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 UFOの秘密 第3話

日本GAPニューズレター 第54号 より
>>第1話 >>第2話 >>第3話

ここまで来るまでに読者は「スカリーはいったいどうしてこんなことを知るようになったのだろう」という疑問を感じておられるに違いない。

第3章 ある個人の履歴

正直に言うと、文筆生活を送っているうちにそうなってしまったのである。何年も前になるが私は、自分が偶然のいきさつからフランク・ハリスのバーナード・ショー伝″ の著者になってしまった内輪話を書いたことがある。あとになってから私はこの記事をローグス・ギャラリー″と名付けて1冊の本にまとめたが、その後この題名をある探偵小説のためエラリー・クィーンに提供したところが、私の許可もなく映画にラジオに、はては月日が過ぎるにつれてその他至るところで使用される結果となってしまったのであった。

このローグス・ギャラリー″の読者の1人が私に「あなたはハリスのゴシップをよくお書きになる。いっそのこと彼の伝記を書いてはいかがですか」という手紙をくれた。署名は「サイラス・M・ニュートン」となっていた。

この名前からひとつの記憶がよみがえった。1929年から30年にかけての冬、ハリス夫妻はニースからニューヨークまで旅行したことがあるが、その費用を提供したのがサイラス・ニュートンである。彼は2人をパーク・アヴェニューの自宅に泊め、ハリスがワシントンのお役人たちにシェークスピアに関する講演をするようお膳立てをしたのである。

何ヶ月後、フランスのリヴィエラにもどってからハリスが話してくれたのだが、米国への途中、船室にいる彼に港湾当局から電話がかかったそうだ。そのときハリスはもう72歳で、"わが生活と愛"を書いたばかりにエリス島へ抑留されるなどまっぴらだった。彼はポケットに青酸カリの小ビンさえ用意していたのである。

「大変だよ、ネリー」と彼は叫んだ。「私は逮捕される」

だが実際には、船室へやって来た役人は彼に、彼が港で自由に行動してよい時間が延長された、と告げただけだった。

彼はニュートンの親切には心から感動した。ニュートンはハリスに1万ドルを提供して、世界1周旅行をしてその体験を若かったころの見聞と比較してみたらと提案したのである。しかし彼の記憶は日に日に薄れる、ばかりで、とても50年前の思い出どころではなかった。

そのことがあってから私はずっとニュートンを、ケンタッキーで生まれてテキサスで育ち、ニューヨークでみがかれた、背のスラリと高い、たぶん白い山羊ヒゲを生やしたスマートな南部の老紳士だと思っていた。

だが現実に私の前に現われた彼は白髪など1本もない、あまり背の高くないガッチリした中年男だった。ベイラーとイエールの両大学時代には優秀なスポーツマンで、後々まで語り草になるほどの相当なゴルフのチャンピオンでもあるそうだ。文学には常に強い関心を示してきた人間である。石油業界では1流の地球物理学者として通っていて、油田開発の成功率では誰にもひけをとらない記録の所有者だった。彼は数百万ドルもかせいではそれを湯水のように消費していた。彼が1度に少なくとも百万ドルを使ってしまった話などは、彼の性質を物語る興味深いエピソードと言えるだろう。

当時の彼の夫人はナン・オライリーだった。彼女はニューヨークでも1流の婦人スポーツ記者である。幸福な結婚生活を10年ほど送ったとき彼は医師たちのロから、彼女はあと1年しか生きられない運命にあるという宣告を受けた。

彼は妻の名前で銀行に百万ドルの預金をしてから彼女に言った。「ナン、きみはお金の使いかたというものを知っていない。何事もそうだが、お金の使いかたも身につけなくてはならぬものの1つだよ。この百万ドルでその練習をしてほしいのだ。演劇の後援をするとか、グリニッチ・ヴィレッジから1歩も出たことのない人たちのためにパーク・アヴェニューでパーティを開くとか、彼らの詩を出版してやるとか−何でもいい。とにかく、1年間でこの百万ドルを使ってしまうことだ」1年後に百万ドルはなくなった、そして、彼女も世を去った。

そこで彼はニューヨークをはなれ、続く10年間は主としてロッキー山脈から大平洋に及ぶ油田の開発に専念し、心の痛手をまぎらそうと何10万マイルも旅を続けて油源をさがし求めた。デンヴァーに別個の会社も設立した。それは今でもそこにあるし、社長の椅子にもやはり彼が坐っている。

私にハリスの伝記を書かせようとして彼は、私をさそってワイオミング、コロラド、カリフォルニアを通過する長距離ドライヴに同行した。しかし私には2番煎じのハリスの物語よりも、ニュートン自身の若き日の山師生活の話のほうがずっと面白かった。

