ドワード・ルッペル大尉は言う
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▲気象学者のチャールズ・ムーア博士。彼は4名の海軍士官と宇宙線観測気球も打上準備で多忙だったときUFOを目撃した。 |
目に見えたとすれば、空中のUFOと同じ位置にいたかもしれないが−。ルッベルトは、はるかにもっともらしい解択を下した。マンテルは秘密の宇宙線測定用気球を攻撃しようとして死んだ、というのである。宇宙線測定計画は、気球によって大気の外縁から情報を集めるために企てられたものでマンテルがUFOの正体を突き止めようとした当時は、機密扱いにされていたのだ。ルッベルトの主張によれは マンテル事件の公式調査に関係した人はすべて、彼が宇宙船を追跡していたと確信していると言い、したがって宇宙線観測飛行物体に関するデータを得ようとして、安全なレッドテープに反抗しようとする人 はいなかった(レッドテープは、なまぬるい役所仕事)。
ルッベルトがこの可能性を調べたころまでには、1948年の宇宙線観測飛行物体の記録はもうなかったが、関係者たちは、当時飛行物体がオハイオ州南部のクリントン郡空軍基地から打ち上げられていた、と思っていた。問題の日の風速記録によれば、クリントンから打ち上げられた気球は、UFOが目撃されたゴッドマン基地区域のあらゆる地点から見えたはずである。気球は18キロメートルまで上昇して、次に南方で漂ったはずである。マンテルは、自分が気球を追っているとは気づかなかったために死んだのだとルッベルトは論じている。
「目撃された物体はさておき、彼は直径30メートルもある巨大な気球のことを全然聞いていなかった。したがって、もちろん彼はそんな物を見たことはないのである」とルッベルトは説明した。もし気球が1月7日にクリントンから打ち上げられていたならば、空飛ぶ円盤の最も忠実な信者でさえ、事実と目撃の説明が文句なしに一致することを認めないわけにはいかないだろう。しかし、その日はどんな観測気球もゴッドマン地域上空のジェット気流に乗らなかったと証明されるならば、円盤を疑っている人でも、トマス・マンテル大尉を死に追いやった物体は、UFOの最も神秘的な謎の一つであると認めないわけにはいかないだろう。
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◆宇宙線観測気球を膨らませているところ。これはUFOブームの原因を説明しようと海軍が打ち上げた色々な形の気球の一つ。 |
ルッベルトは、ゴーマンが円盤相手にやった奇妙な一騎打についても、同じようなもっともらしい説明をしている。ゴ−マンは小型の点燈気球と戦ったのだとその著書で述べている。これとほとんど同じような事件が、1952年9月にキューベ上空で発生した。
夜間戦闘機の練習低空飛行をやった後 東方に大きなオレンジ色の光体を見つけた海軍のあるパイロットは、近辺に他の航空機はいないと伝えられた。接近してから、彼はその物体が直径の5倍ないし10倍までの緑色の尾部を持っていると報告した。コースを変えながら上昇しているようで彼の機の動きに応じているようにさえ見えた。10キロメートルの高度に達した後、光体は急降下を始めた。90度の衝突コースで、彼はそれに向かって2度ほど突進したが、2度とも物体は機首を横切って逃げた。3度目の突進のとき、彼は光体に接近しすぎたので、下方の基地が見えなくなったと報告した。続いて物体は急降下したので 彼も跡を追ったが1450メートルの高度で「見失ったのである」。 「この事件でもUFOは気球だったのだ」とルッベルトは書いている。このことは、次の夜に点燈した気球を打ち上げて、そのパイロットに体験を比較せよと命ずることによって立証されたという。
本当に立証されたのか?
