ホーム ライブラリー レターズ ピクチャーズ ufo 掲示板 お問い合わせ リンク

GA Site -UFO Contactee-

articles

過去更新記事

 ├ 2009年度
 ├ 2008年度
 ├ 2007年度
 ├ 2006年度
 ├ 2005年度
 ├ 2004年度
 ├ 2003年度

最新更新記事

サイト内検索



GA Site内を

新アダムスキー全集

 ├ 写 真
中央アート出版社
TEL : 03-3561-7017
E-mail :info@chuoart.co.jp
 世界講演旅行 ジョージ・アダムスキー  

第2章 オーストラリア

私の飛行機がシドニーへ着陸しようとしたとき、不愉快な出来事を予告するようなある不安感をおぼえた。大衆が真実を求めて渇望し、各講演会で大勢の人が入れなくて帰ったりしたことを私にたいする反対派は知っているので、とても会場内で黙って座っていないことは私にわかっていた。

たまたまオーストラリアの各新聞社は私がニュージーランドで起こした反響に驚いたので、大多数の新聞社は私の講演を好意をもって報道していた。加うるにUFOと異星人問題に関する限り、神秘主義と心霊現象との虚偽性を私はくり返し指摘してきたので、以上のことはサイレンスグループにたいする大きな刺激となったのである。彼らグループはオーストラリアにおける私の講演を中止させようと決めたらしかった。

UFO研究をやっている人たちはある1つの奇妙なパターンに気づくようになっている。それとも、それは本当に奇妙だろうか。私がどこで講演をしようとも、私の異星人とのコンタクトを否定するかまたは私を神秘主義の卑劣漢にしてしまおうとする者がいつもいる。他の自称コンタクトマンたちは概して新聞で叩かれることはほとんどない。おもな攻撃は私と私の証拠資料に向けられていた。

▲1959年3月31日付けのクリアメール紙(オーストラリア)より。コアラのぬいぐるみを渡しているのはG・ジャミーソンの令嬢ポーラ(4歳)。

UFO研究雑誌のなかには事実にもとづかないで私に関してゆがめられた虚偽の記事を掲載したのもある。多くのグループは霊界通信用文字板の周囲に座ったり降霊会に夢中になったりして、無意識にサイレンスグループのために役立っているのである。飛行機が旅客用タラップの置いてある停止位置まで滑走しているあいだ、以上のような考えが私の心をかすめた。私が反対派に提示した問題を彼らはどんなふうに扱おうとするのかを考えてみた。しかし私の疑問は数時間ばかりして氷解した。

ブリスベンから来たゴードン・ジャミ−スンとロイ・ラッセルに会って税関へ案内された私がその事務所を離れたとき、一団の人々が私のはうへ集まって来た。彼らは宇宙問題に熱心な人、UFO研究グループの幹部連、新聞記者などであった。

紹介が済んだとき、記者会見が用意されていることを私は知った。記者団は私に多くの質問を発して、あとでこの国の訪問に関する記事を書いたが、記者のなかには私の談話をゆがめて、私が金星と火星へ行ったと称していると書きたてた者がいた。実際には絶対にこんな話はしなかったのである!記者会見が終わったとき私はどこへ泊まるようになっているのかと尋ねた。このとき私は、私自身の意志は考慮に入れられていないという様子をはじめて感じたのである。

かねてから私の秘書は、個人の私宅でなしにホテルへ宿泊させていただきたいとはっきり連絡をしていたのだが、この申し出は完全に無視された。私は2ヶ所の宿舎の内一ヶ所を選ぶようにすすめられた。一つは市から遠方に住んでいる医師の家で、他の一つはあるアパートであった。私はアパートを選んだが、そのときそこが市の中心部からどれほど距離があるかを知らなかった。しかし選ぶとすればやはりアパートになるだろうということが後になってわかった。

私を迎えてくれた女主人は占星家であった。彼女は占星学をUFO・異星人問題と結びつけようとしていた。この両者のあいだには何の関係もないのだと私は説明したが、彼女は筋の通った事実を認めようとはしなかった。多数の人と同様に彼女も自分の既成概念と異なるものならばいかなる考え方にたいしても心を閉ざしていたのである。

