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新アダムスキー全集

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中央アート出版社
TEL : 03-3561-7017
E-mail :info@chuoart.co.jp
 世界講演旅行 ジョージ・アダムスキー  

第5章 チューリッヒ事件

5月23日土曜日の夕方に私の汽車はオランダからスイスのバーゼルへ到着した。スイスのUFO研究家ルウ・チンスターク女史が友人たちと一緒に駅へ私を迎えに来た。

このきわめて友好的な人々が自己紹介を済ましてから一同はライン川沿いのきれいなホテルへ向かった。町の中心にあるこのホテルからは川やあたりの美しい風景を見渡すことができた。

翌日の日曜日に私はチンスターク女史の家でゆっくりとすごした。月曜日の朝、我々はバーゼル警察と土地の各新聞社のために私のフィルムの特別試写会を開いた。火曜日にはチューリッヒ郊外の小さなホテルへ車を飛ばした。

オランダで掲載された攻撃記事はスイスの各新聞にも転載されつつあったので、私の友人たちはできるだけ私を援護しようとしていた。私は彼らの思いやりに感謝した。疲れていたし気分が悪かったからである。スイスの新聞記者達はオランダで出されたのと同じ質問を放って私を攻撃してきた。しかし私の応答も同じものであった。すなわち「最初に話し始めるのが女王の名誉である」という答えである。

5月26日、チューリッヒにおける第1回の講演は最大の成功を収めた。気の毒にも多数の人が座席がなくて会場へ入りきれなかった。講演が終わって多くの人が会場を出たとき、約25名くらいの少人数の人々が質問をしようとして残っていた。一人の男が、聴衆から出された質問表のかわりに特別な質問表を出したと言ってチンスターク女史を非難した。また彼は私がホンモノのアダムスキーをかたる偽者だといって非難したのである!この人は騒ぎを起こすために聴衆のなかへ座らされた人物であることが後にわかったが、明らかに彼は大勢の聴衆の前で気おくれがしたのだ。

これは我々にとって組織化された抵抗の最初の警告となったが、この事件にかかわらず、我々はチューリッヒの第2回目の講演を行なったのである。

するとチューリッヒの警察署長が電話で私のフィルムを個人的に見せてくれと頼んできた。第1回目の講演ですでにフィルムを公開しているので、これは奇妙な要求に思われた。しかし私は指定の時刻に会おうと約束した。

以前と同様に私は講演と映画の許可証の交付を申請した。そしてすでにチューリッヒでの許可を得ていたので、なぜ個人検閲が要求されたのか不思議であった。この裏実の理由は、そのフィルムのなかの動かしがたい証拠がサイレンスグループを不安にし始めたからであると私は信じている。

警察署長との会見は愉快だった。フィルムを見終わってから彼は「全く驚くべきもので、見て楽しかった」と語った。空中のかすかな光体などでなく、そのフィルムに金属の巨大な宇宙船が写っているのを見て、彼は驚嘆したのだと思う。

映写が終わってから彼を署へ車で送るあいだ、彼はこの町の交通問題について話し、カリフォルニアではどうかと尋ねたりした。車を出たとき、次の講演会には部下を連れて出席するつもりだと述べて、これはすべての公開の集会にたいして慣例になっているのだとつけ加えた。

▲スイスのUFO研究家ルウ・チンスターク女史

チューリッヒの第2回目の講演日の朝、チンスターク女史と私は、ドイツの週刊ニューズ誌デァ・シュピーゲルの記者2名ときわめて楽しくインタビューした。この記者たちは完全な英語で多くの質問をした。

これまでのあらゆる懐疑的な評判にもかかわらず、デア・シュピーゲル紙は我々のインタビューの正しく翻訳された長い抜粋を掲載した。それにはある重要な部分が数個所はぶかれていて、"からかい気味な"物の見方ほはとんどなかった。その会談は2時間以上も続いたので、内容の全部を載せることは不可能だろう。すべてを考えてみると、この雑誌は大いなる勇気と自主性を示していた。

5月29日の夕方、第2回目の講演会にチューリッヒ警察がやって来た。奇妙なことに彼らは制服のかわりに全員私服を着ていた。後にチンスターク女史によって発表された報告によると次のとおりである。