厳重に警備された、ひと財産もする装置を使用して彼は石油を探し求めた。この装置のおかげで彼は、大資本の石油会社がすでに見捨てて何年にもなるラングレイ油田を再発見したのである。1つの油田が操業を開始するとすぐ彼はそれに対する関心を失い、間もなく次のえものを求めて旅に出る。彼の最新の第6感によると、当時国際関係悪化の原因になろうとしていたサウディ・アラビア以上に多量の原油がモハヴェ砂漠に埋蔵されていそうだというのである。

彼はときどき、例の複雑な装置を別の方面からテストする材料にしかならないような鉱物標本を採取しては部屋に入って来る。1度は金鉱だった。かつて採掘した巨大な鉱石から30マイル以内にあるに違いない、と彼は言うのだ。この鉱石はトン当り8万2千ドルの金を含有していたのである! トン当り750ドルくらいなら十分商業ベースにのるというのに、である。

自分の立っている場所から30マイル以内のところに金が眠っているとは嬉しい話だが、問題は方角である。360度全周を探しまわらなくてはならぬようでは、30マイルという半径もあまり助けにならない。ニュートンは例の装置を操作してから言った。「あっちだ!」 

彼は北面を指さしてからコンパスをセットし、鉱石を発見した場所からまっすぐ進んであの丘と凹地を越えて行こうと指示した。27マイルほど進めばその鉱石を生み出した金鉱があると言うのである。

「確かに露頭があるはずだ」と彼は言った。「他の方法ではどんな鉱山師にも発見できないだろうよ」

彼は探険隊を組織することにして、人員と装備をジープに乗せてよこすようデンヴァーに命令を送った。カリフォルニア・ネヴァダ街道にほど近いあるホテルで落ち合おうというのだった。私たちは午前3時45分にたたき起こされ、オールズモビルの新車とジープに分乗して、文化果つる所とでも言いたいような荒涼たる地点まで進んだのである。

隊員のうち4人が、計器と水と食糧を持ってジープに乗り込んだ。私は道路の警備のため残ることになった。だが何に対して警備するというのだろう? 生命のしるしで1番近いのは恐竜の足跡が数個あるだけなのだ。しかもそれらは3千万年前のものである。

「昼までに戻って来なくても心配するなよ」とニュートンは言う。「うまく事がはこばなかったら4時半まではかかるだろう」「日暮れになっても帰って来なかったら?」「道に迷ったのさ」とニュートン。

彼は救援車のキーも持ったまま走り去って行った。ということは、もし彼が道に迷えば私も動きがとれなくなるということである。

彼らが出発したのは朝日が山並の上に昇るころだった。私の車は溶岩層の上に駐車していたー草1本も見えぬ荒れ果てた景色だ。日中1羽のハゲタカさえ飛ばなかった。

昼までには息もつまるような暑さになった。私は軍隊靴だけのすっぱだかになって車の下にもぐりこんだ。こんな物すごい風景は今まで見たことがない。

私はだんだん南極のスコット隊長のような気分になった。これが最後かもしれない。「このわずかなメモと私の死体とですべてはわかるだろう」。だが、そのメモも燃えてしまってあとかたもなくなるのではないかと私は本気で心配した。どの方角にも50マイルは見通しがきくが、目に入るものは何1つない。ソルト・レーク・シティの放送をキャッチしたが、むこうでは私の声は聞えないのだからちっとも役には立たない。

サンドイッチと1本の水筒は午前中になくなった。のどはカラカラにかわいてよだれだけが流れる。ラジエーターの水も試してみたが錆がいっぱいまじっていて、体が酸化鉄だけになったような気持になった。塩化ナトリウムはとっくの昔に蒸発してしまっていた。

もし私だけが助け出されたとしても、どうやって他の連中を見つけたらいいだろう? 円周は360度だ。救助隊が彼らを発見する確率は1対359なのである。

昼になっても彼らは戻って来なかったどころか、4時半になっても帰らない。だから、ニュートン自身の言葉どおり道に迷ったにちがいない。びっこをひきひき文明の香のする場所まで戻るにはもう遅すぎる。水も食糧もないまま私は車の中で1夜を明かすことに決心した。

だが、日が暮れると、サボテンとセージと溶岩と砂の閏からジープのライトがチラチラ見えはじめた。3度行き止まりに出会った後、彼らはやっとまっすぐ私めがけて進んで来た。