シドニーのUFOグループのために講演の準備をしているあいだに、このグループは団体として私の主催者になりたがっていないことを私は知った。それでも彼らは講演を望んでいた。オーストラリアにいる外国人は就労許可を得る必要がある。講演というものは報酬が出ようが出まいが仕事とみなされている。この許可証はそれまで発行されていなかった。そしてそのグループは私が許可証を得るのを援助したがらないように見えたので私は気がかりになってきた。政府が私にシドニーで講演をさせてくれるかどうかはわからなかった。

講演前の記者会見やラジオ、テレビの出演などのあいだも、状況が不安定のために講演のことについては言えなかった。講演会の時刻は迫っていた。切符は売られていたが、多数の入場希望者を会場へ入れることは不可能だろう。

講演準備の責任を有している委員会は、就労許可など必要はないと主張し続けた。ここに至って私は用心深くなってきた。そして、彼らの行為は私を政府との紛争に巻き込むことによって講演旅行を中止させようという計画の一部であるにちがいないと感じたのである。私は許可なしに講演を行なうことを拒絶した。状況全体が一つの策略のように思われたが、後になって証拠が現れて私の信念を確証したのである。

ついに一人の委員が就労許可を取って来たので、グループはシドニーにおける私の講演を主催してくれた。講演は非常な歓迎を受けたが、終わったときに私はフィルムを公開してよいという検閲局の許可証を持っているかと尋問を受けた。これには驚いてしまった。というのは、移民局との事前の打ち合わせでこの問題は解決済だと思っていたからである。

許可証は交付されていないと私は答えて、官憲の許可が書面で来るまではフィルムを二度と公開しないからと述べた。しかしこの事件によって、今後の講演を中止させるか少なくともフィルムを公開するのを妨害しようとする別な手が打たれるかもしれないと私は警戒するようになった。

私たちはついに検閲局へ出頭して、映写機を据え、フィルムを写して見せた。官憲はその映画にびっくりしたようであった。映写し終わってから許可証が発行された。今や紛争はおさまった。少なくともその町ではおさまったのである! ひとたび問題が解決して片がつくと、シドニーの人々は親切でおおらかであることがわかった。

3月4日に私はパースへ飛んだ。そしてそこで大新聞であるサウス・ウェスタン・タイムズ紙に記事を多く書いているボブ・モロウに会った。モロウは面白い人で、宇宙に関する立派な記事を沢山書いている。私は異星人とその来訪に関する彼との会話を心から楽しんだ。地方のUFOクラブの指導者であるパースの宿舎の主人は親切なあたたかい人であった。

アデレードで第2回目の講演を上首尾で済まして、私たち一同がホールの外で車を待っていたとき、婦人連の一人が数機の円盤を目撃した。なかには円盤群が消え去る前に詳細に観察した人もあった。

すると一人の牧師が一行に近づいて来て、田舎の孤児院で講演をやってくれないかと私に頼んだ。その講演のあとで修道女たちの手によって立派な昼食が出された。子供たちや牧師、修道女たちすべてが親切で、UFO問題に非常な興味を持っているようであった。

私がメルボルンに向かって出発の準備をしていたら、なぜUFOはオーストラリアに着陸しないのかと質問を受けたので、私が出発したあとで着陸するかもしれないと答えておいた。

ところが驚いたことに着陸したのである! これは私がアデレードを出発する前に発生したのであるが、私がメルボルンに着くまでは公表されなかった。3月28日付のサンデー・メール紙で次の記事を読んだときの私の驚きを察していただきたい。

我々はUFOを見た―気味悪い物体、町民を不思議がらせる。

ジョン・ピンクニー記者発。

「別な惑星から来た宇宙船が南オーストラリアに今月着陸したのか? アデレードの北東150キロにあるパーノング郡に発生した気味悪い事件が住民に右のような疑問を抱かせている。この数週間、不気味な多様の色を帯びた物体の群れがパーノングの空中を飛び交っていて住民を恐れさせている。3月13日に2人の住民が語るところによると、彼らは巨大なドーム型の機体が野原から離陸するのを目撃したという。この2人はパーノング陸揚げ場の運送業者パーシー・プリッグズ氏とクレイパンズの郵便局長カール・タウィル氏である。タウィル氏は次のように語った。

『その物体は旅客機よりも大きかった。プリッグズ氏と私はそれが人間の手によって操縦されていたと確信している』 

2人の話によると、巨大なドーム型の機体が晴闇のなかに光っているのを見たので、2人がその不思議な物体のほうへ近づくと、それは音もなく空中に浮揚して停止し、それからものすごいスピードで消え去ったという。」