「700人の聴衆に混じって300人の学生が戦略的に座っていた。聴衆のジョージ・アダムスキーにたいする歓迎ぶりはあたたかく友好的だった。始まりはよかったが、学生たちは最初から巧妙な防害作戦に出てそれを次第に大きくしていった。始めは手を叩いたが、講演の一文句ごとに足を踏み鳴らし、今度は喚声(かんせい)をあげ放歌した。しばらくして聴衆の紳士が静かにするようにと注意したが無駄であった。この大騒ぎはますます悪化して、学生たちはあたりへ物を投げ始めた。まず聴衆に向かって投げ、次に演壇にいた私たちに投げ始めた。9時近くなって主催者側は警察へ連絡したが警官は顔を見せなかった。別な客が立ち上がって警察はどうしたのかと尋ねると、やっと一人の私服の男がゆっくりと立って言った。『おう、我々はずっとここにいたぞ!』。彼は続いてかなり弱い声で学生と聴衆に力のない説教をした。このときはすでに聴衆の一部は学生群と乱闘を始めていた。右の男の説得はもちろん何の役にも立たなかった。場内の大騒ぎのために彼が警官だということに気づいた者さえなかった。演壇の横に座っていた人たちだけがこの事実を知っていた。私服の人々がこんな大騒ぎをどうして静めることができるだろう! 制服を着ていないこの警官連の態度についてはきわめていかがわしいものがあった。

学生群は今度は果実を投げ始めた。私たちは進行することにきめてフィルムを映写した。会場が暗くされる前に、私は知っていたとおりにその内容を説明した。暗くなるまで会場内は静かになった。すると騒ぎがその極に達した。乱暴者たちは子供のラッパやその他騒々しい道具を用いて鳴らし、また花火やカンシャク玉を爆発させたりした。

すべてが巧みに計画してあった。このことは映画の始まりから彼らが強力なサーチライトをスクリーン上に投射したために画面がほとんど見えなかったことからもわかる。この強い光は普通の懐中電燈類ではなく、会場の電燈線に差してあったにちがいない。映写が半分まで進行してから、ビールビンが一本客席から演壇に投げられて婦人の肩にあたった。人々が大声で叫んだために警官が『すぐ明かりをつけよ』と命じた。このため映画は中止となった。スイスの最も重要な新聞ノイエ・ツエルヒエル・ツアイトケング紙は翌日完全にでたらめな記事を掲げて、その夜活躍したのはチューリッヒ警察だけだったと述べた!私たちはテープに録音したので警官の発言をいつでも聞くことができる。私たちはこの記事が偽りであることをこれから先の刊行物でもって容易に証明することができる。大多数の新聞が、この国ばかりでなくヨーロッパのドイツ語国家間で最も重要な経済と商業関係の新聞を発行する大新聞社の記事を転載したのはいうまでもない」

私は会場の裏口から連れ出されて、2、3の建物のあいだを通り抜け、別な街路の小さな喫茶店に案内された。数名の学生がついて来たので、英語を話す一人の若い男だけ店内へ入れてやった。

「私はあなたに謝りに来ました」と彼は話し始めた。「あなたのお話を聞きたがっていた学生が少数いたのです。あなたが科学者のツウィッキー博士のこと話されたすてきな内容を私たちは聴きました。実は私たちはあなたがツウィッキー博士と現代天文学を否定しようとしているのだと聞かされていたのです。この騒動は博士と現代天文学を守るためのデモでした」

翌日いろいろな情報が我々のもとへ入り始めた。聞くところによると連邦工科大学の学生群が講演会の大騒動の主謀者であったが、明らかに彼らは別な方面から指示を受けていたという。

前夜の事件を考えていると次第に全貌が明らかになってきた。警察署長によるフィルムの個人検閲、講演時の警官の非協力、フィルムの残りを聴衆に見せまいとしてスクリーン上に照射された強い光線など、すべてがただ一つのことに帰着する。

圧倒的な"真実"の猛襲は明らかにサイレンスグループを非常に不安にさせたのである。彼らはこれまでの失敗を挽回しようとして最後の手段に訴えようとしたのだ。私をやっつけようとする試みで彼らをもっと暴れさせると思われる証拠物件は、私の撮ったUFOの実写フィルムであることに私は気づいた。

第2部のはじめに述べたように、私のフィルムでトラブルが最初に起こったのはオーストラリアのシドニーであった。また私は警察によってはサイレンスグループに協力しているのもあることを知っていた。多くの新聞は掲載すべき記事内容について命令を与えられていた。これらの新聞が私の講演について記事を掲げるごとにかならず私のフィルムを攻撃したのである。