彼らはへとへとに疲れ、うつろな眼をして水を求めてあえいでいた。ラジエーターの水をすこし飲んでから、1袋の鉱石と作業用具を車に積み、黄金につかれたような顔をして車中の人となった。ニュートンはハンドルをにぎると狂ったようなスピードで谷を横切って前夜泊ったホテルをさして車を走らせた。

コヨーテ・サンドイッチと土地の人がコーヒーがわりに愛用する薄めたマリファナのおかげで元気をとりもどしたニュートンはビッグ・ニュースを発表した。 彼らはみごとに露頭を発見したというのである。

「ただ、そいつは今度再開された軍の演習地の中にあるんだ」と彼は言った。「あそこにもう1度入ろうもんなら頭を吹き飛ばされてしまうよ。冷たい戦争が終わるまで計画は棚上げにしたはうがよさそうだ」

これには皆も賛成だった。「とにかく、機械を使って石油以外のものも発見できるという私の第6感は正しかったわけだ」彼はつけ加えて言った。「すこし寝るとしよう。仕事に戻らなくてはね」 彼が軍用地から持ち出した鉱石は50ポンドの重量しかなかったが、1250ドルの金を含有していた。

マイクロウェーヴによる探鉱というこの冒険から約1年たつと、ニュートンは私に最新の秘密を打ち明けてくれた。その前に私は彼にシャロン・チリソンという女性を紹介したが (その後彼はこの女性と結婚した)、ある日彼は彼女と私と私の家内をサン・フランシスコのスポーツメンズ・ロッジへ夕食に招待した。彼はアリゾナで地質探査装置の改良に没頭していて、ちょうど帰ったばかりのところだった。そのころはモハヴェ砂漠で数千カ所にものぼる調査を行ない、2、3の地点で試掘をする計画を決定していた。

あのへんからは何も出ないよと大会社はみな断言していたが、彼は測定機で調査して確信を持っていた。

「地中の石油は磁力線を放射する。こいつは測定できるんだよ」と彼は言う。問題は埋蔵量であり、油井をどのくらい深く掘ればよいかだ。地中深くにかくれた油田は色々な断層に閉じこめられた物質をマイクロ波磁力線という形で地表に知らせるのだ、と彼は信じていた。この装置は石油がどこにあるかを数インチという正確さで教えてくれるが、ただ1つの欠点は埋蔵量までは測定できないことだった。だから、石油があるというので掘ってはみたものの、ごくわずかの量しか埋蔵されていなくて、結局大きな穴をあけただけだったということにもなりかねなかったのである。

1945年にニュートンはウォルター・ラッセルに、彼の測定したところではこのマイクロウェーヴ放射の範囲は決して32マイルを越えたことがない、という話をした。彼にはその理由がわからなかったが、ラッセルはこう説明した。

「円運動に関する私の法則によればですね」と彼は言った。「半径が31マイルに限られるのはそれが地殻の厚さと同じだからです。この深さより下には固い物質があります。あなたは、自分ではそれと知らないまま地殻の厚さを発見したわけです」

これを聞いてニュートンは大喜びをした。この喜びは、それから17カ月後になって電話会社が、ニューヨークとポストン間に回線を設置中であり、マイクロウェーヴの到達限度と思われる30マイルおきに中継所をつくる、と発表したときにも変わらなかった。1950年になってロサンジェルス・サンフランシスコ間にテレビ中継局が設置されたときも、その間隔は同じく30マイルだったのである。

ニュートンはそのマイクロウェーヴの知識を応用してあるべき場所に眠っている石油″の研究に着手した。今度は埋蔵量の推定が、試掘に着手する以前の問題だった。

1949年の夏、彼はジー博士と会った。博士は磁気の専門家で、7年間にわたって政府の最重要計画のすべてに関係していたが、7月にやっと自由の身となったばかりだった。彼は磁力の最高権威だったが、年俸はわずかに7千2百ドルにすぎなかった。そこで彼は職を辞してもっと収入のある仕事に転進する決心をしたのである。博士とニュートンはお互いに意見を交換し、博士はニュートンにむかって、あなたはウイクロウェーヴばかりでなく磁気の研究にも役立ったのだと語った。戦時中に開発されたマグネトロンのような装置なら石油の埋蔵量も探知できるかもしれないと博士は考えていた。それは、磁力波は石油の内部を通過できないからであると彼は説明した。磁力波は石油の上と下を通り抜ける。その差を計算すればその油田にどのくらいの石油が埋蔵されているかはすぐにわかるというものだ。

これこそニュートンの求めていた解答だった。彼は投機的な試掘に着手する前にまずモハヴュ砂漠でテストをしてみようと、ジー博士と契約した。

1949年初夏のある日、彼はジー博士を車に乗せてフィーニックスからデンヴァー目ざして走っていた。カーラジオを近くの放送局に合わせると、たまたまニュース解説者が空飛ぶ円盤の話をしていた。

