まず第一に、ビュハリッチ博士がしだいにユリと親しくなるにつれて、ユリのほうも、自身のことやその信念、経験といったものについて、気軽に博士に打ち明けるようになった。ユリの話によると、神秘の力は彼を通じて働くし、またエネルギーを引き出すため他人が周囲にいなくてはいけないように見えるが、いっさいの背後にある力はユリ自身の内部から来るのではなくて外部から来るのであり、それも彼自身は地球の外から来るのではないかと考えているとのことである。
彼が博士に打ち明けたところでは、すべては彼が3歳のときからはじまっており、当時のことは細かい点までハッキリ覚えているという。ある日の午後彼は、テルアビブにある彼の家の近くの大きな庭園で遊んでいた。そのとき、頭の内と外で閃光が輝くのを感じた。その光は強烈で現実的であり、空の彼方から来たように思われた。彼は母のもとへ走って行ってその話をしたところ、母は空をじっと見上げたが、よく晴れわたっているだけで何もなかった。
そのときはユリも、この経験をあまり重要視しなかった−それはそうだろう、彼はそのときたった3歳の幼児だったのだから。だが、彼が成長し、不思議な力も発達するにつれて、彼自身も、いっさいはあのとき頭の内外にひらめいたあの壮大な閃光が原因であることは間違いないと思うようになった。
彼を通じて働く力がどこから来るのかと聞かれて、彼はこう答えている。
「この力は、私から発するものではなく、私を通じて現れているだけだと信じます。これは外部からの力なのです……。また、私は、私たちが多かれ少なかれもっと他の仕事のために準備されているのだと信じます。それは必ずしもこの地球上とは限らず、どこか他の惑星での仕事かもしれません。私にいまできることは、たとえばこの宇宙全体のように、地球や人類を超越した大計画の一部なのかもしれない。いま”準備されている”と言いましたが、これは死を否定するものではありません。肉体はむろん死にます。しかし、私たちはエネルギーとして、また私たち自身として、生き続けるのです(ユリは、人間が生まれ変わるということは実際にあるのだ、と強調している)。
今までの出来事−私が皆さんにお見せできること−は、将来どんなことが起こるかを皆さんに証言するための大変複雑な大計画の一部にすぎません。私たちは、成長途上のもっと大きな出来事のために準備を整えつつあるのです。今までの出来事は、もっといろいろな不思議なことが起こる、また私たちにはもっと大きなことができるのだ、ということを告げる前兆にすぎないのです。
この件について私が考えていることはすべて、時間−過去、現在、それに未来−を制御するすべを知り、われわれの想像を絶するほどに発達したある超文明に関係があるのです。この文明は、人々がそれを完成するための使命を帯びた制御装置−コンピューターのようなもの−を残しているに違いありません。そしてこの使命こそ、他の人々と同様、私たちにも深い関係があることは疑いありません。
ですが、はっきり申しあげておきますが、これは神について言っているのではありません。神こそはいっさいを超越していると、私は信じます。
神の存在は、いつも私が考えてきたことです。いまこそ私は、自分の経験から、そして自分の持つ能力から、私の信仰心がいよいよ深くなってきたことを感じています。
私にとってそれは、宇宙空間を飛行したり月に着陸したりした宇宙飛行士たちの経験したことと同様なものだと思います。宇宙飛行を行ったために彼らは、神と宇宙についてもっと深く考えるようになりました。私自身の体験は、それよりももっと長い期間にわたっているだけです。それだけなのです」
今後数年間に地球にどんな出来事が起こるかと質問されて、ユリば次のように答えている。
「3年以内に何か大きなことが起こります。すばらしく壮大なことです。地球の外部もかかわりあいになりますがやはり地球にいちばん関係の深いことです。
それは外部の宇宙との連絡がはじまるという意味なのかと問われて、ユリは言う。
