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  神々の戦車 エーリッヒ・フォン・デニケン

第9章(1) 南米の神髄と不思議な遺物  UFOと宇宙 No.4 より 
 

この二千年間の人類の歴史を問題にするのが私の意図ではないということを強調したけれども、ギリシャやローマの神々と伝説に出てくる人物のほとんどは、遠い過去の息がかかっていると私は思う。人類が存在して以来、古い伝説が各種の民族のなかに生きている。近代の文化も遠い未知の過去を示すシルシを与えてくれるのである。

グアテマラとユカタン半島(メキシコ)のジャングル中に残る遺跡は、エジプトの巨大な建造物に匹敵する。メキシコの首都の六十マイル南にあるチョルラのビラミッドの底面積はケオプスのビラミッドのそれよりも大きい。メキシコ市の北二十五マイルの所にあるテオティワカンのビラミッド敷地はほぼ八平方マイルに及び、そこのあらゆる建造物は星々の位置にしたがって並んでいる。テオティワカンに関する最古の記録によると、神々がここに集まって人間のことで会議を開いたという。これはホモ・サピエンスが存在する以前のことなのだ!

マヤ族の不思議な消滅

マヤ人の暦は世界で最も正確なものであったが、このことはすでに述べた。今日わかっているのは、チチェン・イツァ、ティカル、コパンやパレンケなどの建造物のすべては伝説的なマヤ暦にしたがって建てられたということである。マヤ人は必要があってビラミッド群を造ったのではないし、また神殿を建設したのでもない。建造物の一定数の階段が五十二年どとに完成されねばならないということを暦が定めていたからなのだ。どの石も暦に関連していた。また完成した建造物のいずれも天文学的な条件に正確にしたがっている。

▲ウシュマルの大遺跡の魔法使いのピラミッド

しかし紀元六〇〇年にまったく信じられないような事が発生した!突然、しかもはっきりした理由もなくマヤ人全部が苦労して頑丈に建設した都市群から離れてしまったのである。壮麗な神殿、芸術的なビラミッド、石像の並んだ広場、堂々たるスタジアムなどのある都市から消えうせたのだ。ジャングルが建築物や道路を食いつくし、石造物をこわし、あらゆる物を巨大な廃墟と化してしまったのだ。そして住民はもうそこへ帰らなかったのである。

この途方もない民族の大移動が古代エジプトで起こったことにしてみよう。数世代にわたって人々は神殿、ピラミッド、都市、水管、道路などを暦の日付にしたがって建設した。原始的な道具を用いて、すばらしい彫刻が岩石から彫り抜かれ、荘麗な建築物の中に設置された。一千年以上も続いたこの仕事が完成したとき、彼らは家を離れて不毛の北方へ移動したと―。

だが、我々がよく知っている歴史的な物事の成行きをもう少し注意してみると、こんな事があったとは思えない。ばかばかしい事であるからだ。一つの成行が理解できぬほどますますあいまいな説明や解釈がふえてくるのである。まず出てくる最初の解釈は、マヤ人は国外からの侵入者によって追い払われたのではないかということだった。しかし文明や文化の最盛期にあったマヤ人をだれが打ち負かすことができただろう。戦争と関係があると思われる跡は発見されていない。

気候の大変化によって大移動が起こったという考えは考慮の余地があるが、この説を裏づけるシルシもないのだ。マヤ人の古王国から新王国の境界までに至る距離は直線で二百二十マイルにすぎない。これは気候の破壊的な変化をのがれる距離としては不十分である。破滅的な疫病によってマヤ人が移動せざるを得なくなったという解釈もまじめに考えてみる価値はあるが、この解釈は多くの説のうちの一つとして出されたということ以外に、ほんのわずかな証拠もないのだ。若い世代と古い世代との戦いでもあったのか? 若者たちが老人に反抗したのか? 革命でもあったのか? 

これらの可能性の一つを選ぶとすれば、総人口の一部分にすぎない敗れた人たちだけが国を離れて、勝者たちは元の居住地に残ったことだろう。だが考古学的調査の結果、マヤ人で残留した者はただの一人もいないことがわかった。民族全体が聖地を無防備のままジャングル中に残して、突然逃げたのである。

"神々"が約束を守らなかった?

こうした種々の意見のコンサートの中へ、私も一つ新しい楽音を投げ入れてみたい。ただし他のいずれの解釈もそうであったように、この説も立証はされない。しかし他の諸説の可能性をもかえりみず、私は敢えて大胆に確信をもって述べることにしよう。

遠い大昔のある時期にマヤの先祖は"神々"(この"神々"というのを別な惑星から来た宇宙旅行者とみなしているのだが)の訪問を受けたとすればどうだろう。多くの要素が裏づけているのだが、南米の文化的な諸民族の祖先は古代オリエントから移ってきたのかもしれない。だがマヤ人の世界には天文学、数学、暦に関してきびしく守られた聖なる伝承があった!そして、神官たちはこの伝説的な知識を守った。"神々"が、いつか帰ってくると約束したからだ。彼らは壮大な新宗教を創始した。ククルカン、すなわち"翼をもつヘビ"の宗教である。

▲碑銘の神殿ピラミッド

神官の伝承によれば、神々は、大建築物が暦の周期の法則にしたがって完成したときに天空から帰ってくるのだという。そこで人々はこの聖なるリズムにしたがって神殿やピラミッドを完成させようと急いだ。完成の年が喜びの年になるからだ。そうすればククルカン神は星々からやってきて、建築物を所有し、ずっと人間とともに住むというのである。

工事は完成した。神がやってくる年がめぐりきた---だが何事も起こらない。人々は歌い、祈り、一年中待った。ドレイ、宝石、トウモロコシ、油などが供えられたが、だめだった。天空は静まったままで何のシルシも現われない。天空の戦車は出現しないし、遠くの轟音も聞こえない。まったく何も起こらなかった。

以上の憶測に可能性があるとすれば、神官や人々の失望はすさまじかったにちがいない。何百年もかかった仕事がダメになったのだ。ここで疑問が起こってくる。暦の計算に誤りがあったのか?神々は他の場所へ降りたのか?神々がとんでもない誤りをやったのか?暦の始まったマヤ人の不思議な年は、紀元前三一一一年にさかのぼる。

この証拠はマヤの記録の中にある。この年代を正しいものと認めれば、それとエジプト文化の始まりのあいだには数百年のギャップしかない。この伝説的な年代は正しいと思われる。というのは正確無比なマヤの暦が何度も伝えているからである。そうだとすれば、私を懐疑的にするのは暦と民族の移動だけではない。というのは比較的新しいある事実が、うるさい疑惑を起こさせているからだ。

>>第9章(2)へ続く

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