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▲1950年にア氏によって望遠鏡で撮影された6機のUFO。 |
空港で我々はイタリアの最初の協力者アルベルト・ベレゴ博士と異星人問題に興味を持つ一団の友人たちに迎えられた。空港から一同は紀元前312年に建設された古代の道路の一部に沿った昔のロ−マ地区を走り抜けたが、そこではローマの軍団がこの石の敷かれた公道を進軍した当時の、絵に描いたような景色を眺めることができた。
私の不健康のためにイタリアでの講演は予定されていなかった。これは私が最大に楽しみたいと思っていた快適な旅行である。また数年間私と文通していた協力者や友人たちに会って楽しい思いもした。私にわかったことは、人間というものはどこでも同じようなものだということである。
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▲1951年にア氏の望遠鏡で撮影された月から離陸するUFO。 |
友好的で、親切で、寛大で、多種類の楽しみをもっているのだ。思うに最大の障壁は言語の相違であって、これが互いに充分に理解し合うことをはばんでいるのである。
ローマは美しい都市だが、古代のコロセウムを通ったとき、私は気分が悪くて寒気のする思いをした。この大円形闘技場の内部で拷問にかけられた時代がよみがえって来るのを感じたからである。昔のあの殉教者たちの苦悶がこの闘技場の石のどれにも刻み込まれているような気がする。
6月13日のほとんどを古代の建造物の見学と史跡の映画撮影ですごした。
翌日私のためにささやかなパーティーがレストランテ・ラ・チステルナで開かれた。ここの食事はおいしかった。この店と内部の様子、ウエイターの着ている服のスタイルとその動作に私は心をひかれた。丁重さと陽気な雰囲気が溢れていて、元気の回復とくつろぎの両方に役立った。私はそこにいた数時間のあいだ、あらゆる瞬間を楽しんだ。
一同が食事を終えて出かける仕度をととのえてから、タクシーは呼ばないことにきめた。沢山食べたので少し運動するほうがよかろうということになったのだ。間接照明によって明るく照らされた街路をぶらつくと、周囲にはきわめて印象的な美しい光景が展開していた。古代の遺跡はライトで照らされている。
一同がやっと大通りに出たのは真夜中だった。ここらでタクシーを拾うのがよいということになったが、一台も見当たらない。私はローマの街路について全然知識がなかったけれども、私を招待してくれた友人が別な方向へ曲がろうと言ったとき、私は「いややめよう。タクシーはすぐ来ます」と言った。どこからこんな言葉が出たのか私には全然わからない。私を心から尊敬している友人たちは英語をほとんど理解できなかったが、それにもかかわらず私の思いがけない言葉に一同は笑い出してしまった。
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▲月の上空を飛ぶ7機のUFO。1951年ア氏撮影。 |
私がすすめた方向の次の曲がり角まで来たとき、突然どこからともなく一台のタクシーがやって来た。運転手が飛び降りてドアーをあけた。一同は驚いたが、それに乗り込んだ。ホテルの名を告げると運転手が尋ねた。「アメリカ人ですか」。「そうです」と私は答えた。するとホテルへ直接行かないで、彼はローマ市内の見学にドライブしてくれて、やっとホテルへ着いたときは夜明け近くであった。このドライブほ終始実に楽しいものだった。私が決して忘れることのできない表である! 当然一同はこのドライブの料金を払うつもりだったが、運転手は追加料金を受け取るのを拒絶した。
「余分な料金はいただきません。私はアメリカ人のためにそうするのがうれしいのです」と彼は言った。
私はローマでその夜以来ときおり考えることがある。あのタクシーの運転手はだれだったのだろぅと。一同があんな特殊な場所にいて、ちょうど車が必要なときに、いったいどうして彼はやって来たのだろう。ほとんどの人が私をイタリア人かスペインの生まれだと勘違いするのに、どうして彼は私がアメリカ人であることを見抜いたのだろう。
