いま世界の人口の少なくとも50パーセントはなんらかの病気で苦しんでおり、健康そのものだと称している人でさえも、ときには頭痛、風邪、少しばかりの消化不良、その他にかかっている。病気というものがこうまで蔓延しているのは不思議ではない。というのは、こんなにスピードを競う世界では、人間が生命に関して自分自身を知ろうとする余裕がほとんどないからである。人間の肉体の働きの謎と、形ある物の維持に必要な化学物質の解明に、科学が絶大な役割を演じたのは事実である。
世の中の人々の考え方としては「病気の原因」の排除を考えるよりも、何がなんでも病気そのものを排除しようとする考え方に落ち着いている。そして今の世の中で時間的余裕のないこの頃は、各人が価値のないゴールを目ざしての気違いじみた競争から離れて、最少の時間を得ようと必死になっているのである。価値がないというのは、もし本人が自分の達成事を楽しむだけの健康を維持できないならば、それは無価値になるからだ。
治癒の科学は古代の古めかしい拷問の方法から、怪しげな治療師が病人の頭蓋骨に穴をあけて簡単な頭痛からひどい躁病に至るあらゆる病気を治そうとする悪魔的な医師が活躍した中世の時代に至るまで、長い段階を経ている。
しかし新しく発見された各種の治療法があるにもかかわらず病気は存在し続けるし、世界の人類の苦痛を引き起こすと思われる唯物科学の表面的な外観の背後に、もっと何かがあるのではないかということに人間は気づき始めているのである。
「心」という大通りを進行することが許されているあらゆる想念は人間の全身に影響を与えている。というのは肉体のあらゆる細胞は意識的な知性を持っており、そのために万物の作り手である意識的な想念に対して受容的であるからだ。人間の想念は静かな水面に小石を落とす現象にたとえてよい。この場合、波が発生して広がって行き、ついには池のふちまで達する。想念も全く同じであって、やはり波の形で全身のあらゆる細胞に影響をおよぼすのである。
恐怖、憎悪等の破壊的な考えはコントロールされない波動なのであって、肉体内に緊張を生み出すだけである。一方、「自由」というものは宇宙の偉大な法則であって、緊張を生じさせる物が何であれ、それは自然の法則に反するのである。我々が怒りの想念を分析するならば、他人または他の物の表現に対抗する人間の抵抗の結果として発生する緊張の状態であることがわかる。たとえば、誰かがあなたの顔を殴ると、あなたはすぐに相手の行為に対して抵抗心を起こし、怒りだす。そして確実に闘いが始まって肉体の全細胞群のすさまじい緊張が発生する。
しかしイエスは言っている。「誰かが、あなたの片方の頼を殴ったならば、もう一方の頼を殴らせよ」 と。というのは、こうすることによって、あなたは自分の感情の抑制力を保ち、あなたの全身の細胞群を完全に平静な状態に保つカがあることを立証することになるからだ。
「嫉妬」も他人の自由な表現に反抗して起こす抵抗の結果である。「恐怖」は通常、自分自身の自由な表現に反抗して起こす抵抗の結果である。こうした状態のすべては、肉体内のアンバランスな化学作用を引き起こす。人間はこれまでに「自然の話法則に従うならば健康で幸せになれる」と繰り返し聞かされてきた。しかしこの諸法則に関して人間に教えた人はいなかった。自然の諸法則とは非抵抗の行為であり統一された表現であるということを人間は教えられなかったのである。つまり自然の法則とは「完全なバランスの原理」 にもとずくものなのだ。
人間はこれまで病気に関しては守勢にまわっており、真の原因を追求してそれを除くことはしなかつた。医学は大抵の病気を細菌やウイルスのせいにしてきたが、これらの微生物は多くの場合、人間の「憎悪」「恐怖L「貪欲」から生じた子孫であるという事実を医学はつきとめていない。肉体の細胞は人間の想念に答えるという事実に疑問の余地はない。細胞は人間の知性の従者なのである。
人間が本当に健康を望むのならば、人間は常に完璧にバランスのとれた想念を保つように努力するべきである。「富裕・名声・名誉」などは「若さ・健康・幸福」などにくらべると、ほとんど意味はない。後者は、生命エネルギーを障害や抵抗なしに肉体と心の中に自由に溢れ出させることによって得られるのである。
ーこの記事は1930年代に書かれた珍しい論文。現代でも燦然たる光芒を放っている。ー |