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新アダムスキー全集

 ├ 写 真
中央アート出版社
TEL : 03-3561-7017
E-mail :info@chuoart.co.jp
 世界講演旅行 ジョージ・アダムスキー  

第3章 ダーウィンからイングランドヘ

私の飛行機は1959年4月6日の夕方ダーウインを出発した。私の前途には約18000キロの航路が待っている。

最初の燃料補給地はシンガポールであった。ここは非常に暑くて湿度が高かった。空港の待合室へ入ったとき、電報が来ているのがわかった。それは続く月曜日の番組『パノラマ』に出演してくれというロンドンのBBC放送局からの依頼であった。私は承諾すると打電し、飛行機に乗ってまたも旅行の途についた。次の着陸地はタイの首都バンコックである。ここでは3台のバスが飛行磯を待っていた。乗客はみなバスに乗せられ、この町の効外を通ってあるクラブへ連れて行かれて、そこで食物と飲物が出された。

我々はテラスで食事をしたが、そこからはこの美しい町の素晴らしい眺めを見渡すことができた。きわめてカラフルで、アメリカと同様に人々が絶えず行き来している。私はこの国の人々に興味を持ち、宇宙旅行の問題にタイの人がどんな反応を示すだろうかと考えてみた。ついに私は英語を話す人を一人見つけて話し始めたが、彼はその問題に新しい希望を与えた。

極東のある国々には古代における異星人の訪問に関するぼう大な知識を含んだ記録が残されている。これらの古文書は古代にしばしば異星人が地球を訪れた時代について述べている。

私が話しかけた人は、一般人はUFOの知識を身につけるほどに"聖人"ではない。あちこちのごくわずかな人がその知識を与えられるだけなので、一般人がその知識から何かを学びとることができるようになるまで、その古文書を注意深く保存したのだと言った。

「その時が来るのはたぶんそう遠いことではないでしょう」と私は言った。「それは個人次第です。いま目覚めている人もいますが、大多数の人は眠っています」と彼は答えた。

確かにそのとおりだ。それは個人がいかに"聖人"であるかの問題ではなく、いかに多くの理解力と知識を個人が得ているかの問題である。人々のなかには自分の想念と関心を宇宙の彼方へひろげて他の惑星に住む隣人やその生活態度に思いを馳せることができるほどに心を開くことの可能な人もあるし、一方、心を閉じている人々は自分自身の狭い個人的生活の限界を超えた物事について考えることはできないのである。

▲インドGAPのメンバー達とアダムスキー。向かって左から2番目の黒い杖を持つ人がS・K・マイトラ博士。

私の次の着陸地は、世界で7番目に大きな都市でインドの産業の最大の中心地であるカルカッタであった。私はダムダム空港へ着いたが、そこで私はバナラス・ヒンドゥー大学のS・K・マイトラ博士と一団の彼の友人たちから挨拶を受けた。私が飛行機からタラップを歩いて降りたとき写真が撮られた。そして地上に降り立つと花輪が私の首のまわりにかけられた。博士とその友人たちが私に挨拶をしたとき柵の外に立っていたインド人の大群集が歓声をあげて手を振った。彼らの心あたたまるまじめさと、私が世界の人々へ与えるように託されたメッセージにたいする彼らの感謝とを私は感じたのである。

マイトラ博士は白いリンネルの帽子、長く白い上衣に自のズボンを着けていた。彼のグループもみな自一色の装いであったが、博士だけは長く白い上衣を着ていた。この服装はカルカッタの近代化された産業の背景とよい対照をなしている。

私は長いあいだこの立派な博士と文通をしていた。そして彼とその友人たちが異星人とその来訪について教えてもらいたがっていることを知っていた。また、インドの歴史は、宇宙から来た乗り物が地球上に出現したり、その乗船者が地球上に起こる諸変化について地球人に警告したりする物語で満ちていることも知っていた。マイトラ博士は現在の状況や異星人からもたらされる最新の知識について多くの質問を準備していた。

私の到着に先立って打ち合わが済ませてあったが、それによると私は邪魔をされないようにするために、他の見学者とは別にこの友人たちとその大学を訪れてよいということになっていた。私は喜んで彼らの質問に答えて、他の惑星から来た友人たちによって与えられた知識を伝えた。大学を訪問中に、私はそこの学生たちへ講演をするようにと言われたが、不幸にして飛行機の出発が近づいていたために時間の余裕がなかった。私はこのことを悪く思ったが、いつかふたたびインドへ行って学生たちに講演したいと思っている。