私がこの世界旅行に出かける前、アメリカの太平洋側北西部へ講演旅行に出かけたあいだ、シアトルの最大の新聞社の一つが私の協力者C・A・ハニーに向かって、彼ら新聞社はUFO問題についてそれを歓迎するような資料を掲載してはならないという命令を与えられていると語った。新聞社は私のシアトルの講演に関する有料広告を引き受けようとはしなかった。ハニー氏はついに広告部を説得して引き受けさせたが、そのとき彼はいまの新聞人が昔ほどに大胆で公平でないのは残念だと述べたのだ。圧迫された新聞社のなかった頃ならば、何者かが編集者をおどかしてある種の情報を掲載するのを禁じた場合、豪胆な編集者は天を仰いで絶叫したことだろう。複数の編集者がUFO・異星人問題に関して出された訓令に敢えてそむかなかったことを認めている。私を否定しようとしてスイスの扇動者たちはこの国の中立性の欠如を暴露した。スイスの善良な一般人は迷惑をこうむったのである。

私がチューリッヒで講演を行なった同じ夜、アメリカの物理学者がたまたまバーゼルで講演した。新聞によると、彼はUFO問題について100スイスフラン付で質問すれば答えようと言ったという。そのとき彼はだれのために働いているかに関して自分の手の内を見せたのである。その金は慈善団体に寄付するということになっていた。いうまでもなく質問は全然出されなかった。

私がバーゼルへ帰ったとき、チューリッヒの大新聞の記事が事件にたいする謝罪を私に認めてくれと頼んできた。警察と主催者側は窮地におちいり、ある新聞からひどく非難されたと私は聞いた。私自身の感じでは、この記者は事件の反響を何とかしてやわらげるうにチューリッヒの官憲から派遣されたのだという気がした。彼にたいする私の回答は学生に与えたのと同じだった。謝罪は私にたいしてでなくスイスの国民になされねばならない。この事件は世界にたいしてスイス国民の面目を失わせたからである。

私の講演旅行の急速な歩調はまもなく健康に悪影響をもたらし始めた。チンスターク女史は私の極端な疲労としつこいセキを心配するようになり、医者に診察してもらうようにと主張した。精密検査の結果は肺の充血を示した。医者は私に旅行を中止せよと命じて、もしやめなければ木箱に入れられて帰国するようになるだろうとほのめかした。彼は肺炎になるかもしれないと気づかったのである。この警告の結果、私はローマへの短期旅行は別としてヨーロッパ旅行の残りをとりやめることにした。

私の訪問できなかった国々の全協力者宛に、バーゼルへ集合して、自国で用いるための録音テープを受け取るようにと電報が発せられた。バーゼルとロカルノでの公開講演は中止されたが、2都市のグループの幹部へ個人的に私が話をしようということになった。

以下はチンスターク女史の報告である。

「ジョージ・アダムスキーがバーゼルで2週目をすごしているあいだに、ドイツUFO研究会の会長カール・L・ファイト氏夫妻が、信頼し得る支持者M・ミエラー夫人とともに到着した。彼らはドイツできわめて大きな団体を組織し、啓蒙運動を行なっているが、すべてが中止されたと聞いて悲観した。しかし少なくとも予定の会合を開くために、ジョージ・アダムスキーが例のフィルムをコピーする権利を喜んで彼らに与えたので、アダムスキー個人には不利であるが彼らは元気を取り戻した。

オーストリアの協力者ドラ・バウエルとミユーニッヒの団体主宰者ゲオルゲ・ナイトハルトが急拠到着した。埋め合わせとして、この両者もフィルムの複写を公開する権利を得た。他にも権利をもらった連絡員としてはイタリアのアルベルト・ベレゴ博士、デンマークのH・ピーターセンがいる。

ジョージ・アダムスキーが懸念を起こした事がもう1つあったことを否定できない。ヨーロッパのドイツ語国家におけるUFO研究と討論活動には、秘教、オカルト、宗教的概念などがきわめて強く浸透している。したがってこれらの諸国家でジョージ・アダムスキーはいわゆる現実主義者と戦わねばならないばかりか、その異論や前記の各種党派から起こる抵抗にさえも自分をさらけ出さねばならないことになる。さもなければ、あらゆる情勢からして、無数の協会、宗派、団体などよる促進と誤った保護を受けることになる」 