メルポルン軽滞在中に私は地元のUFO研究団体からあたたかい歓迎を受けた。私は3月16日から30日までその町に滞留した。

▲メルボルンのビルの屋上に立つアダムスキー氏。

アデレードとメルボルンの両方の新聞社は非常に協力的だった。メルボルンで町中が見渡せる大きなビルディングの頂上で私の写真が振られた。そのときは強い風が吹いていた。それでその写真はまるで私が離陸しようとしているかのよう見えると笑いながら人が言うのを私は2、3度聞いている。この写真や私の撮ったUFOの写真類が3月19日付のトゥデイズ・ヘラルド・ニューズリール紙の長い特集記事とともに掲載された。

次の日曜日の夜、私はオーストラリアの『新聞記者のインタビュー』番組に出演したが、この結果はきわめて良好であった。その出演後に私は非公開講演のためタスマニアのホバートへ飛んで、メルボルンでの滞在を一時中断した。

メルボルンへ帰ってからふたたび旅を続けて飛行機でブリスベンへ行ったが、そこでの滞在は仕事というよりもむしろ休暇に近いものとなった。この町の善良な人々は私に必要なすべての世話をやいてくれて、休息と気晴らしのための多くの時間を与えてくれた。

ブリスベンで行なった数回の講演の1つで、前座としてある公立学校の生徒たちが劇を演じた。この少年たちは縁のグリースを体に塗って"火星から来た緑の人間"に扮していた。彼らはアンテナのついた小さな帽子をかぶって短い劇を演じ、続いて私をとり囲んで"火星の歌"を歌った。そこには乱暴さや他人を傷つけるような魂胆もなかった。ブリスベンの生徒たちは心が広くて熱心に知りたがっていた。聴衆は講演を注意深く聴いていた。

ここでも他と同様に数百の人が会場へ入れなかった。ブリスベンの新聞社、聴衆、UFO研究グループなどのすばらしい協力を私は忘れないだろう。

ここに滞在しているあいだに私はソ連映画『星々への道しるべ』を見る機会を得た。この映画のなかの2、3の場面は私が大宇宙船の内部で見た光景と同じであった。またそのなかに私がそれまでに一般にたいして絶対に発表したことのないある"物"があった。たぶんソ連にも別な惑星の宇宙船に乗ったことのある人がいるのではないだろうか?もしソ連がこのような実際的な興味ある映画を製作し続けるならば、"宇宙から来る怪物"のごときバカらしい映画ばかりつくるアメリカのプロデューサー達ははるかに立ち遅れるだろう。ヨーロッパで私はアメリカの宇宙物映画は気味悪がられていることを知った。海外のほとんどの人はヨーロッパの映画のほうを好んでいる。彼らは"宇宙から来る恐怖″よりももっと事実にもとづいた映画を望んでいるのだ。

ブリスベンを離れる前に私はローン・パイン・コアラ禁猟地へちょっと行ってみることにした。この特殊な禁猟地は1927年にキャム・ライド氏によって始められたもので、オーストラリアや個人の所有と運営のもとに存在する禁猟地として最初のものである。

コアラというのは原始的な恰好をした動物である。カンガルーに似て子供を運び、ユーカリの樹の上で暮らしている。その全生涯を通じて水を必要としない。ローン・パイン禁猟地はよく馴れて健康な100匹以上のコアラを飼っているが、これは全部ここで飼育されたものだ。付近の小動物園には他の動物が収容されていたが、そのなかにはエミュー、カンガルー、ワラビー、ワラルー、ディンゴー、フクロネズミ、ニシキヘビなどがいた。

オーストラリアでカンガルーは捕らえられて食用にされることを私は知った。ちょうどアメリカで鹿を食べるようなものである。カンガルーはオーストラリアの原住民にとっては主食になってる。

その禁猟地を離れてから私は汽船でブリスベン河を24キロばかり下ったが、沿岸は実に美しい眺めを呈して快適な旅だった。

オーストラリアの講演が終わってから私はロンドン行きの飛行機に乗るために同国北端のダーウィンへ飛んだ。ブリスべーン空港での別れのパーティーと挨拶とを私は忘れることはできない。正しくできた友人たちとともに楽しい滞在をそれ以上続けられなかったのは残念であった。

home artcles letters pictures ufo bbs お問い合わせ link