「そうです。今度こそはたいへん緊密な連絡です。しかし、それは我々人類の方に心構えができているかどうかによります。私たちの準備ができていなければ、連絡ははじまらないでしょう。もっとあとになればもっと詳しいお話ができますが、今のところは私もすべてを知っているというわけではないのです」
驚異的な超能力の数々
ユリとその能力について得た膨大な資料についてこれ以上お話しすることは紙面の都合で不可能だが、彼の驚くべき力についてもう少しお知らせしたい。
金属製品を曲げたり折ったりするときにも、これといって特別な感覚は感じない、と彼は言う。そして、まことに不思議なことに、これらの金属製晶−スプーン、キー、貨幣など−の場合、曲げや崩壊の過程はどうかすると、ユリが手をはなしたあと、または念波を送ることをやめたあとでも進行をつづけることがある。さらにくわしく質問されて、ユリは、”低電圧の電気ショックのように、熱かったりピリビリしたりする” ことはある、と答えている。また、すばらしい離れわざをやってのけたときは、精神的にはとても爽快だが、肉体的にはかなりくたびれるという。こういったビリビリした感じや熱い感じ、それに肉体的疲労などは他の超心理現象にも共通した特色だが、それは”UFO”体験の場合にもよく感じられることなのである。
この小文を終わる前に、彼が行った奇跡の2、3を述べておきたい。
あるとき、ビュハリッチ博士がユリに、霊魂だけブラジルに旅行してこないかとすすめたことがある。ユリは言う。
「私はある町に着いた。一人の男にここはどこかとたずねると、リオデジャネ一口だとのことだった。するとだれかが真新しいチクルセイロ札を私の手ににぎらせてくれた。このブラジル紙幣は、アンドライジャのそばの長椅子に座った私の手のなかにそのまま残り、私がブラジルに行ってきたという証明になった」
1971年12月、ビュハリッチ博士はユリをつれてシナイ砂漠にいた。
博士はムービー・カメラの中に砂が入ったのでブツブツ言っていた。このカメラのケースは、ニューヨーク市オシニングの自宅に置いてきていた。
翌朝博士がイスラエルのホテルの自室にいると、5時半頃ユリからすぐ来いという電話がかかった。彼の部屋にカメラのケースがあるというのだ。 博士は語る。
「そこで私は大急ぎでかけつけた。一目見ただけでこれが、六千マイル離れたニューヨーク市オシニングの自宅の戸棚に入れて錠をおろしてあるケースだとわかった。チャンとマークがあるし、間違いない。それに、8カ月ほどしてオシニングに帰ってみると、ケースはそこになかった。
ケースはそれ1つしか持っていないのだから。このことが、ユリは遠くはなれた場所へでも不思議な力で物体を移動させることができるという最初の体験だった。その後は、彼は何度もこのような実験をしてみせてくれた」
現在ユリは、宇宙飛行士のエドガー・ミッチェル博士が月に置き忘れたカメラを地球に移動させる問題を研究中である。彼は言う。
「それをなしとげるためには、心で感じなくてはならない……。できることはわかっている。 私がすることは、それを心に念じ、それからほとんど忘れてしまうことだ。
しかし、このことはやはり心の隅のどこかに残るのだ。それ(月に残したカメラ) がいつ戻ってくるかわからないが、時期が来ればかならず戻る。だがそのためには環境も適当でなくてはいけないし、大インチキだと言われないためには正当な証人も必要だ。私が聞いたところでは、そのカメラが月に残っていることを物語る写真もあるそうだから、宇宙飛行士のだれかがそのカメラをコッソリ地球に持ち帰ったからこそそんなインチキができるのだとは言えないわけだ。その上、ある科学者の話では、そのカメラはもう放射能を帯びているはずで、この放射能こそ測定できるよい証拠になるということだ。宇宙飛行士やNASAの証言や写真と同じようにね。そうしたら人も私を信じるようになるだろう。むろん、信じてくれない人も、たくさんいるだろうが!」
