バレンケの石棺の奇妙な浮彫
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▲パレンケの石棺の蓋の浮き彫り。 |
そこには一人の人間がすわっているが、体の上部をオートバイ競争の選手のように前に曲げている。今日ならどの子供でもこの絵に描かれた乗物をロケットと認めるだろう。先端がとがっていて、次に吸入孔に似た奇妙なミゾのある刻み目の部分となり、巾が広くなって、炎を噴き出す尾部で終わっている。前かがみの人間は種々のわけのわからぬ操縦装置をあやつっており、左足のカカトを一種のペダルの上に置いている。
その衣服もうまくできている。巾の広いベルトでしめた半ズボン、首の所が日本のキモノのようにえりの開いたジャケツ、腕と足にぴったりとはめてあるバンド。これと類似した絵画の知識をもち出すと、ここにも複雑なヘルメットがなければおかしいことになるが、それもある。くぼみと管のついたヘルメットで、てっぺんにはアンテナのような物もある。この宇宙飛行士は---宇宙飛行士としてはっきり描かれているのだが---前方へかがんでいるだけではなく、顔のすぐ前にぶらさがっているある装置を熱心に見つめているのである。この飛行士のフロントシートは、支柱によって乗物の後部と切り離してある。内部には左右対称に配置された箱、輪、点、ラセンなどが見られる。
この浮彫は何を語る必要があるのか? 何も語ることはないのか? 宇宙飛行と結びつけることは愚かな空想の産物なのだろうか?このバレンケの石の浮彫も一連の証拠物件から除外されるとすれば、驚くべき発見物の調査にあたって学者が示している誠実さを疑わねばならなくなる。現存する物を分析するのは幽霊を見ていることではないのだ。
マヤ族の驚くべき天文学的知識
さて、これまでに未解決な疑問を出し続けてみよう。なぜマヤ人は川のそばや海辺でなく、ジャングルの中に最古の都市(複数)を建設したのだろうか? たとえばティカルはホンジュラス湾から直線距離で百九マイル、カンぺチェ湾の北西百六十一マイル、太平洋の北方へ直線距離で二百三十六マイルの位置にある。
マヤ人が海に対してきわめて親しくしていた事実は、サンゴ、月などで作った莫大な数の品物で示されている。そうすると一体なぜジャングルの中へ"逃亡"したのか。水辺に住むことはできたはずなのに、なぜ貯水池を作ったのか? ティカルだけでも計二十一万四千五百立方ヤードの容量をもつ十三の貯水池がある。なぜ彼らは無条件でここに住み、建物を建て、働かねばならなかったのか? なぜもっと"合理的な"場所に住まなかったのか? 失望したマヤ人たちは長い旅を続けたあと、北方に新しい王国を築いた。そしてここでもまた太陽暦で定められた日付にしたがって、都市群、神殿、ビラミッドなどを建設した。
マヤ暦の正確さを少し伝えるために、彼らが用いた時間の単位をあげてみよう。
20キン=1ウィナル(20日)
18ウィナル=1トゥン(360日)
20トゥン=1カトゥン(7,200日)
20パクトゥン=1パクトゥン(144,000日)
20ピクトゥン=1カラブトゥン(2,880,000日)
しかし暦にもとづいて築かれた石段がジャングルという緑の屋根の上にそびえる唯一の建設物ではない。天文台(複数)も建てられたのである。
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▲チチェン・イツァの天文台 |
チチェンの天文台はマヤ文明で最初にして最古の円形建築物である。今日でも修復されたその建物は天文台のように見える。三つのテラス上で円形大建築物がジャングルの上に高くそびえている。内部にはラセン階段が最上部の観測塔まで続き、ドーム内には星々にむかったハッチや窓などがあり、夜間の広大な星空を見るようになっている。外壁は雨の神のマスクで飾ってあり、翼をもつ人間の像もある。
だがマヤ人が天文学に関心をもっていたからといってそれが他の惑星の知性体と関連があるという我々の憶測に対する十分な理由にはならない。これまで未解決であった多数の疑問類は我々を悩ましている。
マヤ人はどうして天王星、海王星を知ったのか? チチェンの天文台の観測穴はなぜ最も明るい星の方へ向けていないのか? バレンケのロケットに乗る神の浮彫は何を意味するのか?四億年の計算をもつマヤ暦のポイントは何なのか?小数点以下四ケタに至る太陽年や金星年を計算するのに必要な知識をどこで仕入れたか? この途方もない天文学的知識をだれが伝えたのか? この事実のすべてはマヤ人の知能の偶然の産物なのか? それとも各事実の、またはすべての事実の背後に、マヤ人の視点から見てはるかな未来へ革命的なメッセージが隠されているのだろうか? もしあらゆる事実をふるいにかけてより分けても、多くの矛盾や不合理なものが残り、多数の難問を解決するのに新たな大規模な活動を展開する必要があるだろう。現代はいわゆる"ありそうにもない事"に直面した場合、学会が何もしないで満足している時代ではない。
>>第9章(3)へ続く |