私の講演会は予定されていなかったけれども、ベレゴ博士は軍部や教会関係者を含む多数の聴衆のため自分で講演をするよう手筈をととのえていた。彼の講演会は素晴らしくて大歓迎を受けた。
私はこの講演会に特に興味をもち、聴衆の"反応"を個人的に知りたいと思った。そのために私はあのディナーパーティーの招待者のルウ・チンスターク女史と一緒に出席して、会場の後方に座っていた。講演者はもちろん私がそこにいることを知っていたので、講演の終わりに彼は私が来ていることを話して、聴衆の質問に答えるために演壇へあがってくれと言った。私は立ち上がって座席のあいだの通路を歩いて行くと、人々は歓声をあげて、通路に沿って座っていた人の多くが手を延ばして私に握手を求めた。チューリッヒで受けたあの不愉快な宣伝や反応のあとなので、私はこの友好的な心あたたまる歓迎に圧倒されそうになった。これもまた決して忘れることはできない。
質疑応答が終わるとまたもや大喝来が湧き起こった。1人の牧師が起立して言った。「兄弟よ。私たちに知識を与えてくださって有難う」私の行なった回答と質問を発する機会にたいする心のこもった感謝の辞が述べられた。
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▲月の近くを飛行するアダムスキー形と呼ばれるUFO。1952年ア氏撮影。 |
ローマのもう一人の協力者フランチェスコ・ポリメーニ博士は、これまでかなり旅をしてきた新聞記者である。彼の生涯の多くは世界の出来事の背後にある原因の追求ですごされてきた。私は彼の家をちょっと訪問したが、そこで彼と夫人が、今日国家間に見られるさまざまの情勢に道を開いた隠された事実に関する知識を多く伝えてくれた。個人的に見たり無数の人々とともに体験した各種の出来事に関するその報告には、感情や偏見などはなかった。諸事に通じている大衆をどうすることもできないことを知っている人々によって世間の人がいかに真相にたいして無知にされているかという証拠とともに、私にとっては夫妻の話は最も興味あるものだった。
イタリアにおける私の素晴らしい休暇のすべてもまもなくふたたび終わるときが来た。私はローマを訪れただけだが、あらゆる瞬間が興味に満ちていた。私は完全にとまでゆかなくても健康が回復しつつあった。
1959年6月17日に私はデンマーク行きの飛行機でローマを出発した。ロサンゼルスへ向かって北回り飛行に出るためにコペンハーゲンで乗り換えることになっていた。デンマークの協力者H・C・ピーターセン大尉は私が空港にいるあいだにそこへ来ることができなかったので、UFO問題に精通している2人の友好的な青年をよこしてきた。異星人問題と地球への来訪の目的に心から興味を持っているこの友人たちとともにすごす時間が充分にないのが残念だった。
いつも昼で、見渡す限り氷と雪の単調な景色しか見えない極地飛行は、私にとって別な新しい体験となった。氷の強烈な光を防ぐために機内の日除けがおろされたので、乗客は目隠しの状態になってしまった。グリーンランドで飛行機は単調なさびしい陸軍基地で短時間の燃料補給を行なった。カナダのウィニペッグがロサンゼルスへ着く前の最後の補給地である。ここで私は最後の税関へ行った。飛行機を乗り換えて私はサンディエゴに向かい、家に着いて私の世界旅行は終わった。
その後たびたび私はこの6ヶ月間の出来事を回想している。そして異星人が望んだとおりに世界の多くの人々にたいして真実が伝えられたと私は思っている。しかし今なお私が深く懸念しているのは、サイレンスグループや他の利己主義者側が我々の計画を妨害し続けるかもしれないということである。
一つだけ確かな事がある。つまりサイレンスグループの手中にある最も協力な武器は"一般大衆の無関心"であるという点だ!この地球の周囲の惑星群に友好的な人類が存在する事実に関心をもたぬ人は、利己主義者側に最も容易に迷わされており、はからずもサイレンスグループの道具として役立っているのである!また宇宙開発用の国家の公金の支出に憤慨して破壊的な目的のためのぼう大な金の消費を好む人は、わざとか否か、この地球上の生命の完全破壊に貢献しているのである。
(終わり) |