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▲壁画の部分図(拡大図) |
ドナルド・E・キーホー(米海軍退役少佐でUFO研究家)が書いた「空飛ぶ円盤は実在する」は、ユーゴスラビアのUFO問題を取り上げた最初の書物である。そしてUFOは大気圏外から来るという一般的な概念が、1949年5月7日にチトー上空で1機の円盤状UFOが目撃されたという記事の中で述べられている。それ以上の詳細な様子は残念ながら書いてないが、キーホ−がこの情報を米空軍から直接に入手したことは確実にわかっているので、ユーゴスラビアも"有史以前の"UFOの出現活動に関係があったと考えてよいだろう。1949年以来、数個の不思議な物体がユーゴスラビアの上空に見られているが、特に1954年と67年、69年、それに1971年がFO出現のブームであった。
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▲ビソキ・ビキニ修道院の壁画。左が西で右が東 |
これについて説明する前に、まずサラエボのAAAK(天文宇宙旅行協会)によるUFOの分析結果に注目することにしよう。 ユーゴスラビアには奇妙な物がある。各地の男子修道院の壁に絵が描いてあるのだが、これがUFOに関連があるらしいのだ。それらの壁画のなかで最も奇妙なのは、ユーゴスラビアで最も魅力的かつ立派に保存されているビソキ・デカ二修道院のフレスコ壁画である。1968年以来、多数の専門家がこの特殊なフレスコ画に興味を寄せてきた。この修道院の最大のドームの中にある有名なフレスコ画「キリストの傑刑図」中の2カ所の部分が、UFO研究家、科学者、ロケット工学専門家、空想家、懐疑論者などの論議の的になってきたのである。有名な科学記者トリフン・ミコピッチは、ボルダ紙の1969年7月26日付にこのフレスコ画について書いたが、その要約は次のとおりである。
「磔刑図」の左上方と右隅、それにキリスト像のバックの青の中に2個の物体が描いてあるが、その形、大きさ、見かけ上の運動などを見ると、どう見ても現代の宇宙ロケットとしか思えないのである。昔はこの物体は太陽と月をあらわしていると考えられていたが、最近の研究ではこの推測は信じがたいものであることを示している。この時代の多くのフレスコ画が太陽または月をあらわしていることは事実だが、ビソキ・デカニ修道院の「礫刑図」は特異な存在である。この絵の物体の中に半裸体の人物像が描かれているのだ。まるで宇宙船を操縦しているパイロットみたいなのである。
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▲ビソキ・ビキニ修道院 |
この当時に描かれた太陽と月の絵はすべて東から西へ動いているようにあらわしてあるし、風の吹く方向も図像学的方法によってすぐわかるのである。しかも描かれた太陽と月はその放射線を地上の方に出している。ところがこの修道院の絵は西から東へ動いているように描かれているために、太陽と月ではないというのが第一の理由となる。次に、物体から出ている放射線が垂直でなく水平になっているのである。そして"宇宙飛行士"らしい人物がその物体を操縦しているように見えるのだ。この3点は、フレスコ画に飛行中の2機の宇宙船を描いたものという結論に達することになる。左側には機首の丸い物体から長さの異なる6本の水平なビームが出ており、右側の"乗物"は先端が3角形にとがっていて、うしろへ3本の放射状のものを放っている。この物体中の小さな男は進行方向にむかってすわり、ある距離をおいてその後方からやって来るように見える左側の物体の方を見ている。
すでに述べたように、中世のフレスコ画にはしばしば太陽と月が措かれているので、比較するための資料は十分にあるが、この修道院の壁画のようなものは見当たらない。たとえばデカニ修道院と同じ時代の建築物であるベタの修道院には太陽と月を描いた多数のフレスコ画があるけれども、これらは本物"の太陽のきわめて正確な描写である。ぺクの太陽"はすべて等しい長さの放射線がリング状に取り巻いているので、太陽を象徴化したヒマワリのようにも見える。伝説によると、西歴33年、キリストの傑刑の日に日食"が起こったと考えられており、そのためにべク修道院の礫刑フレスコ画だけは太陽を光のない状態で示してある。そこでデカニの絵画も同じ光のない"太陽として描かれたもので、ロケットらしき物体は太陽なのだと考える人もあるだろう。
ぺク修道院のコレクションの中にはやはり傑刑を示す有名なエルサレム壁画があるが、ここでもキリスト像の上方に太陽と月の絵を見ることができる。これらはしかし人間の目で見るといつもそうであるように痛ましく写実的に措いてある。この絵の空中には人間の姿はなく、十字架に関して太陽と月の位置は全く異なっている。これを見る人は、正確に設定された伝統的なパターンを中世の聖像画家たちが尊重した良心を感じるのである。
