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新アダムスキー全集

 ├ 写 真
中央アート出版社
TEL : 03-3561-7017
E-mail :info@chuoart.co.jp
 デザート・センター

UFOContactee No.121 1993 より

日本GAPが毎年実施している米カリフォルニア州デザートセンターのアダムスキーコンタクト地点の第6次調査が今年も行われた。

ホテル・クラークの残照

1月23日、成田空港を勇躍出発した一行7名は、同日昼前にロサンジェルス空港着。午後は現地旅行社のバスでUCLA(カリフォルニア州立大学ロサンジェルス校)を主体に市内見学。 夕方ダニエル・ロス氏が単身サンフランシスコより700キロの道を飛ばして車で到着、我々と合流して旧交をあたためた。

▲LAのヒルストリートに残るホテル・クラーク。内部は解体されており、営業はしていない

翌24日、付近のレンタカー屋で15人乗りステーションワゴンを借りて、T君の運転でまず市内のヒル・ストリートにあるホテル・クラークへ行く。 ここはアダムスキーゆかりの重要な場所である。

『第二惑星からの地球訪問者』(新アダムスキー全集第一巻・中央アート出版社刊)にある「せきたてられるような印象を感じて、そこへ引き寄せられた」 アダムスキーが、ロビーで2人の異星人と会見したホテルなのだ(詳細は同書144貫から掲載されている)。

アダムスキーは書中でホテル名を伏せているけれども、ホテル・クラークであることを私が知ったのは、1975年にカ州ヴィスタの元アダムスキーの家を訪れたとき、当時健在であったアリス・ウェルズ女史が私に話してくれたからである。

ウェルズ女史はアダムスキーの側近として多年仕えた人で、アダムスキーが1952年11月20日の昼過ぎ、デザートセンターの砂漠地帯に着陸した円盤から降りたった異星人と会見したときに、遠くから見ていた6人の同行者の一人として、双眼鏡で観察しながら異星人のスケッチをした人として名高い。このスケッチも同書89頁に出ているが、女史はその原画を私に見せてくれた。縦8センチほどの小さい紙に描かれたペン画だった。この原画は砂漠で描いたものではない。現地ではラフスケッチを何校か描いて、帰宅してからそれらを元にして描きあげたものだという。かなりの画才があるらしい。

この砂漠での歴史的な会見の翌年、2月18日にアダムスキーは異星人からのテレパシーに感応して、グレイハウンド・バスでオーシャンサイドからロサンジェルスへ出て来たのである。

このホテルはかなり以前に日本GAPの研修旅行でロサンジェルスへ来たとき、バスの窓から見た記憶があるのだが、数年前に小人数で調査に来たとき、ヒル・ストリートでこのホテルを発見して驚喜した。ただし内部は解体されて外壁だけが残っていたのだが、今回もまだ外壁が残っていたのは意外だった。ヒル・ストリートはロサンジェルス市内の中心部にある街路で、私達が宿泊したリトゥル・トーキョーのミヤコ・ホテルから近い。

■ パロマー山で何かが起こる

翌25日、早朝6時に一行8名は車でデザートセンターへ向かって出発。 デザートセンターまでは約350キロある。途中2回ほど休憩をとり、昼頃に現地へ着く。

すでにコンタクト地点は突き止めてあるし、その他の重要な場所も大体に分かっているので、調査といっても以前のように目の色を変えて探索するほどのことはない。私としては将来アダムスキー写真集を出版するための写真撮影を主体にしているので、中判カメラで撮りまくる。大型では沢山撮れないので今回は敬遠した。

あとで後悔したのは、ここで立体写真を撮りそこねたことだ。一台のカメラでアクシスを変えて同一の被写体を2枚撮れば少し角度の違う写真が出来る。それを両眼の交差法で見れば雄大な砂漠地帯が立体的に浮き上がって見えるのである。その写真をここに掲載すればよかったのにと残念に思った次第。