インドだけでもマイトラ博士やその友人たちの努力によって、移りゆく時代の意義が認識されているし、1952年に私が初めて異星人に会ったのを記念して、11月20日には年に一度の祝賀会が行なわれている。インドのある刊行物に一流の教育者や科学者連がインドの歴史から得られた古代の知識を実証したという記事を寄稿している。彼は地球と他の惑星人とのあいだのより大きな友好関係と地球人同士のより大きな理解力を得る必要があることを訴えたのである。

私はこれらの真実の友人たちと別れるのが残念だったが、しばしば人間は楽しい場所から離れて人生の街道を旅し続けねばならないのだ。

次の着陸地はカラチであった。これはパキスタンのにぎやかな海港都市で、かつては砂丘の土地として知られた所である。カラチ空港の係員の1人が、自分の名前は言えないがと前置きして私に話してくれたところによると、この国の国民は異星人について非常に多くのことを知っており、彼の出身の地方の住民は異星人からいろいろな方法で援助を受けてきたという。

「いつか他の惑星から来た隣人たちの努力によって、インドとパキスタンは一大家族のなかの兄弟となるでしょう」と彼は言った。「過去3年間、1、2度の機会に政府の高官と宗教上の指導者たちが異星人と一緒に食事をしたことがあります」と彼はつけ足した。

私は驚いて尋ねた。「異星人はどんな様子をしていましたか」「あなたでも異星人になれますよ。彼らは地球人と少しも違わないのですからね」と彼は答えた。

「あなたもその会見を許された人々の一人だったのですか」と私は聞いた。

「違います。私はそのとき出席した政府の高官から教えてもらったのです」。世界中の一ヶ国以上の政府が同様の体験をしていると彼は簡単に述べた。

「各国政府が知っていることを公表すれば、それはこの苦しい世界にはかり知れないほどの助けとなるでしょうね」と私は言った。たぶん助けにはならないだろうと彼は答えて次のように言った。

「いいですか。この頃は人間は真実でなく意見のことで闘っています。人間はもう真実の何たるかを知らないからですよ」

我々の会話は数分間続いたが、そのあいだ彼は人々のなかには自己の利益のために家族や他の何物をも犠牲にしようとする人がいるという考えを述べた。

大衆の指導者層たる独断的な人々は自分たちの意見の正しさを立証して地位を保つために喜んで国民を犠牲にしているのである。現代の世の中には政治家や宗教上の指導者たちによって不消化な食物を与えられているために病気にかかっているのだ。だからこそ真実を知る人は口で語ることはできないし、また語ろうともしないのだ。現在はいかなる真実が話されようとも、右の2つの力によって信ずるに足りないものとされるだろう。大衆は政府の意見を間違いないものとして受け入れるようにしつけられてきたのである。

遠い東洋の空港の係員の話したこのような世界情勢の分析を聞くのは興味深いことだった。それは私が旅行中に学んだ事柄や異星人から聞かされた事などと完全に一致している。私はこの興味ある人物ともっと話を続けたくて仕方がなかったけれども、飛行機に乗る時刻がきたので私は乗り込んでまたも旅を続けねばならなかった。

機がダーウインを離れたとき、飛行中は写真を撮ってはならないと命じられていたのだが、これには失望してしまった。というのはエジプトの上空を飛んだときに私は美しいピラミッドの俯瞰(ふかん)撮影をする機会を失ったからである。しかし撮影禁止の理由もわかってきた。地上には戦闘配置についた軍用機が多数あったからだ。これはカイロ上空を飛んだときにはっきりと目に見えた。

カイロで短時間の寄港をした後、機はアテネへ飛行を続けた。時間がないためにパルテノン、ニケの神殿、アクロポリスその他の名所を見学する楽しみは得られなかった。機はローマでちょっと停止し、続いてイングランドへ進行した。こうして私は1959年4月18日にロンドンへ到着したのである。

ロンドンへの飛行はきわめて素晴らしいものであった。デスモンド・レスリーとジョン・M・レード氏が空港に迎えに来てくれて、かねてから予約がしてあったハイドパーク・ホテルへ案内した。

私はデスモンド・レスリーと夕食をともにして、それからBBCの番組『今夜町で』に出演した。翌日は日曜だったので、私はデスモンド・レスリーやその家族と一緒にすごした。彼らは私をロンドン市内の名所見物に案内してくれた。