|
▲ユリ・ゲラーが飛行機内から撮影したUFOの写真 |
UFOに乗船したユリ・ゲラー
最後に、もう一つ。ビュハリッチ博士は自分のパーカー万年筆の真ちゅう製カートリッジに目じるしをつけ、この万年筆を鋼鉄製キャビネットにおさめて錠をおろし、それからユリを呼んで、カートリッジを消滅させてみろと命令した。
ユリはただちに承知し、カートリッジは消えてしまったが、それから2日後、ユリが博士に話しかけた。
「アンドライジャ、あなたが欲しがっていた証明をお見せしましょう」
夜になって2人は、イスラエルの砂漠へ車を走らせた。
博士は何か”コオロギのような音”を耳にした。以下は博士の言葉を借りよう。
「砂漠に1機のUFOがいた−金属製の円盤形をして、頂上では青い光が輝いていた。私は言った。『なるほど、これなら証拠になるね』(注)ちょうど高感度の夜間用フィルムを入れたスーパー8ミリ撮影機を持っていたので、私はさっそく撮影をはじめた。
ユリは言った。『あなたは近づいてはいけません。私は乗船しなければならないが』50ヤードほど離れたところから私は、彼がUFOの内部に入って行くのを見て思った。『さようなら、ユリ。もう君に会うことはないだろうね』
私は撮影を続けた。10分ほどすると、ユリが何かを手に持って出て来た。見るとそれは、私のパーカー万年筆のなかの真ちゅうカートリッジではないか。目じるしがあったのですぐ私のものとわかった。これこそ何よりも納得できる証明だったや 私は言った。『やれやれ、これでUFOの映画ができたぞ。君が乗船するところも撮影した。2日前の体験の物理的証拠もできた。これは良い事例になる』
だがそれから、今度はスーパー8ミリ撮影機のフィルム・カートリッジが消滅してしまった。たった10分間の 出来事だった。これこそ私の証拠品だったのに。だから今や私は、いろいろと不思議な経験をした以外には、手をふれることのできる証拠は何一つ持っていないのである」
新しい科学とは
現代人の科学では全く説明がつかないように見えるかもしれないが、これらの事件は将来われわれの研究がどのような方向をとらねばならないかを明らかに示しているのだ。超心理現象は避けてなつかしいボルトとナットの時代にもどりたいなどという泣きどとは、できることなら開かずにすませたいものだ。
現在では”ボルトとナット”派も、彼らの科学や宇宙観がドードー鳥のように絶滅しつつあることを理解しはじめているはずである。
19世紀の固い、”実在”して手でふれることのでき、長持ちのする機械観はすでに色あせ、いっさいは運動と波動、それにエネルギーの科学に道をゆずりわたしている。この新しい世界を探険して、それを説明するための全く新しい科学用語を作り出すことが必要なのだ。これこそ新しい時代の若い科学者たちの手強い仕事となるだろう。マックス・プランタが言ったように新しい観念になじみやすい新しい血と新しい精神が、古いものどもにとってかわりつつあるのは、ありがたいことだ。彼らなら、メンゼルやコンドンなどという名に結びついた非科学的感情的思考にかかずらって貴重な時間をむだにすることはないであろうから。
われわれの研究の本質に関係があるのは、人類が宇宙の生命のなかでどの程度の高さにいるのか、そしてアイヴァン・T・サンダーソンが簡潔に命名した『0INTS』(他の知的生命の略)たちといかなる関係にあるのかという問題である。
したがって、私たちの研究はその最大の努力を、(ユリ・ゲラーやその他多くの人たちが信じているらしいように) この0INTSはただ単に地球の外部から来るのか、それとも宇宙の外部から来るのかという難題に集中させねばならないだろう。
後の場合ならば、その故郷はまことに多種多様なものとなるかもしれない。宇宙に関する私たちの知識はまことに乏しいのであるから、私たちはどちらの可能性に対してもあらゆるドアを慎重に大きく開けておかなくてはならないだろう。
(終わり)
|