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▲いん石の権威リンカーン・ラ・パス博士。1948年と1949年、ニューメキシコ上空に緑の火球が出現したとき、その正体を突き止めるよう要請された。後には自分でも火球を目撃し、それは流星ではないと確信するようになった。 |
宇宙船の大気圏外飛来説の熱心な支持者でUFO 関係図書類の有名な著者であるドナルド・キーホー少佐は、ゴーマンの不思議な遭遇事件の夜に気象観測気球がファーゴて打ち上げられた事実を認めている。しかし彼は、それを追跡した気象局の観測員が"空中戦"の演じられた地点から気球のコースがはずれた事実を記録しているのである。
たとえマンテルやゴーマンのケースが異なるタイプの気球を見誤ったものだとしても、アメリカ空軍は大衆の知らない、もっと多くの驚異的な事件を記録しているという事実が残っている。
ケネス・アーノルドの目撃以後、その年に受け付けた円盤目撃報告類を調査した空軍技術情報部の研究結果は、ある歴史的なトップシークレットの"状況判断"に達していた。それは、UFOが大気圏外から来ると結論づけたのである。しかし空軍最高指揮官のホイト・バンデンバーグ将軍は納得せず、その報告を否定した。
人々が信じようが否定しようが、これは円盤にとって何の関係もないことである。円盤は驚くほど規則正しく出現し続け、しばしば地上の目撃者たちに空中アクロバットの壮大な光景を展開した。
当局がUFOについて新たな解釈を見いだすにつれて、彼らは自説が誤っているのを証明しているかのように見えてきた。たとえばマンテルは、観測気球を追跡中に死亡したのかもしれないが、あらゆる未確認飛行物体を金属らしく見える巨大な気球として片づけることは、確かに不可能だった。
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▲ラ・パス博士が夫人と共に目撃した火球の絵。火球群はあまりに大きく、コースも平らすぎ色も濃厚すぎるので通常の流れ星ではないという。 |
ニューメキシコ州の極秘基地であるホワイトサンズ実験場付近であるとき飛行機の搭乗員が観測気球を追跡していた。そのとき彼らは、2個の円盤が地平線のすぐ上から飛来して、30キロメートル近くの高度で気球の周囲を旋回し、急速に飛び去ったのを見た。気球を回収してみると裂けていた。この記事を書いたルッベルト大尉は、その年月日を記していないが、1948年か49年だったと思われる。
これを1951年の6名の目撃者による体験と比較してみよう。目撃者のうち2名はジェネラルミルズから来た人で、そこの航空分隊はすでに発足して、1952年半ばに先立ってあらゆる観測気球を追跡していた。他の目撃者は、ニューメキシコ州アーテジアから来た。このグループが、ある気球の動きを約1時間観測していたとき、1人が地平線上に2個の点を認めたのである。彼は、それを指差した。
そのころアーテジア空港で、2機の飛行機が来るのを待っていたからである。しかし、その点のように見えた物体は飛行機ではなかった。それは 近接した編隊で、急速に飛来して、まっすぐに気球のほうへ向かった。そして 気球の周囲を1周して、もと来た方向へ飛び去り、地平線上へ急に消えてしまった。その2個が気球を旋回したとき、鈍い白色の物体が縦に傾いたので、観測者たちはそれが円盤型であることに気づいた。彼らの推定によれば、大きさは直径18メートルである。
多くの目撃者!
UFOは流星みたいな自然現象だと信じている人々は、他人をそのように納得させるのに困難を感じていた。なぜならUFO目撃者の中には著名な天文学者や科学者がいるからである。
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▲冥王星の発見者、クライド・トンボー博士。彼もNM州で謎の緑の光体を目撃している。 |
たとえは1949年8月にニューメキシコ州ラスクルセスで6個ないし8個の緑色の光体群を見た人は、冥王星の発見者であるクライド・トンボ一教授であった。ニューメキシコ州は、緑色の火球として知られる特殊な型のUFOで悩まされていた。流星の世界的権威であるリンカ−ン・ラ・パス博士とある情報将校のチ−ムは、この火球の目撃を徹底的に調査した。ラ・パスも含む彼らの多くは緑の火球を見ているが、それが特殊な型の流星だということを示す物理的な証拠は発見されなかった。実際ラ・パス博士は、それらがほぼ確実に流星ではないと結論づけたのである。
初期のUFO目撃報告のすべては、たとえそれらがいかに優れたものであるにしても、物理的な証拠が欠けていた。多数の優れた眼視観測報告があったが、正体を突き止めるのに十分役立つ写真や映画はなかった。高速度で進行する不思議な物体をとらえた、興味深いレーダーによる報告はあったが、レーダースコープがキャッチした場所に物体がいたということを眼視観測で確認しない限り、その報告はレーダーの誤操作か、雲、鳥、その他既知の物体によるエコ−として捨てられたのである。
UFOファンが事例を証明するために必要としたのは、眼視観測とレーダーによる立証が両立した目撃例なのである。しかしこうした情報は、少しずつもれ始めて、ついに大洪水となり、首都ワシントンへ の空からの驚くべき訪問となったのである。
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▲1952年7月19日の「ワシントンUFO出現騒動」を描いた絵。 |
UFOのスペクタクル!