月曜日にはBBCのテレビ番組『パノラマ』に出演する予定になっていた。私が受けた知らせによると、この番組はイギリスで最も人気のあるテレビショーの一つであり、ざっと900万の視聴者があるという。私の出演は有名なイギリスの天文学者パトリック・ムーアとの対談の形式になっていた。

我々は早目に放送局へ到着して、ムーア氏が入って来たときには昼食をとっていた。私は彼に紹介されて番組ディレクターが彼を部屋の向かい側に呼ぶまでちょっとのあいだ2人は談笑した。番組進行の方法についてディレクターが彼に教えているようだった。私は落ち着いていた。なぜなら彼と握手をしたとき2人は友人同士だということをじかに肌で感じたからである。しかし彼はなさねばならぬ仕事があったし、有名な天文学の権威者として私に反対し、私の体験を偽りであると立証する必要があるかもしれなかった。彼はBBCネットワークで毎日出演する番組を1つ受け持っていたし、少なくとも彼の収入の一部はその番組にかかっていた。

ショーが始まったとき彼は私の天文学上の知識で私を無資格にしようとしたが、この試みは不成功に終わった。その番組はあまりに短時間であったし、不幸にも世論は彼にそむいてしまった。最も辛辣な批評家でさえも翌日の新聞で私が"完全な威厳"によってその討論に勝ったと述べた。一般の反応はきわめて大きくて、ムーアほそのショーのために2ヶ月の休暇を与えられた。

こんな結果に終わった彼にたいして私は気の毒に思った。と同時に、もし異星人からの援助がなかったならばムーアは公衆の面前で私を抹殺したかもしれなかった。私を陥れようとする彼の企てに応用された方法を見抜くには地球的な知識以上のものを必要とした。私の旅行中にもし私が異星人から忠告を受けなかったなら、私はすぐに屈服したかもしれない。

人間としてまた科学者としてパトリック・ムーアに私は最大の敬意を表するものである。ショーが終わったあと、我々はホテルへ行った。デスモンド・レスリーと他に2、3の人が同行した。ホテルで一同はその番組について賛否両論からなる面白い討論をやった。

私にはムーアがあの番組の結果に満足しているように思われた。今それを回想するのに、彼はあんなふうな結果に終わることを望んでいたかもしれない。というわけは、彼もまたH・パーシー・ウィルキンズ博士と同じく、月面上の危機の海の"橋"の実在を確証したイギリスの天文学者の一人であったからである。すでに何者かが月の橋を行動基地として使用していたことを彼は知っていたにちがいない。そして筋の通った考えとしては、その"何者"かは他の惑星から来た人々ということになる。

タンブリッジ・ウェルズにおける公開講演が4月21日火曜日に予定されていた。我々一行が車で到着したとき、私はイギリス空軍大将ダウディング卿に丁重に迎えられた。講演と映画公開の許可証が入手してあるかどうかと尋ねてみたら、それは必要としないと係官が言ったという。ダウディング卿もそのことは間違いないと確証してくれたが、私はもっとよく知っていた。

私がこの国へ到着したとき、私のパスポートには"旅行者"と印が押してあった。これは私が収入のあるなしにかかわらずイギリスで働いてはならないことを意味している。これは難問題になった。私は書面による許可証がないので仕事をするのをことわったからである。切符は全部売れていたのでダウディング卿はひどくあわてた。彼は弁護士に電話をかけた。すると講演をやっても全く大丈夫だという返事だった。別な友人がその弁護士に話したが、やほり同じ返事が来た。それで私が弁護士と話したらどうかということになった。万事は好都合だと相手が答えたので、私はそれを書類にしてもらってくれと頼んだ。「いや、そんなものは必要ありません」と彼は言ったけれども、私はあとへひかなかった。

このときまでには私がかなり頑固で法律を知らないのだとみなは考えていた。私は彼らに多大の迷惑をかけたことを申し訳なく思ったが、しかし、講演を中止させてフィルムを没収させるかもしれないような法律の抜け道を絶対に反対派に与えたくなかった。

イギリスの国民はまじめだが、何が起こっているのかは知らなかった。彼らはサイレンスグループの強い影響力や、このグループが大衆からいかに真実を隠そうとして活動してきたかについて何らの警告をも受けてはいなかった。

ついにダウディング卿が司会をし、私はゲスト・スピーカーとして聴衆の質問に答えようということにきまった。これなら大丈夫だろう。というわけは、これはクラブの会合として催されるもので、許可証を必要としないからである。