昨年このデザートセンターへ来たときには白昼巨大な葉巻型母船が出現して一同を驚嘆させるという事件が発生した。しかし今回はこの砂漠でUFOが出現する予感が事前に起こらず、翌日のパロマ一山で何かが発生するだろうと一同に話しておいたが、そのとおりになった。

■ 毎回不思議な事が発生

このデザートセンターのコンタクト地点へは誰でも容易に来ることができる。まずロサンジェルスからサンベルナルディノ・フリーウェーを西下して国道10号線を直進すれば、デザートセンターという寒村の中心をなすテキサコのガソリンスタンドの前にいやでも来る。ここから右手を見るとパーカー方面を指示した標識があるので、それらに従ってさらに10.2マイルほど行くと、左手の彼方の岩山の左方面に低い丘があり、その丘に縦に白いスジが2本ついているのが見える。これは昔このあたりで演習をやっていた陸軍のジープがつけた轍(わだち)の跡である。それが見えたならば停車して、道路脇から砂漠地帯へ入り、約500メートル轍を目当てに歩くと、右手の丘のふもとを過ぎた砂地に低い岩の固まりがある。その位置から数メートルの所がコンタクトした場所である。

この地点は1989年に行なった第2次調査時に私が発見したのだが、その根拠になったのは、1952年11月20日、アダムスキーが異星人とコンタクトした直後、6人の目撃証人達1一人であるジョージ・ハント・ウィリアムソン博士が砂地にかがみこんで異星人の足跡の模様を石膏に取っている写真が博士の著書『OtherTongue OtherFlesh』に掲載されている。これを手にかざしながら付近の光景と見比べて歩いているうちに、全く同じ場所に出くわして驚喜したという次第。左右から傾斜して伸びている丘の輪郭、はるか遠方の山々のスカイライン、右手すぐ前の低い岩の固まり等、全く同じであることが写真でわかる。この低い岩の固まりは誰かがキャンプ時の炊事に使用したらしく、煙で黒く煤けた跡が残っている。

しかし、ここを見つけたのも上空からの波動を感知して私がその場所へ引き寄せられたのかもしれない。そんな気がしてしようがないのだ。以来、ここへは難なく来れるようになった。

カリフォルニア州は私達が行く4日前まで2週間も続いた大雨と洪水に見舞われて大変だったらしい。我々は全く幸運だった。陽光きらめく砂漠地帯は摂氏23度、東京の五月上旬の温暖な気候で快適この上ない。ただし、ここも雨が降ったらしく、いつになく地面が柔らかい。

私達はコンタクト地点に集合して大宇宙瞑想を行なった。心身ともに宇宙と一体化する。ロス氏も参加していたが、そのうちしゃがみこんで、しばらくうつむいていた。感動していたらしい。 結局、予想どおりこの日は何も出現しなかったが、私はパロマ一山に期待していたので、残念な気持ちは起こらなかった。

いったいに私達がこの砂漠地帯へ来ると何かしら不思議な事が発生するのが常である。たとえば、1988年にここへ調査に来たときには、間違った場所へ行ったのだが、そのときには山中の低い丘の上の岩盤に長さ3メートルばかりの見事な曲線が白く刻まれていた。曲線定規を用いて描いたとしか思えない美しい曲線を、人跡まれなこんな場所で誰がどのような方法で刻みつけたのか。この曲線から類推すると直径約10メートルの丸い物体が浮かび上がる。私達がそこへ行くことを予知していた異星人が前夜円盤のフランジの経でこすりつけたのではないだろうかと一同で話し合った。

翌日はパロマ一山行きなので、近くのリゾートとして名高いパームスプリングズのモーテル6へ宿泊する。大きな豪勢な部屋で一人一泊3800円。日本では考えられぬ料金だ。夜はホテルの部屋でロス氏を囲んで愉快に歓談した。毎度来るたびに思うことだが、私にとって英語なるものはもはや外国語というよりも、母国語そのものにする必要があることを痛感する。そのためのアイデアもあって計画を実行中である。日本に住みながら英語を完全に母国語にすることは不可能ではない。 学習の方法によるのだ。

