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新アダムスキー全集

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 第1章 円盤の飛来 第1話 宇宙よりの訪問者/ロイステマン
 

空中の謎の物体の目撃例の大部分があいまいである。
しかしこれらの物体を間近に見て写真に収めた人もいる。

マンテル大尉の悲劇

▲屈折望遠鏡を用いて撮影された宇宙線観測気球。大気圏上層部からデータを集めるために作られ極秘にされていた、当局の調査官によれば、マンテル大尉はこれを追跡して死んだものだという。
▲屈折望遠鏡を用いて撮影された宇宙線観測気球。大気圏上層部からデータを集めるために作られ極秘にされていた、当局の調査官によれば、マンテル大尉はこれを追跡して死んだものだという。

ケンタッキーの上空高く、未確認飛行物体に接近しようとして、飛行機は全速力で上昇していた。この光景は地上の多数の人々に目撃され、その中にはゴッドマン空軍基地の管制塔要員たちもいた。謎の飛行物体の正体を突き止めるために、3機のF−51ムスタング戟闘機が訓練飛行から追跡に転じたのである。指揮官機を操縦していたトマス・マンテル大尉は、僚機をはるかに引き離して、無電で管制塔へ最初の劇的な連絡をした。「前方上空に何かが見える。 本機はなおも上昇中。」

何を見たのか説明せよと、マンテルは指令を受けた。「金属製らしい。すごく大きいぞ……」 数秒後に彼は発信した。「頭上にいる。本機は接近中。6キロメートルまで上昇の予定。」

これが最後の言葉となった。1948年1月7日という運命の日に、ゴッドマン基地から145キロメートル離れた地点で,バラバラになった機体の残がいの近くに彼の死体が発見されたのである。謎の飛行物体は逃げた。マンテルとその飛行機は、異星の宇宙船に攻撃されたと信じた人々もいたし、死んだパイロットの体は、謎の放射線で焼かれたのだといううわさも広がった。アメリカ空軍の説明は、空飛ぶ円盤に関して高まる大衆の不安を静める力をほとんど持っていなかった。アメリカ空軍によれは 機敏で憤重な人として知られたこの熟練したベテラン操縦士は、金星を追跡して死んだのだという。経験深いマンテルや訓練を積んだ管制塔の観測員たちが、見慣れた天体を、目撃者の言う「頂上の赤い、巨大なソフトクリームのコーン型」物体と見誤るとは、たいていの人には信じがたいことだった。

マンテルの死から15日後に、空飛ぶ円盤−今はUFO、すなわち未確認飛行物体と呼ばれるのがふつうだが−についてアメリカ空軍の公式調査が開始された。これは暗号名でプロジェクト・サインと呼ばれ これが存在することは、マンテル事件より6か月以上も前から急に新聞の見出しに載り始めた奇妙な空中の侵入者に対して、当局が実際には関心を持っていることを示すものであった。

ケネス・アーノルドの目撃  

▲アイダホ州ボイスの実業家、ケネス・アーノルド。1947年6月にUFOを目撃した。
▲アイダホ州ボイスの実業家、ケネス・アーノルド。1947年6月にUFOを目撃した。

1947年6月24日、ワシントン州カスケード山脈の峰々の間を、9個の輝く円盤が編隊を組んで縫うように進行するのをケネス・アーノルドが目撃し、地球は他の文明の人類から訪問を受けているのかもしれないということを、初めて世界に気づかせたのである。自家用機のパイロットで、アイダホ救難飛行隊のメンバーであり、アタ郡航空民兵団の飛行副団長であるアーノルドは、当時、山脈中に墜落した商業機を捜索していた。彼は行方不明の飛行機を発見して、5000ドルの報酬を得たがっていた。残がいは見つからなかったが、円盤の目撃て彼は世界的に有名になったのである。

目撃した飛行物体を記者団に説明したアーノルドは、それらが「水面上を飛びはねるソーサー(コーヒー台皿)のように」進行したと述べた。そこで発明の才ある記者が"フライング・ソーサー"という新語を造り、これが間もなく日常用語となり、辞書にも載るようになったのである。しかし、まじめな研究者は、この通俗的な語を使用せず、もっと正確な用語である"UFO"(Unidentified Flying Objectの略)を好んで用いる。

空中に現れる不思議な飛行物体を見たのはアーノルドが最初ではないし、それらを円盤型だと説明したのも、彼が最初の人ではない。テキサス州の農夫が空中を急スピードで飛ぶ物体を見て、自分に説明できるのは、大きな台皿型だということだけだと言った。これは1878年1月24日のことである!第二次大戦中にも不思議な航空機に関して報告が出ており、これらはだいたい敵の秘密兵器だろうと考えられていた。しかしアーノルドの目撃は、UFO活動に転機をもたらしたばかりでなく、マスコミに対しても適切で多彩な記事を提供したかに思われた。おそらくこれは、わずか25年間で2度目の大戦から立ち直った人々が、地球の苦悩を静めてくれるより賢明な人類が、宇宙に存在することを願っていたからだろう。大衆の想像力をかき立てたのは、アーノルドの判断によると時速2700キロメートルという、円盤の信じがたいほどの驚異的スピードであろう。簡単に言えば、人々の興味を引き起こし楽しませたのは、飛行物体の形に関する説明であったかもしれない。

