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▲南米を探検中原住民の墓から発掘されたミイラと共に写っているウィリアムソン。インディオの民族衣装を着ている。 |
ウィリアムソンが書いた2冊の書物が先般日本語版で出された。1953年に書かれて1956年に出版された「宇宙語−宇宙人」(編注:日本語版では「神々のルーツ」と題してごま書房から出ている。ただし前半のアダムスキーのデザートセンターにおけるコンタクト事件は除外してある)と、それに1961年版の最後の書である(編注:日本語版では坂本貢一氏訳で「アンデスの封印」と題してごま書房から出た)。
そこで私はウィリアムソンに関する未知の私的な資料等を公開すれば本誌の読者が興味をもつのではないかと思い、この記事を書くことにした。これらの全く特異な資料はここで初めて公開されるものである。それは誰も知らない世界の物語と言えるだろう。
私がここで公開する写真資料は、ウィリアムソンが1957年から58年にかけて彼がペルーを探検した当時に携行していたもので、この手帳に彼は日常の出来事や自分の考え、自分の発見事などを記入したものである。しかしまず最初にウィリアムソンが50年代後半にペルーへ探検に行った理由を明確にしたい。
ウィリアムソンは人類学者であった。彼は大学で人類学を専攻し、それに関する多くの学科を学んだ。ジョージ・アダムスキーに出会う1年前の1951年に彼はチッペア・インディアンと多くの付き合いをして、この北米インディアンたちとの生活に関する本を書いたが未刊に終わった。これは 「チッペア日記」と題するもので、私は約100頁に及ぶこの貴重な原稿を所有していることを誇りに思っている(写真1)。
次に彼が1952年11月20日のデザートセンターにおける衝撃的な事件は若干26歳のウィリアムソンであったからこそなし遂げられたにちがいないと考える必要がある (彼は1926年生まれ。ついでながら編者よりも2歳若かった)。
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▲写真1。ウィリアムソンのチッペア日記。タイプ打ちした原稿。 |
1952年11月20日に彼は巨大な母船が砂漠地帯上空に接近するのを見たことを思い出して頂きたい。彼は大母船の横腹に奇妙なタマゴ型の図形があるのを双眼鏡で見た。また彼は他の出来事もすべて目撃した。たとえば彼はジョージ・アダムスキーが遠くで1人の異星人に話しかけている光景も見たし、さらに彼は金星人が謎の足跡を残した地点に真っ先に到着した人でもある(編注:このコンタクト事件の詳細は新アダムスキー全集第一巻「第二惑星からの地球訪問者」の第一部に掲載してある)。そこでこの特異な体験で大きな印象を受けた彼は宇宙の生命に関する考え方を大きく変えたに違いないのだ。
その結果、彼は「宇宙語−宇宙人」を書き始めた。これはアダムスキーのデザートセンターにおけるコンタクトの意義をよく理解しようとした試みによるものであった。同時に彼はアダムスキーの最初のコンタクトにおいて金星人が残した足跡の象徴的なメッセージを解読しようとしたのである。古代の秘教や聖書に関する象徴学の専門家として、ウィリアムソンは金星人の残したメッセージを研究するのにうってつけの人物であった。実際私は、あの記念すべき52年11月20日にウィリアムソンがアダムスキーと共にいたのを偶然だったとは思えない。ウィリアムソンはそこにいるべき人物だったのだ!
こうした古代のシンボルその他の研究…たとえば有名な探検家パーシー・フォーセット大佐の足跡を追い、南米の古代の失われた都市群を発見しようという生涯の野望は…結果的に彼を50年代後半に南米へ追い立てることになって数々の探検を行ない、ついには住みついたのである。ある本によれば、ウィリアムソンはスピルバーグの「インディー・ジョーンズ」のモデルになったのかもしれないと述べてある。ステイーヴン・スピルバーグがウィリアムソンの本を読んだことはありうることなのだ。特に 「天空への道」を! ここで私が所有するウィリアムソンの貴重な手帳の一つから選んだ数頁の文章を紹介しよう。
- 1957年7月8日マチゲンガは真実の人々の意味である。P・ミゲルによれば、1954年に仕事でここに来ていた1人の男はペルー北部で赤と黄色の色光を放つ「円盤」(複数)を見たという。その男はスペインから来た衛生技師で、ホアン・マトゥーテスであった。彼はヨーロッパとチリで多くの仕事をやった(円盤は緑色の尾を引いていた)。また1948年から49年にかけてマルドナドで1人の男が円盤 (複数) を見た。
- P・ミゲルによれば、マチゲンガ族の言語はある非常に進化した人々の言葉を引いているというが、彼らはもう退化してしまった!
