UFOというのはUnidentifded Flying Object(未確認飛行物体)の略称である。筆者がこの言葉を知ったのは戦後の1950年代後半のことであった。 それ以前にはUFOなる言葉はなくて、もっぱら『空飛ぶ円盤』 というような呼称が用いられていた。これはFlying Saucer(空飛ぶコーヒー台皿)という名称が起こる原動力となったケネス・アーノルドの功績によるものである。 呼称はどうであれ、この地球上に太古から不思議な飛翔物体が目撃されていたことは各種の文献からみて間違いない。
しかし近代の科学の発達は人間の感性を鈍化させた嫌いがあり、大地や草木に精霊が宿ると信じた日本の古代人ほどの感性は退化したかの感がある。 だから自分の目で目撃しないもの、物理的に検証されないものを一切信じてはならないという考え方が一般化してきた。
人間とは何なのか、宇宙とは何か、 この疑問は永遠に続くものと思われる。 一般地球人は地球というあまりにも狭い枠の中に閉じ込められているのあま り、大宇宙空間に包まれて自分が存在しているという事実を忘れているように思われるが、これは無理もないだろう。人間は通常肉眼による視野の世界しか意識しないからだ。
だが現実には地球人といえども宇宙空間の中で生きて存在しているからには、やはり宇宙人″である。その意味では、他の惑星に住む人間だけを宇宙人と呼ぶのは不適切だろう。したがって我々は他星の人間を「宇宙人」とは言わないで 「異星人」 と呼んでいる。 英語ではET、複数でspace peopleまたはspace brothersという。後者はアダムスキーの造語で、これは主として太陽系の惑星から来る人々を兄弟とみなすために用いられている。もちろん地球人よりもはるかに進化した人々を意味する。
少数のコンタクティーによると、我々の太陽系の惑星にはすべて人間が存在し、いずれも高度な発達を遂げており、しかも程度の低い地球人をひそかに援助しているという。そのために彼らは地球へ来て、正体を隠したまま地球人になりすまし、絶対に気づかれないように警戒しながら、各種の職業について、それとなく地球の諸状態の改善に尽くしていると伝えられている。 特に核兵器を使用する大戦争の勃発を極力防止しているという。アダムスキーの高弟であったアリス・ボマロイ女史によると、女史がアダムスキーから 聞いた話として、過去のキューバ危機やベトナム戦争などは、あわや核兵器使用による超巨大戦争にエスカレートしそうになったのだが、これをひそかに防止したのは異星人であるという。 核兵器の大爆発は他の惑星群にまで悪影響を及ぼすからだ。
こうした秘話を全く信じない人が多いとすれば、それは本人の感覚の欠如ではなくて、他の惑星の文明を認めようとしない一般的な概念のワナに捕らえられているからだろう。人間が思想的なワナの犠牲になりやすいことは、旧日本軍の兵隊が軍人勅諭や戦陣訓などで徹底的に洗脳された例からみても分かるし、現代でもさまざまな概念や神話の網に縛られている例が多い。
だが世界の裏面で異星人から驚異的な情報を入手しながら人間の精神革命のために健闘している人もある。そしてそのような人達をひそかに援助して地球の向上に貢献している異星人のグループがあるという事実を知れば、この地球は完全に表裏の二面性を帯びた世界であると言えるだろう。表舞台と裏の楽屋の世界である。この楽屋では地球の質的向上のために可能な限りのプロジェクトが立案され遂行されている。核兵器による世界戦争の防止、宇宙開発、医学の発展その他あらゆる面での援助である。
しかし重要なのはスペースピープルにすべてを任せるのではなく、地球人 みずからの努力でもってこの世界を改善することにある。スペースピープルはその手助けをしているにすぎない。 責任は地球人にあると言えよう。
「核兵器廃絶などはなまぬるい。殺人用の道具であれば最後のピストル一挺ナイフ一丁に至るまで地球上から駆逐すべきである」というのが編者の持論である。こうして天国のような平和な世界の実現を「夢想」するのではなく、「そのイメージを描きながら、そのような想念波動を少なくとも日本人の10パーセントが放射し続ける」ならば、世界に画期的な変化が生ずるだろう。 日本人の平和に対する想念力は抜群に強力であるからだ。
以上の絶対平和論は既成の宗教やイデオロギーと関係はない。地球と別な惑星との大差を比較した上で打ち出したものにすぎない。
非現実的だと? そんなことはない。 一人の平和想念波動放射は周囲の数十人に影響を及ぼす。その数十人が共鳴してそれぞれに波動を放射するならば、それは無限に伝播する。そして実社会に実際の変化が発生するのである。げんにその活動は或る楽屋から行なわれており、その結果、世界に軍縮の機運が生じたのである。
世界の諸問題に対する最大の敵は、 人間の外界にあるのではなく内部に存在する。それは「恐怖心」という敵なのだ。
(久) |