私はダウディング卿とともに演壇に座った。彼は聴衆に向かって、ある事情のために予定の講演はとりやめとし、そのかわりにアダムスキーが彼の体験に関する質問に答えるのだと説明した。彼はまた、もし入場料の払い戻しを望む人がいれば要求どおりにすると述べたが、だれも要求した人はいなかった。ダウディング卿がまず最初の質問をして会合は2時間続いた。

我々がロンドンに帰ったとき、書面の許可証が労働省から発行されたが、この許可証はイギリス内のどこでも役に立った。

私の次の講演は4月23日、ウエストン・スーパー・メアーに予定されていた。デスモンド・レスリーは駅まで私を車で送ってくれて、私のコンパートメントへ落ち着くのを手助けてくれた。私のために予約してあったコンバートメントへ入ったとき、一人の乗客がそこに座っているのを見て我々は驚いた。汽車はまさに出発しようとしていたので、デスモンドはその乗客に間違いを知らせる余裕はなかった。

デスモンドと私が握手して別れの挨拶を交わしたとき汽車は動き始めた。しばらくして私のコンパートメントにいた男は話し始めた。驚いたことに彼は異星人であって、イギリス政府の諸計画について科学者として働いていたのである!

彼ばかりでなく無数の異星人が世界各国で種々の科学上の計画に参加して働いているのだ。こんなふうにして異星人たちは地球人が自身の科学と自身の宇宙船で宇宙空間へ進出するのを援助し得るのであり、そして宇宙にあまねく知的生命が存在するという理解に地球人を近づけつつあるのである。これが、地球人がその惰眠と無関心の状態から目覚めて、これまでに想像していたよりもはるかに大きな行く手が待っているという認識に到達し得る唯一の方法である。

ウェストン・スーパー・メアーは、ブリストル海峡とセバン川とが交わる所に位置する、きわめてきれいな海岸町である。講演会場に選ばれたホールは西部沿岸地区一帯から来た人々で一杯になった。講演と映画に非常な興味が示されて、多くの知的な質問が発せられた。

ボーンマスに滞在中、友人たちは『宇宙、重力、空飛ぶ円盤』の著者レナード・G・クランプと私との会見を準備してくれた。イギリス宇宙旅行協会の会員ですぐれた技師であるクランプは、私の円盤写真をスティーヴン・ダービシャーの撮った有名な"コニストン円盤"の写真と比較して、その真実性を立証した。正射影法によるその比較は、イギリスでスティーヴンが撮った円盤は、南カリフォルニアのパロマーガーデンズ上空に滞空していたところを私が撮った円盤と型の比率が同じであることを立証したのである。

またクランプは、私の数々の円盤写真が異なる角度から撮影されているので、私の写真をコピーして全く同じ比率をもった型の円盤の模型を作ることはだれにも不可能であることを立証した。丸窓から円型翼、キャビンの高さと直径、頂上から底部に至る長さは、イギリスとアメリカの両方の写真で全く一致したのである! 

ボーンマスの講演後、私はロンドンへ帰り、デスモンド・レスリーと彼の家族とともに滞在した。 4月28日にはキャクストン・ホールで別な講演会が開かれた。

次の講演が4月29日にバーミンガム大学で開かれたが、その準備はすべて同大学の教授団の手にゆだねられた。科学上の真理の探求と修養とを目指すこの有名な団体は、価値があると思われる人々にたいしてその門戸を開いているのである。

750名以上の座席数を有するこの大学の講堂は、人が入りきれないはどに満員となった。聴衆はまじめそのものであった。

マンチェスターが私の次の予定地であった。ここでは1959年5月1日にフッズワース・ホールで講演を行なった。ここでの成功はこれまでのあらゆる場合と同じであった。どの会場でも私のフィルムは非常な歓迎を受けて心から称讃された。

イギリス諸島全体で特に本書にあげた数よりももっと多くの講演会が開かれた。雪と、肌を刺すような風の吹きまくる寒いスコットランドで、私は喉を痛めて風邪を引いてしまった。これはひどくなったので、5月4日に私はデスモンド・レスリー宛に打電した。

「風邪が治るまで講演は中止」

その後の短時間の休息でやや健康が回復したので、私は講演旅行の最も心あたたまる体験の一つをさらに得ることができた。オランダのユリアナ女王との私的な会見である。

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