デカニ壁画の太陽と月の絵に関係があると思われる宇宙船について論議することになると、この説の熱心なチャンピオンたちは、礫刑に関連した新約聖書のある部分(これには暗い太陽ばかりでなく地震のことも述べてある)はその当時に出現した宇宙船に関連があるのかもしれないと考えている。
問題は、デカニのフレスコ画を描いた画家たちがこのように解釈して、そのためにキリストの頭上に宇宙船を描いたのか、ということだ。それとも画家たちは存命中に宇宙船を見て、それを忠実に描いたのだろうか。あるいは今は失われた何かの資料から描写したのか、または全くの空想だったのか? 新約聖書の文章の解釈は自由だが、たしかなのは、キリストの死のときに人間が操縦する宇宙船が出現した記録はないということである。天文宇宙旅行協会会長のムハメッド・ムミノピッチは次のように言っている。「こうした絵画は各自の考えどおりに解釈されてよい」
ユーゴスラビアのUFO出現騒ぎ
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▲1968年10月18日、サラエボで撮影されたUFOの連続写真。天文宇宙旅行教会の会員が写した。 |
ここで同協会のことを述べておこう。この協会はUFOの目撃に関する海外の記事によく引用されるが、一般には悪く思われている。その理由は、一度ならず我々はユーゴスラビアの目撃事件についてマニアから報告を受けるけれども、同協会はこうした現象を説明のつかない"とかわけのわからない"ものと声明するらしいからである。だが、実際には、同協会はUFOの研究グループではないのだ。ユーゴスラビアにはUFO研究グループはない。したがって同協会の仕事はUFOに関する報告を勝ち誇って世界に発表することではなく、むしろUFO事件については懐疑的なのである。同協会はロケットと天文学を広めようとするアマチュア天文家、大学講師、数学教師、物理の学生などのグループにすぎない。もしUFOが出現すれば同協会はその事件を取り上げるが、ただそれを説明しようとするにすぎないのである。
この点でそのメンバーたちは1968年10月18日にユーゴスラビア上空で見られた未確認物体に関して立派な仕事をしている。これは全世界のUFO専門誌に真実のUFOとして掲載された。その内容は次のとおりである。
「そのときは白昼だったが、物体はその光輝のためにすごくよく見えた。その輝きは後に西方に出現した金星のそれよりも少なくとも100倍はあった。物体は方位角200度の方向を飛んでいた。仰角約40度である。最初は濃い青色で、次に白青色に変わり、最後は赤くなった。中心部には強烈な輝きが見えたが、これはあとで消えた。最初の星々が出てきたとき、物体の大部分は、中心部だけ別として、透明になったように見えた。17時15分頃、物体はサラエボ天文台の南側におり、18時50分頃に望遠鏡の視野から消えた」
協会の幾人かは28.5倍の屈折望遠鏡を用いて数杖の写真を撮影した。フィルムはアグファで、カメラはゼニスである。この写真のうち2枚は鮮明に写っており(上段の写真)、他の2枚は大体に良好だった。物体は円錐形で、一部分は強く光っていた。飛行中にターンしたが、これは写真でもわかる。
この事件はユーゴスラビアの一般人の好奇心を高めた。サラエボ、モスクル、コニーツその他の無数の住民が見たからである。新開やラジオが報道したが、その性質についてはだれも語ろうとはせず、政府はいかなる説明もしなかった。結局、写真すらもスケッチやリポート以上の知識を与えなかったのである。協会は徹底的な調査を行うことにした。そして最初の結論は、いかなる種類の気球でもないということであった。2種類の地方紙に協会の手で広告が出されて、もっと詳細な情報を集めることにした。協会は更にグループを結成して、正体を究明することにし、6ヶ月後には「1968年10月18日に見られた物体の正体」と第する42頁の小冊子を発行した。飛行物体の測定の可能性を考えた後、協会はUFO研究家のために計算データを出した。次のとおりである。
物体の高度はサラエボの上空25.40キロメートルである。飛行コースの作図は目撃者のデータと一致した。物体は平均秒速8.8メートルで移動した。成層圏の気流が物体の横流れを生ぜしめた。したがってそれ自体の推進力を持ってはいない。全重量は800キロである。
結局、10月18日にユーゴスラビア上空で見られて、"未確認″としてUFO関係文献に載り、これほどの騒ぎを起こした物体は、どこから来たのかわからない成層圏気球だったというのである!