- P・ミゲルによれば、ケチュア語にはマチゲンガ語に似た多くの言葉があるという。また、日本語にもケチュア語とそっくりの言葉(複数)があるという!
- インカの第一、第二王朝は日本から来た可能性があるのか?それとも内陸部の古代の偉大なアマゾン帝国から来たのか? 第一王朝はアマゾン起源か? 第二王朝は日本起源か?
- マテゲンガ族は農耕民族で、斧その他を持った農民であった。彼らはカゴや陶器を作っていた。ピロ族は商人である。
- アマラキレ族は戦士であり遊牧民である。どこへ行っても食物が集められている。マシュカ族は肉食民でマチゲンガとは異なる。
- マテゲンガ族では、アチョテが赤の染料に用いられ、ウェトは黒の染料に用いられる。
- 「マプエ」という言葉はマテゲンガ語で石や岩を意味する。
- 「マシュカ族に神と自由の栄光あれ」(これはサン・ミゲルのモットー)
- ほとんどの住民が絶滅した地域に、神の聖母の全原住民が大変動の伝説を持っている
- そこには古代のアマゾン帝国があったにちがいない!
- 仕事に来たインディアン(ウアチビリス族のミゲール)は言う。「岩」という言葉は非常に古くからある。たぶんインカ以前からの言葉だろう。
- 「岩」と呼ばれる場所は「プチャロキ」という。(これはマテゲンガ語で甘い果物という意味)
- 1930年から40年の間にパウカルタンボとピルコポトの間に道路が完成した。そこのウアチビリス族はホウエリドス族に吸収され、今彼らはマシュコ族の家族の一部族として消滅してしまった。少数の子供と老人たちが、もっと北方のアモリキレ族と合流した。
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▲ウィリアムソンの手書きノート。右の図形は南米奥地で発見したもの。ノアの洪水以前の種族のものかと彼は記している。 |
1957年7月9日、P・ミゲルは昨夜ベッドの中に吸血コウモリにもぐり込まれた!我々はそいつを殺した。今日は午前7時40分に例の大岩に向かって出発する。カヌーに乗って3人のモチゲンガ族の少年をガイドにする。パテアチは20歳、ルイは17歳、メンドサは8歳だ。
午前8時10分に川の右岸のモチゲンガの一家にまず到着。数本の急流にカヌーを乗せる。
10 時45分、少年達が弓矢を持ってサルを捕獲に行くが、ついていない。
午後2時45分、シンキペニア川の河口に到着し、5時にキャンプする。 プラヤで少年達が弓矢を持って魚とりに行く。明日は大岩に着くだろう。
7月10日。午前5時45分に起床。 少年達は漁に行く。7時45分に出発。
8 時45分、川の右岸のショリティア(クリークか?)の河口に到着。正午に川の右岸のインコナナドの河口近くのモチゲンガ族の一家に着く。1時15分ころ、川の左岸のクリーク、テラパリの河口に着く。ここの若者達は短パンをはき、黒い羽のヘッドバンドを着けている。
午後2時45分、再度シンキペニア?に来る。いま川には全く水がない。3時15分にプチヤラキに到着。夕食にヤッカを準備。プチヤラキのモチゲンガ族の家から約5分後に大岩に着く。 大岩はものすごく巨大なり! 明日詳細を調査するつもり!
7月11日。午前6時半に出発。7時半に大岩へ着く。シンキペニアでバルサ材の筏を作り、2時半に出発。午後4時半にカヌーの引き揚げ地へ到着。少年達は大岩の所で昼前に弓矢でヌートリア(編注:南米産のネズミの一種) をとる。夜9時にサン・ミゲル教会へ到着。筏が岩に乗り上げたときにマイクが足を痛めたこと以外は良い旅だった。みたところただの捻挫だ。
大岩の下部にかすれた塗料の跡がある。しかし近ごろのインディアンの絵とはもっと違うデザインのようだ。
簡単な彫り込みの代わりに浅浮き彫りを各所にほどこした跡がある。100ないし50フィートの石灰石の崖がある。サンタ・チャ・ラノ川の河口の反対側のシンキペニア川の岸辺に岩が見える。コデナ・デル・ボンティオコラに入る。未探検の地域の西に岩の断崖があるようだ。また、もっと多くの彫刻があるようだが、ひどく痛んでいる! 幅3メートル、長さ30メートルの面積を覆うようにしてもっと多くの図形が描かれているが、無数の図形をコピーするのは不可能だ。ある種族の記録らしい。
(完) |