ヘフリンの撮影事件!
1969 年12月26〜28日にボストンで開かれた米国科学振興協会によるUFOシンポジウムの席上で、アレン・ハイネック博士は講演を行い、彼が”白昼光円盤”と呼ぶ一種のUFO現象について説明した。
「この種の物体の存在は写真によって確証されている。たぶん他の種類の物体よりももっと確かなことだ」
そしてマクミンビルのことに言及して言葉を結んだ。
「私はこれらの写真のすべてが真実のUFOの証拠であると言うつもりはない。しかし確実に言えるのは、徹底的に調査されたこの種の事件の25パーセントは本物の報告であり、この点でインチキの可能性はゼロである」
1965年12月3日にカリフォルニア州サンタアナの近郊で撮影されたレックス・へフリンの写真をハイネックが持っているかどうかは確かではないが、クルジ(ルーマニア)の近辺のバシウ森林の中で、1968年8月18日にエミ−ル・パルネアが撮影した写真を彼が持っていないことを筆者は確実に知っている。なぜこの両者を対等に扱おうとするのかというとそれはこの二種類の写真に類以性があり、特に両者間には3年のへだたりと1万6千キロメートルの距離があるという事実をよく記憶しているからである。フランク・エドワーズはサンタアナ写真が撮影された経緯についてその著書Flying Saucers:A serious matter で述べているし、コンドン報告の件についても多くの頁を費している。
目撃時にレックス・ヘフリンはトラックの運転台にいた。
「私は一個のUFOの出現に気づいていたが、最初は何かのありふれた物体だろうと思った。それは前方で左へターンした。そこで急にこいつは異常な物だぞと思ったのだ。私はセミオートマチックのポラロイド101カメラを取り出して、窓ガラスを透して最初の写真を撮った。 物体は北東の方向に動いていたので、次に右ドアーの窓から2度目の写真を撮った。写しているときに、そのUFOの低部から回転する光が放射されることに気づいた。物体の高度が約50メートルほどになったときに、同じ窓から3番目の写真を撮影した。
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▲1965年8月3日、米カリフォルニア州オレンジ郡ハイウェイー調査部員のレックス・ヘフリンがサンタアナをドライブ中、自動車の防風ガラスをとおして撮影した円盤。 |
ゆらゆらよろめくジャイロスコープみたいにゆっくりと移動していたが、高度を上げるにつれて安定してくるように見えた。それからスピードを増して、UFOの胴体でできたみたいな輪状の黒青色の煙を出した。このトマト状の煙は30秒続いたのでこいつを4番目の写真の被写体にした。するとUFOは北東の方向へ飛んで行った」
へフリンの推定によれば物休の直径は10メートル、高さは約3メートル、彼からの距離は約50メートルである。UFOの色は灰色で、頂上部はかすかに輝いており、全体の輪郭はハッキリしていた。よろめき運動中に音は全然出さなかったが、表面のあちこちが太陽の光を反射した。
空軍はこのUFOを「銀またはそれに以た金属製らしいが、白色の部分もあり、これは回転する光線で照らされたものと思われる」と述べている。エルトロのG2事務所のスタッフは、もとの写真に現れている光線はきわめて鮮明であったと言っている。
10月27日には、当時米空軍のUFO調査機関であるブルーブックの責任者であったへククー・タインタニラ少佐は、日刊紙サンタアナ・レジスターの記者に対して「空軍は徹底的に調査した結果、この写真はトリックであるという結論に達した」と語っている。しかしこの新聞は10月9日付で、空軍大佐E・ポウから下院議員のアルフォンソ・ベルに宛てた書簡を次のように引用している。
「私たちはこの写真をインチキとみなしてはおりません」 コンドン報告は言う。「ハートマン博士による基本的な問題は、『我々はUFOの存在を証明する十分な証拠を持っているか? 目撃者と写真が異常な物体の出現を示しているこの事件で起こってくる2番目の疑問は、事件全体がインチキなのか、それとも本物のUFOなのか、ということである。こうした疑問の意義に関する意見を公式化するのが我々の目的ではなく、我々の意図はただUFOの存在の証拠を見つけることにほかならない。この特殊なケースにおいては詳細は疑わしい」