ここで最後の疑問が残る。「この物体はいかなる目的をもつのか、そしてどんな装備がしてあるのか?」 どうみてもこの飛来の目的は上空から地上を観察するためであろう、ということになる。詳細に言えば次のとおりだ。
1) 温度、湿度、気圧、風向き、風速、電荷など、空気中の諸条件の調査。
2) 軍事及び科学上で役立つ地理学的調査。すなわち通信網、建築物、地形、産業地域、地磁気の性質など。
3) 電波通信網の調査。すなわちテレプリンター、無線電話、その他電磁波を用いた各種の機能など。
この物体はこうした機能を果たすための科学的な装置を必要とするだろうが、これはむりだろう。ただしこのような装置は、レーダーさえ無力化させる"インテグラル・コイル"を持つ近代的な機械から成ると考えでよい。この種の気球は純粋に科学的な目的を有する科学研究グループによって打ち上げられたのかもしれないし、別な目的で軍事施設から飛ばされたのかもしれない。
気球の高度が25.4キロメートルだということがわかれば、気球から観察できる範囲も見当がつく。地上撮影用装置が積載されていたと考えれば、視界の最大角度は120度となり、撮影地域の幅は68キロメートルである。物体がユーゴスラビアの中央部上空を飛んだということは注目にあたいする。この物体が集めた情報を高周波電波で基地へ送信できる装置を持っていたと考えれば、地上から見える範囲の決定は重要である。このことを念頭におけば、基地や受信センターの位置について推定できる。理論上の目撃範囲は地上の湾曲度によってきまるが、もっと厳密に言うと、地面の凹凸の性質によってきまるのである。信号が受信される範囲は図で示されているが、その幅はその海抜の高さできまる。
最初のゾーンでは信号はあらゆる地点で受信されるが、第2のゾーンでは海抜1000メートルの地点でしか受信できない。第3のゾーンでは海抜3000メートル以上の土地となる。ユーゴスラビアと近隣各国を示す地図がこの詳細を示している。
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▲左から1970年5月16日、9月29日、71年10月8日にサラエボで撮影された物体。 |
この受信帯域の半径はそれぞれ570、680、720キロメートルとなる。この各エリアはUFOの高周波信号受信帯域と思われる地点をすべてカバーする。海抜2000メートルの図で示される最も外側のエリアは、その高度で受信される地域だけを示している。しかし中心部に最も近い他の2つのエリアは、それぞれ1000メートルと0メートルの高さの同じ地点を示している。図で示してあるように、送信される信号は我々を取り巻いているあらゆる国に受信できることになる。気球の移動コースからみると西の方のどこかから打ち上げられたとも考えられる。かりにイタリアのどこかだとすると (地図では"M"となっている)、これは海抜2000メートル以上あり、これを中心に弧を描くと、この狐はユーゴスラビアの領域の全部を含むことになる。このことからわかるのは、物体がユーゴスラビア上空のどこにいたにせよ、信号は、イタリアのM地点で25.4キロメートルの上空を飛んでいた物体から受信される可能性があるということである。M地点がイタリアに定められたのは、物体が西から来たからである。しかしイタリア以外の国のどこかの地点であってもよい。こうした推測はUFOの目的などに関する多数の仮説の一部分にすぎない。