UFO目撃が続出

▲沿岸警備隊のフランク・ライマン。1947年7月4日、ワシントン州シアトルでUFOを撮影。
▲沿岸警備隊のフランク・ライマン。1947年7月4日、ワシントン州シアトルでUFOを撮影。

アーノルドの円盤目撃から4日後に、アラバマ州モンゴメリーのマックスウエル空軍基地上空に、「考えられないような動き」を示す1個の輝く光体を、2人のパイロットと2人の情報将校が見た。ところが同じ日に、ネバタ州ミード湖付近で空軍ジェット機のパイロットが5機ないし6機の見慣れぬ航空機の編隊を見たのである。そして7月4日には民間機PC−3のパイロットと副パイロットによって、別な円盤の編隊が目撃された。両名は、5機の物体が日没の空に黒く浮かび上がるのを45分間見続けた。このグループが消え去って間もなく、4機から成る第2次編隊が出現した。これらはアーノルドが見た9個の円盤と同じものなのであろうか?これより数日後の7月上旬のある日、カリフオルニア州モハーベ砂漠にある空軍の極秘実験場は、一連の空中からの訪問に見舞われていた。最初の目撃はミューロックー現在はエドワーズー基地にいたあるテストパイロットによるもので、彼はある実験機に乗って飛び立つ準備をしていたが、そのとき1機の黄色い球形の飛行物体が風にさからって飛ぶのを見たのである。基地にいた他の数名の将校も、10分前に3個の似たようなUFOを見ていた。そして2時間後には、付近のロジャーズ乾湖にいた技術者たちが、アルミニウムのような外観を呈した1個の円い物体を見た。1分30秒間それを目撃した後、彼らはその奇妙な飛行物体が「人工的な物」であると結論づけた。同じ日の後刻、エドワーズの南方60キロメートルの位置を飛んでいたあるジェットパイロットは、光を反射した平たい物体を頭上に見た。調査しようとしたけれども、彼の飛行機はUFOほどの高度に上昇できなかった。

▲20倍に拡大したライマンの写真。空軍は観測気球だと主張した。
▲20倍に拡大したライマンの写真。空軍は観測気球だと主張した。

UFOの報告が出始めた初期のころには、アーノルドや他の目撃者は新型の秘密航空機かアメリカ陸軍が開発中の誘導ミサイルを見たのだ、と多くの人が信じていた。アーノルド自身も、いっときそう思っていた。しかし信頼できる有能な目撃者たちから−彼らの多くは最近の航空機の発達状況を熟知している一目撃報告が洪水のように出るにつれて、アメリカ空軍はUFO問題にいらいらし始めた。舞台裏で空軍は、UFOが強国の所有下にある可能性を探っていたのである。結局、大戦の終結時に連合軍は、最近のドイツの航空機と開発下にあったミサイルに関する完全な資料を入手していたのである。ソ連がドイツの資料から、航空力学上の新しい概念を発見したのだろうか?それともソ連は、アメリカを探査するための独自な型の航空機を開発したのだろうか? しかし、ソ連がこのような短期間にUFOの飛行特性に合致する航空機を生産することは不可能だ、という事実が間もなく判明した。たとえできたにしても、ソ連がそれを多数の国の上空に飛ばして秘密をあえてさらけ出すとは、とうてい考えられないことである。というのは、雪に覆われたレーニア山頂付近すれすれに飛んだ円盤を、アーノルドが報告してからずっと、UFOは 世界各国の上空に出現してきたからである。

他惑星からの観察者か?

▲F-51戦闘機に装備されるムービーカメラ。UFOを撮影するため装備された。
▲F-51戦闘機に装備されるムービーカメラ。UFOを撮影するため装備された。

地球上のいかなる国といえどもUFOの製造は不可能だ、ということがはっきりしたために、他の文明が地球を観察している可能性を検討する必要が起こってきた。この考え方は、すでに数名の作家によって出されていたものである。

しかし、別な考え方もあった。たぶん"円盤熱"が国じゅうを襲い、一般の注意深い人々や、経験ある観測者にさえも、日常の物体をUFOと見誤らせたのかもしれないのだ。これは、当局の方針であるように思われた。センセーショナルな報告に次ぐ報告が、気球、鳥、流星、惑星、従来の飛行機、または自然現象として片づけられたからである。そうすると、プロジェクト・サインによる調査はなぜ続行されて、やがてプロジェクト・グラッジやプロジェクト・ブルーブックに引き継がれたのだろうか?これは、専門家があらゆる既知の可能性を排除しても、なおかつUFO事件が報告され その少数ながらも重要な部分は、自然現象として説明しきれないからである。目撃者の信頼性、またはレーダー報告のような裏づけ証拠などの点から見て、これらは時として最上の報告として保管された。

