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▲爆心地で折れた木。周囲には新しく生えた木が以外に早く生長している。 |
謎の大爆発
1908年6月30日の朝7時頃、シベリアのツングース・タイガ(大森林)の上空に巨砲のごとき轟音がとどろいた。数百の農夫、狩人、漁師たちの目にうつったのは、太陽よりも強烈な光を放ちながら、ものすごいスピードで空中を飛ぶ1個の物体である。そのあとバノバラ村の住民たちは地平線上にきらめく火球を見たが、次いでそれはキノコ型の雲に変わった。
すさまじい大音響が村から800キロメートルも離れたカウシュにまで聞こえたのである。カウシュの列車機関士は列車をとめた。貨車が爆発したと思ったのだ。
アウガラ川の岸辺には大波が溢れ、他の河川に浮かんでいた材木が空中高く跳ね上がった。イェナ、イルクーツク、その他の町の地震計は地震を記録し、連続3夜、ロンドンやパリの市民は電灯なしで新聞を読むことができた。モスクワでは夜間に写真を撮ることもできたほどで、事件が発生した頃にシベリアにいたロシア科学アカデミ−会員A・ポルカノフの日記によれば、シベリアの雨天時の雲は黄緑色なのだが、この黄緑色がときどきピンク色に変わったという。結局、あの途方もない火球は2千万平方キロメ−トルの地球と数千万本の樹木を破壊したのである!
以後、多年にわたって目撃者や多くの人がこの神秘の大爆発を語りついだため、やがてその真相と伝説的な話がこんがらがってしまった。 科学上では1個の巨大な隕石が落ちて爆発したのだということで、この謎は解けたかに思われた。
1921年に人々がシベリアの森林地帯でこの隕石の探索を始めたが、発見できなかった。1938年と39年には爆発地域の上空から空中写真が撮影され、1959年から60年にかけて更に探険隊がツングースへ行った。
現在ではほとんど年中この地帯の調査が行われ、モスクワとシベリアの各研究所が関係資料を集めては分析している。ツングースはいつのまにか特殊な科学研究の対象となったのである。
1908年から69年までは実に77種類もの著述家や研究グループが、爆発について77種類の研究結果を発表したが、1969年になって種々の科学的結論をともなった最初の調査結果が発表されたのである。それ以来次のような説が一般に認められている。
(1) ツングース・タイガのこの大爆発は宇宙空間から来た天体によって発生した。
(2) この爆発は地上約10キロメートルの位置で起こった。
(3) これは10メガトン水素爆弾の力を持つ原子核分裂現象であった。
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▲爆発中心より数キロメートルの位置。樹木が同じ方向に倒れている。1930年代に撮影。 |
更に、物体が地球の大気圏内を飛行中は飛行コースと速度が変化したという結論も出された。この核反応の実際の性質については物体の性質と同様、まだ未解決である。 隕石は見つからなかった!
このツングースの大事件については、地球にはある一定の時期に一定の場所へ宇宙から人間が来たという最初の否定できない証拠となる時がいつか来るだろうから、ここで各種の爆発調査をもっと詳細に紹介しておくのも有益であろう。
1921年、ロシア気象学会のレオニード・クーリクは、この大爆発に関する短い声明を発表した。独学で学び、系統的な科学教育を受けなかったが、彼はこの爆発事件が科学的にきわめて重要であるという確信を述べたのである。
その発表によってロシア政府は調査資金を計上した。これはロシア革命より5年後に初めて行われた探険である。クーリクは前途に待ちかまえている極度の困難をものともせずに出発した。現場を発見するだけでもひどいトラブルがつきまとったのである。
シベリアの大森林は南米やアフリカのジャングルのようにはっきりと想像できない。通俗的な科学書にほとんど述べてないからだ。しかしここは熱帯地のジャングルと同様にどの点から見ても容易に人を近づけない地帯である。1917年の革命までにここへ入ったヨーロッパ人は南方のジャングルへ入った数よりも少ない。したがって、隕石の落下だと考えられたこの事件を探険しようという考えは、いかなる科学者、冒険家、皇帝政府にも起こらなかったのである。
この地帯の人口はきわめて少ないので、あの恐ろしい自然の現象に関してモスクワへ届く原住民の話は事実とかなりかけ離れている。またこの住民たちはオグディ神が天空から地上へ降りてその地帯へ立ち入る者をすべて火で焼き払った場所だと信じて恐れているために、この地帯の調査は極端に困難であった。
クーリクとその一行は凍った地面を貿通させる道具を運びながら、ほとんど生命の存在しない地帯を踏破しなければならなかった。土地の測定はできないし、道路や車の跡もない。クーリクのヨーロッパ人同行者たちが病気になり、へこたれて、バノバラ基地を離れても、クーリクはただ1人でシベリアのジャングル中にとどまった。
そして1927年の冬の恐ろしい極寒中で、唯一のガイドの助けをかりて、最後の難関たる数キロメートルを突破したあと、ついに目的地の外縁に到着したのである。彼はシャホルマ山脈から見おろして、形容しがたいカによって破壊された森林の跡を目撃した!
まるで地域全体が巨大な鎌で刈り取られたかのようだ。松や唐松の大木、その他シベリア特有の樹木類が根こそぎ倒れている。あらゆる樹木が北西の方向に横たわり、なぎ倒した異様な”怪物体”の説明を待っているかのようだ。 ガイドは迷信で恐れおののき、それ以上案内することを拒んだので、クーリクは引き返すより他に方法はなかった。そして冬が過ぎてからもっと勇敢な同行者をもっと大勢つれて来ようと考えたのである。
1928年の春、クーリクは森林をかき分けて、ある広い地点に到着した。周囲の地面には輪状に樹木が倒れており、どの根も同じ方向に向いている。クーリクは今や爆心地にいて念願を果たしたと考え、そこで恐るべき破壊の跡を調査し始めた。
彼の最初の報告はツングースの事件への関心を全世界に広めることになったのである。そして彼はこの大破壊が巨大な隕石によって起こったものと確信していた。当時としてはこれは無理のない”当然の”説であり、これ以外には考えられなかった。
ところが彼は隕石の一かけらにも出くわさなかったし、あるべきはずのクレーター(大穴)も発見できなかったのである!
沼地付近の爆心地で見たのは枝や葉をもきとられた、倒れた大木の山で、すべて枯れはてて、根は空間に突き出ている。これで隕石落下説に対する最初の疑惑が起こり始めた。同行者の1人であるバシル・スーチンは77種もある憶測のなかで最もバカげた説を打ち出した。
それによると、この大破壊はものすごい強風のせいではないかというのだ。だが問題解決に無限の意欲を持つクーリクは、隕石に違いないという自説を頑固に変えなかった。そこで、限石ならば凍った地面の25メートル地下に破片が発見されるかもしれないと考えた。沼地の水がクレーターを満たしたのだろうと彼は思ったのだ。
しかし半世紀後になってこの爆心地の沼はタイガで普通に見られる沼にすぎないことがわかったのである。
1938年から9年にかけて飛行機により地形の測定が行われ、空中写真が撮影されたが、この仕事は第2次大戦で中断された。クーリクは前線へ送られ、1942年4月にスモレンスクで戦死した。
>>第2話へ続く |