ハートマンが話してくれたところによると、彼は眼に見えないような糸で模型を吊り下げて最初の3枚の写貞に似た写真を作ることができたという。しかし雲の存在を示している(輪状の煙も)4番目の写真の信憑性については最大の論議をかもしたという。
ハートマン博士によると、雲が存在したはずはないとのことだが、ロサンジェルス紙の天気予報記者は「我々は午前11時30分頃の気象状況についてはわからないが (ヘフリンの目撃時)、その地域からの報告によれば、空は曇りであったことを示している。スモッグのため2.5ないし5マイルにわたって視界は良好ではなかった。その地域では早朝に雲が出る可能性があったが、広く散ってしまい、あとにスモッグを残した」と書いた。
航空宇宙工学の技師であるジョン・R・グレイが新たに調査をやった(この人は宇宙開発関係で16年の経歴を持つが、そのうち4年はアポロ計画に参加し、現在はヒューズ航空機会社の航空宇宙システム部の技師である)。その結果、へフリンは4番目の写真を撮る前にトラックを離れていたとグレイは言明した。
カメラの内蔵露出計は運転台のライトをとらえていたために露出過度になり、雲は撮影できるはずはなかったというのだ。またUFO自体が黒い輪状の煙ばかりか蒸気雲のようなものを残したことも、きわめてあり得ることだと言っている。この4番目の写真とよく似た現象がクルジでも発生したのだが、それはあとで詳述しよう。
さて円盤型UFOの出現については最近の証拠があるが、それにはサンタアナとクルジの事件を強く思い出させるものがある。
1971年8月のある日の午後3時、ベルギーのバラタ・ミシェルで一個の物体が目撃された。目撃者たちによると、その物体は地上約15メートルの位置を滑空したという。円形の物体で、金属のような灰色を帯び、ドームがついていた(これはへフリンが撮った最初の写真の大伸ばしに見られたものである)。この物体も消えたときに黒い煙を残したのである。
へフリンが撮影した4枚目の写真に見られる雲の出現は、物体が本物でないという証拠として取り上げるわけにはゆかない。なぜならその雲、煙等はUFO自体が飛び去る前に放射したかもしれないからだ。へフリンはそうだと確信している。奇妙なのはへフリン事件の信憑性に疑念をもつこのような議論が、疑わしい気象上のデータにもとづいて主張されている点である。
写真の真実性についてハートマンを疑わせているもう一つの論議は、写真類の扱い方をめぐっての混乱と、それに関係した人々のいかがわしい正体である。その人々とは”米軍キャンプの将校”と自称している連中だ。へフリン自身は写真類が混乱の渦中でどのようになったかを知ってはいない。これについてはコンドン報告の中で述べてある。この事件の真相が何であるにせよ、この”論議”は科学的な結論よりも微妙な法律的な分野に属するものである。
しかしハートマンがただちにへフリンの写真を否定することは不可能である。眼に見えない糸を用いてこうした写真をでっちあげることが可能だということは、必ずしもへフリンの写真がインチキだという証拠にはならない。しかもハートマンは他の状況や間接的な目撃者について満足のゆく説明をしていないのだ。たとえばへフリンは現地にただ一人でいて、糸を吊ってさまざまの位置から写真を撮る十分な時間はなかったのである。ハートマン自身はその場面を再現するのにどれほどの時間を要したかについては何も言っていない。へフリンが写真を撮ってからちょうど1年後の、しかも日中の同じ時刻に、他の研究者たちが現場の写真を撮った。
UFOの出現した現場である。へフリンの写真に出ている電線、樹木、電柱、影などが後者の写真の中のそれらと比較された。そしてへフリンはきわめて短時間内に急速な連続写真を撮ったということになったのである。”へフリンUFO”は糸に何かを吊り下げて撮影したものではないという決定的な線が出たのである。ヘフリン写真の真実性は事実上疑いなく、それはあらゆるUFO写真の中で最も有名なものの中に入れられている。結局ハートマンすらもこの事件については結論は出ないと述べた。
>>第2話へ続く |