「博士、こんなことに何か意味があるんでしょうかね」とニュートンはこの磁気の専門家にたずねた。博士はうなずいた。「もっと早くお近づきになれなかったのは残念です」と博士は答えた。「私が参加した最初の計画をごいっしょに研究できたんだが」 

彼は南を指さした。

「その円盤はニューメキシコ州アズテック付近に着陸しました。私にも電話がかかってきたので、デンヴァーから3時間で飛んで行きましたよ」

磁気によって日本の潜水艦を探知する装置を開発したのも彼のグループであった。きわめてすぐれた性能を持っていたので、1日に17隻の日本潜水艦を撃沈したことさえある。彼らは政府のために海陸空で3万5千回にものぼる実験をくりかえした。そのために十億ドルという巨費をつぎこんだが、そのかわりに磁気の研究は数百年分も進歩したのである。

こういったことをニュートンは食事の席で私たちに説明した。それから親友たちに秘密にしておくわけにはいかないとでもいうように、磁気の専門家たちが自分の限で見、調査し、研究した2機の円盤について詳しく話しはじめた。

彼の話はあまりにも途方もないものだったので、もし彼がたのもしい実業家でなかったら、物静かで態度もりっぱだが本当は気が狂っているのではないかと思われても仕方がないところだったろう。

前述のグループのジー博士が現在はまだ極秘となっている国家防衛施設を調査のため間もなく西海岸へやって来る。博士はそのあとでニュートンがモハヴュ砂漠で発見した成果を調査して、ニェートンにしたと同じ話を私たちにもしてくれるだろう。ニュートンはそう語った。

ジー博士は1機の空飛ぶ円盤から取り外した部品の1部を私たちに見せてくれるかもしれない。地上ではまだ知られていない金属で出来た円板や、地球の技術者たちにも未知の原理で作動するラジオとか、不思議な布地とか、その他彼に持ち運べる程度の部品である。これらは、空軍の士官たちが記念に取り外しているのを見て、博士自身も研究のため円盤から持って来たものだ。

正直に言うと、それから数週間後、作業の進行状態を見にロサンジェルスから90マイルほど離れたモハヴェの町まで来ないかとニュートンから電話がかかるまで、それ以上そんな話を聞きたいとは思っていなかった。磁気調査の最高責任者である地球物理学老も同行するそうだ。それに、ワーナー映画のカメラマンであり、当時のスター、リンダ・ダーネルの夫でもあるペヴアリー・マーレイもいっしょに来るはずだ、とニュートンは言った。

結局マーレイとは連絡がつかず、私たちは彼ぬきで出発したが、ニューホールの切通しで後方に自動車の警笛が聞こえ、マーレイが私たちに追いついた。彼は自分の車をあるガソリン・スタンドに置くことにして、私たちは皆ニュートンのキャデラックに乗り込んだ。後席にはマーレイと物理学者、前席にはニュートンと私が坐った。

長いドライヴでは人々はいつもあらゆる方面にわたるおしゃべりをする。私たちの話はまず空飛ぶ円盤からはじまったのだった。当時は公式にも何にもまだ秘密扱いにはされていなかったので、科学者はどんな質問にも答えてくれた。彼の説明はまるで、自動車のエンジンの内部で混合ガスがどんなふうに爆発するかを説明するエンジン技術者のように冷静そのものだった。油田に着くと、科学者は彼のマグネトロンを、ニュートンは自分の探知装置を持ち出した。

2つの機械はぜんぜん違った形をしていたが、2人はたえずお互いの観測値を確かめあった。そして、その都度2人の数値は1フィートと違わなかった。石油が埋蔵されていると推定した地点でニュートンは磁気学者に深さはどのくらいだろうかとたずねた。彼はたちどころに2750フィートくらいだと答えた。

ニュートンはノートをのぞいて叫んだ。

「去年の5月に測ったときは2749フィートだ」 それから2人は、この1フットという開きがどうして生じたかについて冷静に意見を交換しあったが、その差はあまりにも小さいので門外漢の私には、数百万ドルにものぼるであろう資源を掘り出すのにわずか1フットの差などどうでもいいじゃないかと思われたのだった。

砂漠で夜明かしはごめんである。町までは2時間しかかからないのだから、私たちは一応町に帰ることにした。この有名な科学者はとちゅう私の家に立ち寄り妻をはじめ私の家族に会ってくれた。

