うららかな初夏の陽光をあびた美しい灌木地帯に羊たちの白い毛がきらめき、緑草は萌えて、太地が生命の息吹で脈動しているコバ・ダ・イリアの渓谷では、いまヨーロッパに荒れ狂っている第1次大戦の戦火の影響もなく、ミレーの田園画に似たのどかな風景が展開していた。
30数頭の羊をつれてやって来た人影はわずかに3名。しかも幼い子供たちだ。白昼の日ざしのもとに仲よく遊んでいるこの子たちは、ルシア・ドス・サントス(10歳)という少女と、その従弟妹フランシスコ・マルト(6歳)、ジャシンタ・マルト(6歳)という付近の農家の幼児である。
ここはポルトガルの首都リスボンから約130キロ北東、大西洋岸のナザレとその真東のトマールを結ぶ直線の中間に位置する人口2500人の寒村ファティマのはずれである。コバ・ダ・イリアというのは6世紀頃にこの土地にいた聖女イリアの名をとった"イリアの窪地"という意味で、その名のとおり、周囲を山でかこまれた直径約500メートルの盆地だ。
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▲事件当時の3人の子供。左からルシア(10歳)、フランシスコ(9歳)、ジャシンタ(7歳)。 |
子供たちはいつもここへ来るわけではない。その日の気分であちこちの谷間や丘を牧場ときめて、羊をつれて行く。だが1917年(大正6年)5月13日の日曜日は快晴で遠出するのに絶好の日和だった。なんとなく相談がまとまって、ルシア家の所有地であるこの渓谷を選んだのである。
しかしこのありふれた高原の牧草地帯が後年、劇的な不思議な事件の発生によって世界屈指のカトリック巡礼地になろうとは、子供たちはもちろん村人のだれも夢想だにしなかった。
ファティマ村の2家族
村から2.5キロもあるコバへ着いたのは昼頃だった。早速子供たちは持って来た弁当を開いて昼食をすませた。空は青く澄み渡り、微風にヒイラギの木々の梢が揺れる。羊の番といっても絶えず注視しているわけではない。なんといってもまだ幼い子供たちだ。じっとしていると退屈する。ルシアはロザリオの祈りを思いついて、他の2人に呼びかけた。
「お祈りをしようよ」
そこで3人はルシアの父アントニオが植えておいたオリーブの木のそばの草の上にひざまずいてロザリオを唱えた。
スペインやフランスと同様、ポルトガルもカトリック信仰の国であって、国民の90パーセントは熱心な信者である。いったいにヨーロッパは強大なキリスト教信仰の歴史を持つので、キリスト教の知識なくしてヨーロッパ文化を理解するのは困難だ。ましてポルトガルの名もない山村で発生した神秘的な事件の背景に、当時、我々の想像を超えた宗教的要素が存在したことは一応知っておく必要がある。特に日曜日になると素朴な村民たちは晴着に着替えて教会のミサに出席し、貧しいながらも清純な雰囲気をかもし出していた。
調査によると1930年のポルトガルでほ7歳から11歳までの子供で文字の読み書きのできない者が73パーセントもいるという状態であった。ましてそれよりも13年もさかのぼる1917年当時、学校へ行けなかったルシア、フランシスコ、ジャシンタの3名がほとんど文字の読めない子であったのは当然である。
こうした子供たちには口述による教育が両親により行われた。それも主としてカトリックの教義であり、7歳になると初聖体拝領のためのテストが教会で行われるが、これはすべて暗唱による試験である。当時のポルトガルで子供たちがカトリック教理を丸暗記するのは、戦前に日本の子供が教育勅語を暗記させられたのと同じほどに重要な義務であった。そして初聖体を受けることが実質的なカトリック信徒になることを意味し、それはすなわちカトリック教国のポルトガル人の仲間入りをすることになるのである。
聖体拝領のときは、キリストの肉をあらわすパンのかけらを入れる聖杯をかたどったコップ状の容器が信者に与えられる。上部に十字架をつけた蓋があり、台もついている。これを手にしたときの歓喜の情は、非キリスト教国の日本人には理解できないだろう(念のために言っておくが、筆者はクリスチャンではない。カトリックその他の宗教とは無関係である)。
このような宗教的背景を基盤にしてファティマ村の重要な2つの家庭を見ることにしよう。
アントニオ・ドス・サントスとその妻マリア・ローザ、マヌエル・ベトロ・マルトとその妻オリンピアから成る2つの家族があった。マリアとマヌエルとが兄妹であったため、この2軒は小道に沿った隣同士で、しっくい塗りの粗末な家に住み、当時、アントニオは50歳、マリアが48歳で、男の子1人と女の子4人の7人暮らしだったが、末娘が生まれて洗礼のときに、ルシアという名をつけた。この娘は1907年3月22日生まれで、これが後のドラマティックな大事件の女主人公(ヒロイン)になる。
一方、マヌエルの方は後妻のオリンピアが2人の男の子をつれて来た上、2度目の結婚で実に9人の子供を産んで、なんと11人の子供をかかえていた。そのなかでルシアと共にカトリック史上不滅の名を残すことになった2人の子、フランシスコは1908年6月11日生まれ、ジャシンタは1910年3月10日生まれの末子である。いずれも生きていたらいま60歳代となる。したがってこのファティマの事件そのものはさほど昔のことではないということを念頭に入れておく必要がある。
2家族とも農業で生計を立てていたが、ファティマの住民のはとんどがそうであるように、主として家畜の羊を飼い、その他にわずかな養鶏や果樹をやって、なんとかその日暮らしの糊口をしのぐという生活であった。
しかし信仰あつい当時のファティマの人々にはイエス・キリストも聖母マリアも、この世で唯一至高の存在であり、何にもまして絶対であった。これがなくして生活は成立せず、人間として生きる価値すら見いだせなかった。
こうした環境下で3人の子供たちは朝食がすむと天使祝詞を唱え、守護の天使の保護を祈ってから、首の鈴の音を響かせる羊たちを追いたてて山道を登って行く。1時間ないし2時間も歩いて目的地に着くと、ルシアの命令で足をとめて、両家の羊たちに草を食わせながら3人は遊びにふけるのだが、ときには賛美歌をうたったりした。
ルシアが最もしっかりしていたが、顔は日焼けして浅黒く、常に他の2人の世話をやいた。寡黙ではあったが正直な妹で、聡明かつ神経質なジャシンタとは対照的であった。小鳥を愛する兄のフランシスコは同情心が強く、無口で落ち着いた性格の子だった。
この3人の子供たちの性格や家庭環境について詳述すればきりがない。要するに、当時のポルトガルの田舎に住む、外見はなんの変哲もない子供だともいえるし、反対に、非凡な幼児だったともいえるだろう。当然のことながら宗教上の事件や人物の伝記類には、かなり美化して描いた文章もあるので、客観的に実態を把握するのは容易ではないが、ここではなるべく事実を冷静に追跡することにしよう。
第2章へ続く |