美しく見えた。 彼らは地面に8個の円をかき、7番目の円が彼らの故郷であることを示した。これは後で、彼らが7番目の惑星である天王星から来たことを意味するものと解された。
ヒキンズは、彼らが船内へおびき寄せようとするのを、うまく逃れて、彼らがあたりを飛びはねたり、大きな石を投げ上げたりするのを30分間ながめていた。やがて彼らは、船内へ引き返し、空中へ消えて行った。
それから1か月たってイタリアで、有名な画家で作家のR・L・ヨアニス教授が、きわめて異常な宇宙人に出会った。
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▲大気圏外からやってきた微笑する小人たち。1954年、このような小人たちが軸型のUFOから出てきて森の中でイタリアの婦人に話しかけた。彼らは婦人が持っていたストッキングとカーネーションの花束をもぎ取ろうとした。それからUFOに乗って飛び去ったという。 |
1947年8月14日、彼はイタリア北東部の小さな村の近くで化石を捜していた。ナップサックと地質学名用のつるはしを持って、谷を進んでいたとき、前方の山の岩の中に埋まりこんだ大きな赤いレンズ型の物体を見たのである。物体から2本のアンテナか突き出ている。ほど遠からぬ所に2人の少年と思われる姿を見たが、相手が奇妙な小人であることに気づいてゾッとした。 身良は約90センチメートルしかな〈、頭は普通人のそれよりも大きいという印象を受けた。彼らは、半透明の材質でできた濃紺色の上下続き服を着ており、鮮明な赤色のえりとベルトがついている。茶色の帽子をかぶっているので、髪は見えない。肌は緑色である。口は魚の口みたいに小さなすき間になっており、目は丸くて、人きな黄緑色のプラムのように飛び出ている。相手が近づいて来るにつれて、教授はその場にくぎづけにされて動けなくなった。やっと彼は腕を上げて宇宙船を指さし、「君たちはだれだ、手肋けしてあげようか」と叫んだ。
小人たちは、教授の動作を敵対行為と聞違えたらしい。 彼は突然、相手の1人のベルトから放射された光線で打たれて、地面に倒れ、体はほとんど麻ひしてしまった。小人たちは彼のほうへやって来て、その1人が彼の落としたつるはしを拾い上げようとかがみこんだ。教授は戦りつした。手の代りにつぎ目のない緑色の爪を見たからである。2人の小人は、岩の中にいた円盤へ入って行った。 そして間もなく、物体は岩の割れ目から飛び出たのである。しばらく物体は、恐怖している教授の上に停止したが、やがて急速に飛び去った。
ヨアニス教授が、地面から起き上がれるほどの力を出すには、長時間を要した。いくぶん回復したとき、自分の魔法びんか粉々になっており、金属の容器が跡形もないのに気づいた。アルミニウムのかんとフォークが消えていたし、地質学老用のつるはしもなかった。
アダムスキーが初めて宇宙人に会ったという1952年は、コンタクトの“豊作”の年である。オスカー・リンケ市長の報告によれば、彼と娘のガブリエレが、西ドイツへ帰る途中、ソ連領内6.4キロメートルの地点にいたとき、上下続きの銀色の服を着た2人の人間らしい姿に出くわしたのである。1人は、その胸からフラッシュライトを発していた。近くの森の空き地に、円盤が停止している。直径は15メートルで、大きな卵型のフライパンのような形である。その人間たちがリンケと娘の声を聞いたとき、彼らは飛行体のほうへ走って行き、ごう音と炎の中を離陸した。リンケと娘は、物体が樹木を越えてヒューツという音をたてながら飛んで行くのを見た。
次にオルフェオ・アンジェルッチの事件がある。彼の主張する円盤乗員とのコミュニケーションはテレパシーによるものであった。彼は、空中の赤い光体が2個の緑色の円盤を放つのを見たと主張している。この円盤が、彼の自動車から数メートルの位置まで来て停止したとき、人間の声が英語で話しかけてきた。 すると、2機のUFOの間にスクリーンが現れて、最高に高貴な男と女の顔が出現した。 会話は2時間続いた。 別なコンタクトで、彼は円盤に乗せられたという。
第5章 第3話へ続く |