▲アダムスキーが一族とともに住んだ場所。コンクリートが敷かれている位置はアリス・ウェルズ女史が経営したレストランの跡。アダムスキーを記念して永久に残されている。右奥の小さな小屋はアダムスキーが建てたもの。ただし上半分は後に改造された。

■ 望遠鏡使いの名人アダムスキー

パロマ一山はいつ来ても清澄透明な空気に満ちて清々しい。都合によって先にパロマ一天文台に行く。まだあちこちに残雪が見られる標高1800メ−トルの頂上は少し冷える。見学人もまばらだ。

 今回は特に山が奇麗で清潔に見える。それもそのはず、紙屑を一つ落としでも罰金1万ドル(120万円)を徴収するという立て札があちこちに立っでいるのだ。平地では2万ドルの罰金という高札が目についた。驚いた話だが、カリフォルニア州は観光州なので特別罰則を強化しているのだとロスさんが言う。以前は見られなかった掲示なので近頃立てられたものらしい。

 頂上にはニュートン式5メートル反射望遠鏡が設置してある (筒の長さが5メートルではなくて、反射鏡の直径が5メートルの意)。建設してしばらくは世界最大の望遠鏡として威力を発揮したが、その後ソ連がこれを上回る望遠鏡を開発したために世界第2位になった。しかし天文学に貢献した業績は図り知れない。しかも第二次大戦中に日本が負けることを見越して建設をやっていたというから、アメリカの底力を如実に感じさせられる。天文台つ〔いて詳細を述べればキリがつかないので省略しよう。

  この天文台はアダムスキーと密接な関係がある。というのは、むかし、この天文台の職員であったジョンソン博士はアダムスキーの親友であった。この人がアダムスキーにパロマ一山に住むことを勧めたため、アダムスキーは一族を引き連れて中腹の台地に住んだのである。その台地をアダムスキーはパロマー・ガーデンズと名づけて開拓し、アリス・ウェルズ女史がここでレストランを経営して一族の収入源とした。

 もっと重要なのは、ジョンソン博士の母堂がアダムスキーの弟子であって、この女性がアダムスキーに6インチ反射望遠鏡を贈ったという事実である。 この望遠鏡があったからこそ、アダムスキーは名高い一連のUFO写真を撮影できたのだ。

 アダムスキーは光学機器に熟達しており、特に望遠鏡による観測はアマチュアの域を脱していた。ガーデンズではドーム付きの15インチ反射望遠鏡まで設置していたが、これではUFO撮影に不向きなために6インチ経緯台を愛用した。空中の動く物体を敏速に撮影するには反射赤道儀よりも経緯台がはるかに便利なのである。

■ 高貴なインディアンの王女

私達は天文台から下って、約20分後に山腹のパロマー・ガーデンズへ到着した。ここは周知のようにアダムスキーが1950年代に生活した場所である。特に彼が砂漠でコンタクトした当時や重要なUFO写真類を撮影した頃の拠点とした所であるから、ひときわ彼の生活行動が偲ばれる。

▲アダムスキーが描いた円盤の絵。

私自身はパロマ一山へ十数度来ているので、このパロマー・ガーデンズが少しずつ様変わりする様子がわかる。しかしアダムスキーが愛した樫の大木は昔のままである。最初に見た17年前よりも枝々が長く伸びており、地面に届きそうなのもある。 ウェルズ女史が経営していたレストランの跡は、コンクリートを敷き詰めたままにしてあり、これは変わらない。

昔、ヴィスタで同女史が私に語ってくれた話によると、アダムスキーの弟子達のなかに一人のインディアン女性がいた。彼女はアダムスキーを心から尊敬していたが、アダムスキーが金に困ってこの土地の売却話を出したとき、そのインディアン婦人が買い取った。