軍のスタッフは、外国がアメリカの上空からの探査を隠す手段として、円盤熱を利用するかもしれないと心配した。なぜなら、1940年代後半に出たUFO目撃報告の大洪水によって、当然のことながら、大衆は空中の物体に無感動に なったからである。人々がもはや無関心になったというのではなく、UFOの正体を突き止めるのに役立つ資料から何かのパターンが出てくるかもしれないと考えても、その飛行状況などを報告に書きこむほかには可能な手だてがなくなっていたのである。したがって、UFOの正体がわかるまでは、潜在的な脅威のタネと見なされることになった。

パイロットとUFOの決闘

▲1947年7月にケンタッキー上空を飛んだ3個の光体のうち2個の写真。多くの目撃者が光体は円盤型だと告げた。
▲1947年7月にケンタッキー上空を飛んだ3個の光体のうち2個の写真。多くの目撃者が光体は円盤型だと告げた。

激烈なUFO活動が続いた6か月後に、最も神経質な市民さえも、円盤が敵意を持つものだとすれば、長い年月をかけてそれを示していたはずだと考えるようになった。そして、マンテル大尉の死に関する破滅的なニュースが出てから、大衆の不安は高まった。一方当局の内部では、その年がパイロットと円盤との決闘の年であることを、調査官たちは知ることになった。

それは、1948年10月1日、ノースダコタ州ファーゴ付近で発生した。ノースダコタ航空警備隊のジョージ・ゴーマン中尉は、平原上空の飛行を終えて基地に接近していた。着陸の指示を求めて彼が無電で連絡したとき、管制塔は付近にパイパーカブ1機しかいないと伝えてきた。そしてゴーマンは、接近するにつれて眼下にその軽飛行機を見た。突然、1個の光が右方へ通過した。彼は別な飛行機の尾燈と思い、管制塔を呼び出して苦情を言った。パイパーカブ以外に空中には何もいないと伝えられて、彼はその光休を追跡することにした。

▲UA航空のパイロット、E.スミスは1947年7月4日に飛行中、5機からなるUFOの編隊を目撃。手にもつ皿は飛行機から見えた大きさだという。
▲UA航空のパイロット、E.スミスは1947年7月4日に飛行中、5機からなるUFOの編隊を目撃。手にもつ皿は飛行機から見えた大きさだという。

相手をさえぎろうと旋回するにつれて、パイパーカブが街の燈火を背景にくっきりと黒く浮かび上がっているのが見えた。しかし謎の光は、固体に付属したもののようには見えなかった。ゴーマンは最高速で接近した。

あと900メートルという所で、彼はその光が直径15〜20センチメートルで 明滅しているのを見た。ここまで接近したとき、光体は停止したので、ゴーマン機は機体を傾けて左へ急旋回した。続けて何度か唐突な飛行をやってから、ゴーマンは自分がUFOと衝突するコースにあることに気がついた。光体が逃げようとしていないことを知ったゴーマンは、急降下した。円盤はわずか数メートルの距離で、ゴーマン機の天蓋をかすめた。"死の決闘"は続く。ゴ−マンは正面衝突を避けようとして、二度目の急降下をする。数秒後、不思議な光体は上昇を始めた。 そしてゴーマンが震えながらファーゴ帰還して、驚くべき報告を行ったころには、光体は消えていた。

彼が空軍技術情報センターへ提出した報告の中に、次のような言葉がある。
「その光体の動きは、想念または理性でコントロールされているという、はっきりした印象を受けました。」他の4名の観測員も同じ時刻にファーゴで急速に進行する光体を見ているが、激しい戦いを目撃した人はいない。

円盤存在論者にとっては、マンテルとゴーマンの例は、優秀な生き物が技術的に進歩した乗物に乗って地球の空をパトロールしている、という十分な証拠になった。円盤は敵対的であるか、少なくとも追跡されたら報復が可能だと考える人もある。また、マンテル事件は事故であり、ゴーマンの場合は宇宙人側の遊びにすぎなかったと考える人もいた。一方、空軍は新たな熱意をもって調査を続けながら、公然と報告頬を却下する方針を保った。空軍の考え方は、故エドワード・ルッベルト大尉の著書『未確認飛行物休に関する報告』が1956年に刊行されて、ますますはっきりしたのである。ルッベルトは1951年から1953年まで、プロジェクト・サインを引き継いだアメリカ空軍のプロジェクト・ブルーブックの団長であった。彼は、満足に説明のつかない初期の有名な事件類に、新たな光を当てようとした。

(第1話 2部へ続く)

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