超偉大な指導者イエスに関する伝記としては新約聖書以外にはない。ところがこの書物は約二千年昔に書かれたもので、内容はかなり荒唐無稽な部分が多く、どの部分が真実でどの部分が創作なのか見当がつかない。これを全面的に信ずるかどうかは読む人の自由だが、実証主義をつらぬくノンフィクション研究家としての立場から考察すれば、到底聖書のすべてを鵜呑みにするわけにはゆかない。
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▲エルサレムの旧市街。矢印がイエス処刑場跡に建てられた聖墳墓教会。 |
たとえば、イエスがガリラヤ湖の水面を歩いたという件も、上空に円盤がいて、特殊なパワーでイエスの体を吊り上げたとか、湖の中に別な惑星から来た小型潜水艦がいて、水面まで出た船体頂上部にイエスを乗せたのだとか、もっともらしい説はいろいろあるのだが、いまひとつピンとこない。
そういえば、裏切り者とされているユダにしても、本当はイエスを裏切ったのではなく、むしろ助けようとしたというのが真相だという。グループの会計係で財布のヒモを握っていた彼は師イエスの危急を知るや、独断で金を引き出して大祭司カヤパの部下にそれを託し、援助方を依頼した。しかし金を受け取った男は逃げてしまい、 大祭司にユダの意図は伝わらなかった。賄賂工作に失敗した彼は悲痛の思いにかられてケデロンの谷に身を投げた。以上はアダムスキーがボマロイ女史に伝えた話で、この大要は新アダムスキー全集にも収録されている。
ただし筆者は水上歩行に関する諸説をあたまから軽視はしない。ひとつのインフォメーションとして心の片隅に蓄えておく。研究というものは如何なる仮説から出発してもよいと思う。
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▲磔刑(たっけい)後、イエスの体を横たえたという石版。 |
大体、聖書なるものはイエスが書いたのではなく、イエスの死後、弟子達によって綴られた文書とされており、その中心をなすものはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四大福音書である。この内容は似ているけれども、所々に食い違いがあるところから、誰か一人が書いた文章を他の人達が参考にしたと思われる。学界の研究によると、筆頭を飾るマタイ伝が実はマタイ本人による記述ではなく、ユダヤ人のイエス信奉者がシリアあたりで書いたもので、したがって、かなり作為的な部分が見られるという。
だがイエスはたんなる伝説上の架空の人間ではなく、れっきとした実在の人物である。このことは三度にわたる筆者のイスラエル旅行で、エルサレムに多年在住する知人のイエス研究家・榊原茂師の大研究の成果から知り得た事であるし、アダムスキーの『第2惑星からの地球訪問者』 でもイエスが地球人に宇宙の法則を伝えるために別な惑星から転生によって地球へ来た人であると述べてある。その他、歴史的な多数の事績や伝承からして、イエスの実在に疑問の余地はない。
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▲大祭司カヤパの官邸跡(現在は鶏鳴教会)の横にある石段。イエスは最後の晩餐後にこの石段を降りてゲッセマネの庭園へ行き、一夜祈ったあと、翌朝捕らえられてふたたびこの石段を登り、カヤパの官邸の土牢に入れられた。1800年代に発掘され、昔は石が整然と並んでいたが、その後中腹の石がかなり盗まれて写真のような荒れた状態になった。 |
イエスというのは俗称で、正しくはヘブライ語でイェホシューアといい、これがギリシア語に音訳されてイエスースと呼ばれるようになった三〇歳代の男は、「われこそはユダヤ人の王である」と称したために同胞のユダヤ人から嫌われて、ついにローマ軍に捕らえられ、ゴルゴタの丘で処刑された。その出生から青年期にかけては謎だらけであり、前記のごとく唯一の伝記である新約も美化された箇所が多くて、にわかに信じ難い記述が多いのだが、キリスト教の神学思想とは別に、エルサレムの遺跡を丹念に調べてみると、大祭司の部下達が、ゲッセマネの庭園(この庭園は現存している) で祈りを済ませたイエスを捕らえて、ケデロンの谷を渡り、石段を登った左横にある大祭司の屋敷の中庭に連れ込み、一夜監禁したあと、ローマ総督のピラトに引き渡し、群衆の騒ぎに押されてピラトがやむなく十字架にかけたことは間違いない事実であり、歴史上実在した人物であることが分かってくる。
余談ながら上の石段も発掘されて現存し、これこそイエスが直接触れた遺跡として最高といわれる貴重な物だが、三度目に行ったときは、多くの石が盗まれて目もあてられぬ状態になっていた。建築材料にするために持ち去るらしい。
イエスが馬小屋で生まれたということから、現地へ見学に来る日本人の牧師さん達はイエスの出生地であるベツレヘムへ来ると木造の小屋を連想して「馬小屋はどこにあるのか」と聞いたりすると言って榊原師は苫笑していた。
イエスが生まれたのは木造の小屋ではなく、巨大な岩壁をくり抜いた状態の洞窟旅館の馬をつなぐ部屋である。これも現存している。遺跡に言及するとキリがつかぬので省略しよう。
(以下、第2話 謎の聖骸布へ続く) |