そしてアダムスキーを永久に記念するために、レストランの跡地にコンクリートを敷いたのだという。現在もそのままになっているところを見ると、今もインディアン婦人の所有地なのだろう。 ウェルズ女史はその女性をプリンセス(王女) と呼んでいた。ある部族の最高権力者の令嬢だったらしい。そして白人男性と結婚してサンディエゴに住んでいると語っていたが、名前は聞きそこねた。ウェルズ女史はこのプリンセスを心から尊敬していた。今も健荏かどうかは不明である。

このインディアン女性は超能力の持ち主で、特に透視力が抜群であったという。透視には水晶球を使用していたが、後にこの球をアダムスキーに贈った。1975年に私がウェルズ女史を訪れたとき、アダムスキーの遺品が沢山残されており、その中に水晶球があった。かなり大きな物で、手に取るとずっしりと重い。球を見つめると、「何か見えますか」 と女史が言う。表面には私の歪んだ顔が映っているだけだった。

コンクリートの敷地の右奥に小さな小屋がある。これも元はアダムスキーが自ら建てたもので、17年前にはほぼ原型を保っていたけれども、その後いつのまにか上半分の木造部分は改造されて青いペンキが塗られてしまった。下半分の石積みはアダムスキーが築いたままの状態で残っている。しかし今は各石の間にモルタルがつめられて練り積みになっており、補強してある。

昔、この部屋の入口の夕タキのコンクリートに、アダムスキーが描いたという円盤の絵があった。コンクリートが乾かないうちに刻みつけたらしい。 今はこの絵の部分がはずされて、敷地の奥の地面上に移されている。

このパロマー・ガーデンズへ金星人オーソン氏が訪ねて来て、短期間滞したという話を、こちらのあるグループから聞いたことがある。だが確証はない。ウェルズ女史はそんな話をしなかった。

(終わり)

◆ コンタクト地点へ行く方法

▲デザートセンターの中心部をなすガソリンスタンド ▲パーカー街道を示す標識。左を行けばよい。

■ コンタクト地点に行くには次のようにすればいい

@  ロサンジェルスから車で、まずサンベルナルデイノ・フリーウェーといわれる国道10号線にのって−路西下し、インディオの町を通過して突っ走ると、約350キロ行った所で道が左折する。少し行くと高い椋欄(しゆろ)の木を数十本円形に植えた目印が見えてくる。この向こうにテキサコのガソリンスタンドが見えるから、ここで休憩。

A  ここの右手にパーカー街道へ行く道を示した標式があるので、それに従ってパーカー街道へ入る。ここから 計算して約10.2マイル行くと、道路沿いに約100メートル間隔で立っている電柱に付けてある白いプレートの 番号の「1758203E」という電柱の所で停止して、進行方向に向かって左手の砂漠地帯へ徒歩で入る。但し道路は2車線で狭いから、車は両脇の砂漠地帯へ少し乗り入れて駐車させておく。絶対に道路脇に置かぬこと。

B  電柱の所から道路より直角に左手を見ると、はるか彼方の岩山地帯の左手の低い丘に昔ジープがつけた車の轍(わだち)の跡が縦に2本かすかに見える。これが目印になるので、その方向へ約500メートル歩く。左の写真を参考にして行けばコンタクト地点のそばまで行けるので、次に本号3ページの写真を参照して探せば、すぐ判明する。

注意:真夏にはここの温度は摂氏40度を超えるので、帽子、サングラス等を用意する。夏には低い潅木の中にガラガラ蛇が隠れていることがあるから、絶対に足を突っ込まないようにする。 冬場は4時半に太陽が沈むからロサンジェルスを早朝に出発する。現地にゴミを絶対に捨てないこと。

▲上図の矢印1がジープのつけた轍(わだち)の跡。これはパーカー街道から見えるので、まずこれを目印にして、この方向に歩いて行く。矢印2はコンタクト地点。この写真は道路ぎわから撮ったものだが、ここからコンタクト地点まで500メートルある。砂漠といっても柔らかい砂の海ではなくて固い地面なので歩きやすいが、石ころが多いので歩行には注意を要する。

(終わり)

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