そのスペクタクルは、1952年7月19日の深夜に始まった。そのとき2台のレーダーが、ワシントン・ナショナル空港で8個の未確認物体をスクリーンにキャッチしたのである。その物体群が何であるにせよ、それらは時速160ないし200キロメートルのスピードでワシントン上空を飛び交った。そして突然「信じられないほどの高速」に加速して、その地域を離れた。ワシントン市の長距離レーダーは160キロメートルの測定半径をもち、空港へ接近するあらゆる航空機をコントロールするのに用いられた。ナショナル空港の管制塔には、すぐ近くにいる飛行機をコントロールするために作られた近距離測定用レーダーが配置されていた。空港の真東にはボーリング空軍基地があり、さらに16キロメ−トル東方にはアンドルーズ空軍基地があって、ここにも近距離測定用レーダ−が装備してあった。これらの空港すべては、相互連絡システムで連結ぎれていた。そして3か所のレーダーが、同じ未知の物体をキャッチしたのである。
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▲1952年7月16日、沿岸警備隊員が撮影したマサチューセッツ州セーラムの光体群。 |
1個の物体がレーダースクリーン上を横切ったとき時速1万1200キロメートルと記録されたが、それから間もなくUFO群がホワイトハウスと国会議事堂上空に現れた。いずれも飛行禁止区域である。3台のレーダ−スコープに全く同じ欠陥が生じた、という可能性も考えられなくはなかったので、装置をチェックするために専門家が呼ばれた。だが3台とも、きわめて良好な作動状態にあることがわかった。そして民間航空機のパイロットが、その地域へ飛来して正体不明の光体群を見たので眼視観測も行われていたのである。その光体群は、まさしくレーダーがUFOをキャッチした位置にいた。
その夜、地上から観測された目撃報告の最上のものが一つ入ってきた。同空港で遠距離レーダーのオペレーターが、アンドルーズ空軍基地の管制塔に対して、1機のUFOが彼らの真南アンドルーズ・レーダー局の上空にいると報告したのである。そこで管制塔のオペレーターが外を見ると、その場所の真上の空中に「巨大な火のようなオレンジ色の球体」が停滞していた。
不可解なことであるが、空軍技術情報センターへ知らせようと考えた人はいなかった。そして1機のジェット要撃機が現象を調査するために、その地域の上空へ到着したときは夜明けに近かった。搭乗員たちは空中を探索したが、異常な物体は発見できなかった。一方UFOは、そのときまでにはレーダースクリーンから消えていたのである。
ほぼ1週間後に、また円盤群がワシントン上空に出現して、同じ運動をくり返した。7月26日午後10時30分ごろ、同じレーダ−オペレーターがゆっくり動く数個の目標物をキャッチした。その遠距離レーダ−の要員はただちにそれらを追跡し始めたのである。
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▲ワシントン民間航空管理局管制センターのレーダー課長、ハリー・バーンズ。ここで謎のシグナルがキャッチされた。不可解な物体をとらえたレーダースコープ上に手を伸ばしている。 |
彼らは、管制塔とアンドルーズ基地へ警報を発したが、管制塔はすでにスクリーンにとらえて追跡していたのである。ジェット要撃機の出動命令が下された。またも遅れたが、2機のジェット機がついに真夜中過ぎに到着した。しかしジェット機が到着したとたんに、UFO群はスクリ−ンから消えた。パイロットたちは、探索中に何も発見できず、基地へ引き返した。だがジェット機がワシントン地域を離れて数分後に、またUFO群がやって来たのである!
そこでジェット機は呼び返されたが、今度はワシントン地域へ到着してもUFO群はそこにいた。管制塔はパイロットたちを目標グループのほうへ誘導したが、彼らにとって奇妙な光点としか見えないうちに、物体群はすごいスピードで飛び去ったのである。ときどき光体群は、どういうわけか管制塔とパイロットらとの会話を聞いているらしく、飛行機が進路を変える前に反応しているように思われた。たとえばジェット機が全速でそのほうへ飛んだとき、1個の光体はじっと停止していた。そして接近すると、光体は突然消滅した。まるで電燈のスイッチを切ったかのようだった。
新聞社や大衆からの突き上げが高まった後で空軍は記者会見を行った。これは、第二次大戦以後、最大かつ最長の記者会見であった。これは、国防省惜報局長ジョン・サムフォード少佐が司会をした。彼は、具体的な説明を与えなかったが、強烈な温度の逆転のために光現象が生じて、その間、光波が屈折したのだとほのめかした。
したがって、地上の物体 月、太陽、星などは逆気流層で屈折することがあるかもしれないし、同様に、温度の逆転も、レーダースクリーン上に何かの現象を起こすこともありうるというわけである。しかし、ワシントン・ナショナル空港内外の数千の生命をコントロールしている人々は、多年の経験を積んでおり、レーダーに現れるいかなる型のブリップ(レーダ−スクリーンに現れるシグナル)の観察や探知にも慣れていた。彼らは、温度の逆転について知っていたし、固体を原因としてレーダ一上に出現するUFOに対して、気象は関係ないと確信していた。しかもずっと後にルッベルト大尉が認めたように、問題の夜、存在した温度の逆転は、通常見られるようにレーダーに影響を与えるほど強〈はなかったのである。確かに1952年の6月、7月、8月の毎夜は、弱い逆転が存在したのだ。したがって、このセンセーショナルなワシントンの目撃事件は、謎のまま残されたのである。
続出する目撃報告!