私たちは、空飛ぶ円盤はどこから来るのか、他の惑星から地球までどうやって来たのか、どうやって故郷に帰るのかなどとあらゆる種類の質問を彼にあびせかけたが、彼は感情を害することもなくいちいちていねいに答えた。円盤の船室の内部、水、食糧、衣服といった、女性がよく口にする小さなつまらぬ質問にも、博士は自分の家の家具の話でもしているようにおだやかに説明してくれたのである。

彼の磁力に関する学識は実に深いもので、私たちなどとても足もとにも及ばなかった。核分裂に関する知識について原子物理学者と一般社会人との差が十年前はこんなであったろう。彼は、アインシュタインが電磁力を導入してニェートンの重力法則を修正して以来有名になった相対論的宇宙観についても話をしてくれた。その時にはあまりよくわからなかったが、今ではその重要さがよく理解できるようになった。

2機の円盤を調査した結果、円盤の動力は燃料でもロケットでもターボジェットでもなく磁力なのであり、地上では未知のある種の金属が見つかったことから円盤は他の惑星から来るらしいと、この学者は語った。事実、ジェット推進や何かでは月へも行かれないと彼は笑っていた。当時彼は石油で生活している人たちのための調査にも従事していた上に事業の共同経営者でもあったのだから、惑星間飛行の推進力としての石油燃料をけなしてみたところで1文の得にもならなかったはずである。

私たちの最初の出会いてもう1つ記憶に残っているのは、彼が私の体に関心を示したことだし 私には脚が1本しかないが、今までの義足は重すぎる上に私の脚の残りの部分が短かすぎるので、よい義足にめぐり会わなかった。

吸盤式の関節はどうだろうか、これなら肩や腰のベルトも不要だが、鋼鉄のように丈夫でプラスチックのように軽いやつを1つ作ってあげようと彼は言った。でも操作が問題だと反論すると、押ボタンで作動する小型モーターを埋め込めばよいではないのかと彼は答えた。

「全体で3ポンドもないと思いますよ」と彼はつけ加えた。「それはすばらしいですね」と私は言った。「でも、友人と握手したり話をするために立ち止まったとき足だけがまだ歩いていたりしたら、笑われませんか」「それも押ボタンで止めればいいのですよ」

このことは、彼の精神の動きが物にとらわれず自由である上に老練であることを知る手がかりとなった。

辞し去る前に彼は、今度フィーニックスから来るときには円盤の部品を持って来よううと約束した。ラジオに最もてこずらされたと言う。このラジオには真空管もアンテナも電線もなかった。船室全体がアンテナの役をしていたのではないかと彼は考えて、何とかして代用のアンテナを張ろうとして苦労していた。そのラジオで彼は高い歌うような音を聞いたのである。だがダイヤルがあまりにもデリケートで、長くその波長をとらえていることはむつかしかった。無器用な人間でもらくに調節てきるよう糸つきの滑車のような仕掛を考えていると彼は言った。 とにかく持って来ますよ、キングサイズの煙草の包みほどの大きさもないのだから、と彼は約束した。

彼は円盤があんなふうに解体されてしまったのを残念がっていた。軍は記念品あさりを黙認しているように見える。だから彼自身も2、3個取り外して来たのである。だがそれは記念品のコレクションに加えるためてはなく、研究のためだった。

彼の説明によると、空軍は写真も撮影したという。しかしこの写真は機密保持のため2時間後には消えてしまう。許可された者だけが入手することのできる特殊な薬品を使用するともう2時間だけ映像が浮かび出るのである。もちろん彼自身はこのフィルムに手をふれることはできなかったが、自分でも何枚かの写真を写していた。あまりよい出来ではないがこれを持って来ましょうと彼は言った。

その後私たちはー胴衣を除いてー以上の品全部を見せてもらった。ラジオや計器類、それにフイルムも手に取って見たのである。

様子がおかしくなったのはそれからだった。空軍はプロジェクト・ソーサーを解散して地下にもぐってしまった。口にすることといえ、は、知っていることはすべて忘れろということだけだった。「それは幻覚ですよ」というのがお決まりの扱いとなった。うっかりすると気違い扱いされかねない。誰もが黙り込むようになった。だが大衆は黙ってはいなかった。政府関係というダムこそ閉め切られても、新聞という自由の湖には大衆からの目撃報告が続々と流れ込むようになったのである。

だが、自由な調査は政府筋の検閲とよく衝突するようになった。1949年の夏には自由に話してくれた人が、1950年の夏には2000万ドルやろうと言われても口を開かなくなった。しかも、今に見ていろ、と私は思うのだった。そして事実、人々が忘れた頃に道は開けたのである。

(終わり)

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