ところが協会のメンバーは更にUFOを見たのである。これも写真に撮られ、協会によると同じ性質のものだということである。つまり成層圏気球だというのだ。この目撃はサラエボやその近郊で発生した。日時は1970年5月16日、9月29日、71年10月8日である。協会がこのような重要な役割を果たしたのには2つの理由がある。まず第一に、こうした調査態度は全世界のまじめなUFO観測者にとって価値があると我々は考えていること。UFO目撃レポートというものは感違いが排除されればより以上価値が出てくるからである。第二に、我々は協会メンバーの熟練した腕前と、UFO問題に対して示しているまじめな態度を強調したいからである。このことはもちろん協会が成層圏または大気圏外物体に関して意見を表明する際に信用を得ることになる。したがって我々はユーゴスラビアのUFO騒ぎに関する教会の判断に敬意を表している。
1954年10月15日と同月25日のあいだにユーゴスラビア上空で円盤が目撃された。最も重要な目撃証人たち(低空で飛んだ円盤群と高空を飛行した巨大な葉巻型物体を見たという)は、ルブリャナ、サラエボ、べオグラード周辺の地域に住んでいる。数千の人々が目撃しており、協会の意見では、このブームは同じ年の10月と11月に起こったフランスの事件と大いに共通しているという。しかしフランスの場合と違ってユーゴスラビアの事件はほとんど新開には出なかった。注意を引いた実例は皮肉に取り扱われて、これは不幸にもユーゴスラビアのブームの再調査を不可能にしている。円盤出現事件はフランスと同様に1954年8月末から11月末まで記録された。このときはフランスのブームも終わっている。フランスのピークは1954年10月の前半であるが、ユーゴスラビアのピークは同月の後半である。資料不足のためブーム発生の地理的な範囲は推論の域を出ない。
続く数年間、新聞社はやはりこのUFO問題に注目しなかった。ユーゴスラビアでは噂が流れたけれども、これは外国の刊行物から情報が入って来たからである。しかしバルカン半島諸国と同様、ここでもUFOをめぐる沈黙は1967年の終わりに破られたらしい。その年の11月と12月に、イワングラードの住民が数機のUFOを見たと主張したのだ。このUFO群はシンメトリカルな円陣をつくって移動し、絶えず高度を変えて、ついに驚くべきスピードで消えた。
この頃はひどく湿っぽい季節だったが、コモビ森林ではその上空を物体群が低空で飛んだあと、原因不明の大火災が発生した。火事の原因を調査中に、不可解な損傷を受けた樹木群が発見された。旋風に襲われたかのようにぽっきりと折れている。さすがにユーゴスラビアの新聞も事件に注目した。同じ頃、ジェット機よりも速い多数の物体が不可解な飛び方をしたという報告がゴルベクから出たあとは特に注目したのである。レーダーでその位置をつきとめることは可能だったが、正体は不明で、ユーゴスラビアの軍用機がむだな追跡をしたあと、物体群は他の都市や村々へ移動した。また、コスメット州の州都プリスチーナの約100名の住民が1機のUFOを目撃し、これが異常に輝く星のように見えたと報告している。当時空中には1機のジェット機がいたが、物体はもっと高空を、もっと速く飛んでいるように見えたという。 同じ秋に、数十名の人がベオグラード、ザグレブ、ゴルベクなどの上空をUFO群が飛ぶのを見ている。コモビの森林とソフィアやブリスチーナの諸都市が同じルートにそっていることは注目にあたいする。このことから、こうした場所のすべてが飛行コースの直線網の存在を示していると結論づけるのは早計だが、たしかに奇妙ではある。協会はこれについて何も発言しょうとはしなかった。事件の詳細な資料が不足していたし、入手できた資料も研究用としてはあまりに異常であったからである。
最後に付言すると、1971年にユーゴスラビアでは1967年と同じUFOブームが発生した。この調査はまだ始まっていない。しかし、このブームについては諸外国のUFO誌にしばしばセンセーショナルな記事や結論が掲載されているけれども、この"噂"の正体は多数のプラスチック製気球だったと我々は考えている。
久保田 八郎訳 |