このために私のヨーロッパ講演は中止されることになった。それで私はスイスのロカルノにおける数日の休息を期待した。バーゼルはスイスの北西部に位置する町である。バーゼルからロカルノへ到着するために、私はチューリッヒ経由で美しい湖やすばらしい山々を通過しながら汽車で旅をした。列車はスイスの南東部へ進行した。

ティチノ州にあるロカルノは名状しがたいほどに美しい。それはイタリアとの国境に近いマゴアル湖畔で、南アルブスのふところに抱かれている。きれいな家々が、湖の周囲全体を取り巻いた丘の上に生い茂っている木々や潅木のあいだに包まれている。湖畔公園にはカリフォルニアにあるようなシュロの木がある。町の背後の高い山々は雪で覆われて、前景には亜熱帯樹や草花があって美しい光景を呈していた。

私が山々を通過したのは5月の終わり頃である。きれいな牧場は多種類の野花で輝いていた。珍種は法律によって保護されているという。

私の会ったロカルノに住んでいるアメリカ人たちはこの清らかな美しい国を愛している。

私のロカルノにおける滞在は、苦しかった講演旅行中の心地よい休息となった。私のホテルの部屋のフランス風の窓を開くと、小さなバルコニーへ出られる。バルコニーの安楽椅子にもたれて湖や山々の美しい景色を眺めるのは快適であった。

これまでの多くの出来事を回想する余裕もあった。すると私がこの目で見た出来事の真実の意味が明らかになってきた。

例をあげよう。キリストが寺院から追い出した両替屋はいったいどうしたのだろう。彼らは2000年間にこのチューリッヒへ集まってきたように思われるのだ。

もちろんこの比較は比喩的なものだが、結果は明らかである。

世界の財政上の中心地チューリッヒは、サイレンスグループの国際的な根拠地なのだ! 金の影響力を持つ目に見えない手綱が、各国の団体をあやつるためにチューリッヒから伸びているのだ!各国がスイス銀行と財政的なつながりを持っていることを読者は思い浮かべられたことはないだろうか。世界各地で動乱が起こっているあいだも完全な中立を享楽にした国の銀行に―。

ジュネーブという町はスイス人が"大財閥"と呼んでいる者たちの指示にしたがって各国が互いに駒となって勝負をさせられている巨大なチェス盤である。このゲームのすべては中立というマントの下で行なわれる。だからスイスでは戦争を起こしてはならないのだ! 旅行中に私は多数の人にたいして事の真相をうまく知らせて警告することができた。最高の権力者は自分の力で考える人を寛大に扱いはしない。だからこそ知識の抑圧が独裁の成功にとって必要なのである。自分の力で考える人を抑圧するのはむづかしい。なぜならこの人々は自分たちが利用されていることに気づくと同時に真理と自由とを求め始めるからである!

サイレンスグループが私と対抗し得る唯一の方法は大衆の面前で私を否定することであった。他の惑星から来た友人たちの援助がなかったならば、サイレンスグループはその目的を達成したであろう。

スイスのある地方では婦人に選挙権が与えられていない。私がそこに滞在していたあいだにこの問題は議決事項として提出されたが、法案は通らなかった。この理由は明白である。私は"目に見えない世界政府"の活動を見てきたからだ。つまり彼らは自分たちの絶対君主制を女に"邪魔"されたくなかったのである。

「揺りカゴをゆする手が国家の運命を左右する」とよくいわれている。

私の国アメリカでは、婦人は平等な権利を楽しんでいる―他の惑星の婦人もそうしているのだが―そしてさらに調和した文明への進歩の旅を続けるのに平等な道連れとして男性と一緒になっているのである。

私はバルコニーに座って、他の惑星から来る訪問者たちにたいして誤って適用され、広くひろがってきた神秘主義についてふたたび考えてみた。宇宙人と"霊的に"コンタクトしたと称しているいかがわしい神秘主義グループは、サイレンスグループをはかり知れぬほど助けている。このグループは混乱をひき起こし、スペースプログラム全体を嘲笑の状態に保っているのだ。

アメリカ空軍のある情報将校がかつて私に次のように語ったことがある。つまり、もし心霊主義団体が存在しなかったならば、各国政府はみずからの知識をとっくのむかしに公表できたかもしれないというのだ。いつか心霊主義者は彼らが望んでいる知識そのものを自分たちが押さえこんでいる事実に気づくことを私は切望するものである。

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