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▲スウェーデン上空を飛行中のDC-3型機に突進してきたUFOの図。機体の下をかすめ去った。 |
1950年代は、休みなしに円盤目撃報告が続いた。分厚くふくらんだファイルには、優れた目撃報告類が加えられたが、円盤が大気圏外から来ることを当局に確信させるほどの際立った記録はなかった。大衆は確信の度を深め、UFO信者の数は増大していった。当局を納得させるには何が必要なのかと多くの人がたずねたが、ホワイトハウスの芝生に円盤の大量着陸がない限り、解答は出そうにもなかった。
1953年8月、サウスダコタ州ラビッド市近くのエルズワース空軍基地にある防空司令部レーダーステーションが、「形の明確な輝く目標」をキャッチした。 それは、かつて一人の地上観測員が光体を見たと報告した場所であった。高度探知レーダーもそれを4.8キロメートルと記録した。物体はほとんど動かなかった。だがやがて、それはスピードをつけてラビッド市上空を1周し、空中の元の位置に帰った。この動きはレーダーでも観測されたし、地上観測員からも報告されたのである。
1機のジェット機が現場へ飛んですぐに光体をとらえた。そして物体から5キロメートル以内に接近した。すると光体は、背後にジェット機を従えたままスピードを上げた。だが、どんなにジェット機がUFOに接近しても、両者間には−種の制限があった。UFOのエンジンは、追跡機との一定の距離を保つ装置と自動的に連結しているかのようだった。
UFOに関する報告
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▲オーストラリアのクウィーンズランドで発見された"円盤の巣"。 |
これに続いて発生した事柄については、ルッペルト大尉が『未確認飛行物体に関する報告』で述べている。
「この追跡は、ラビッド市やその基地の燈火から見えない、北方の暗黒の夜空で続いた。UFOとF−84機が北方約190キロメートルの位置に達したとき、パイロットは燃料を調べた。結局、引き返す必要に迫られたのである。それで私が彼に話しかけると、彼は燃料が切れかかっていることをひどく喜んだ。なぜなら荒涼とした地域の上空でUFOと対決するのは、不安が伴うからである。 UFOとF−84機はレーダ−から消えたが数分後にジェット機は帰って来た。 すると、その背後15−25キロメートルの辺りからUFOも一緒にやって来た。」
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▲空を観察しているイギリスの円盤研究会の面々。 |
基地のジェット戦闘機中隊のパイロットたちは、管制塔要員とそのパイロットとの会話を聞いていた。
第二次大戦と朝鮮戦争を体験したベテランの乗った別な戦闘機が待機中であった。このパイロットは、自分の目で空飛ぶ円盤を見たがっていたので、許可が与えられ彼は空中へ上昇してUFOを捕捉し接近した。するとまたも物体は、速度を上げて5キロメートルの距離を保った。
パイロットがレーダー照準器のスイッチを入れると、数秒後に何かの固形物が前方にいる光景を示した。そのとき彼は恐ろしくなって、迎撃をやめたのである。今度はUFOは、基地へ帰る同機を追跡しなかった。ルッベルト大尉によれば、この遭遇は「空軍のUFO関係資料中で、最上の記録」だという。
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▲円盤の着陸跡か?1972年、フィヨルドで放射能を発する謎の三角くぼ地が発見された。かがみこんでいるのは、ノルウェーUFOセンターの会長。 |
ワシントン・ナショナル空港では、1955年7月にいっそうUFO活動がひんぱんになった。そのとき輝く円形の物体が1個、空港に飛来したのである。直径の4〜5倍もある尾部がついていた。そして空中に停止した。急スピードで上昇する前に振り子運動を行い、サーチライトにとらえられたが、突然ライトは消えてしまった。
イギリスのUFO関係図書の著者として有名なプリンスレー・ル・ポール・トレンチによれば「そのUFOは空港の天井のライト類を消してしまったが、UFOが空港から離れたとたんに、またついた」という。
空飛ぶ円盤活動が始まって最初の10年間が終わったときも、謎は残っていた。写真、レーダーの報告 経験ある観測者たちの数千にのぼる目撃例などがある。しかし専門家は、ケネス・アーノルドの目撃が世界じゅうの新聞の大見出しとなった当時以上に円盤の謎を解明してはいなかった。
続いてソ連が1957年10月4日に、最初の人工衛星を打ち上げた。人類は今や宇宙空間の探検に乗り出そうとし、自分たちで作ったUFOを別な世界へ送ろうとしたのである。
(第1話 円盤の飛来 終わり)
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