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空飛ぶ円盤の秘密   T.ベサラム/久保田八郎訳

著者はしがき 訳者あとがき 昭和42年発行 高文社版より

空飛ぶ円盤を見たという人は随分多いし、なかには宣誓した者さえもある。更に、奇妙な小人が円盤の中へ逃込んだとか、円盤から出て茂みの中に走り込んだと話す人もある。読者も、新聞、雑誌、書物などで、このような事件に関する記事をお読みになっていることだろう。

著者 はしがき

円盤の存在を信じる人もあれば、また鼻の先で笑って否定する人もある。空飛ぶ円盤というようなものは存在しないのであり、そんなものを見たというのは、気象台の揚げる上層気流の調査用気球でも誤認したのだろうと、各国政府は国民への報告書で述べている。しかし「レーダーでも、ときどぎそのようなものが観測されることがある」と言明したのも政府筋である。

これから引用する1953年10月2日金曜日付の、ロサンジェルスの日刊新聞「ザ・ミラー」をご覧になればおわかりの通り、ドナルド・E・キーホー少佐は、その新著Flying Saucers From Outer Space(外宇宙から来る空飛ぷ円盤)で、もっとくわしく情勢を伝えている。

円盤は地球以外の遊星から飛来する 海兵少佐は語る

▲ ドナルド・E・キーホー少佐
▲ ドナルド・E・キーホー少佐

退役海兵隊士官の著作により、円盤の謎は一躍新たな脚光を浴びることとなった。彼はこの2年間空軍の調査機関(プロジェクト・ブルブック)と密接な協力を続けてきた。"円盤は他の遊星から来る"キーホーはズバリと云う。彼は有力な論証で自分の確信を裏付けているのである。

円盤の存在を信じる者にとっては、彼が提出している新しい証拠(公式な観測調査記録)にはほとんど反駁の余地がないのであるが、信じない人たちや嘲笑う連中にはまじめに考え直す機会をこの本は与えるだろう。

以上は理論ではなく、キーホーが新著で述べている事実である。すなわち、米国に加うるに5ヶ国(英国、フランス、カナダ、ノルウェー、スエーデン)が未確認飛行物体の調査を現在も行なっているし、また米空軍は各種の空飛ぷ円盤を実際に撮影した映画フィルムを所有するに至ったのである。地上レーダーと肉眼による同時観測中に初めて1個の円盤が空軍のF86戦闘機のパイロットによって撮影されたし、空軍情報部では秘密裏に現在までのあらゆる証拠の詳細な分析を完了した。

その映画は1952年7月2日、ユタ州トレモントン付近で海軍兵曹長と写真技官が撮影したものであるが、この画面を見ると円盤がいろいろな運動をしているのがわかる。キーホーは政府が最新の研究結果を容易に発表しないのは大衆に恐怖心を起させるのをおそれているからだと強調しており、また昨年夏に首都上空へ現われた円盤の発見騒ぎは事実にもとづくものであって、空軍の将官は重要な記者会見でこれを一笑に付してしまったが、それも一般の疑惑や不安をしずめるためだったのだと述べている。

円盤実見例は少しも減っていない。目撃報告の大部分は政府が発表を禁じているのである。多くの謎はまだ解けぬままだ。たとえば、もし円盤が実際に他の遊星から来るものなら、なぜ着陸したりわれわれと通信を交したりしないのだろう。それにたいしてキーホーは何もかも知っているという顔付は決してしないが 、われわれは外宇宙から来る何者かによってながい間詳細に観察されていたのだと強調している。

この書によって、空飛ぷ円盤とそれをあやつる宇宙人に関する読者の知識が豊かになることを私は望んでいる。

自分の目で何度も円盤を見たことのある人たちは、如何なる否定論にも決して服従できるものではない。かつてフランスの科学者が、自分たちの知識によれば細菌などというものが存在するわけはなく、ましてそれが病気をおこすとはもってのほかであると攻撃したのにたいして、パスーツールがあとへ退かなかったのと同じようなものである。

科学ではまだ何もわかっていない事柄もあるのだ。ほんの百年たらずの昔には、「馬のついていない馬車」が狂人の空想に過ぎなかったのだけれども、現在はそれがあたりまえのことになっているのと同様に、われわれが外字宙の知的生物に導かれて、いまはまだ克服しがたい多くの困難を排除し、楽々と宇宙旅行に出かけるようになるのもあり得ないことではない。

円盤を見たと報告した人々―評判のよい人たちばかりだ―がみな"いかれて"いるわけでは決してない。練習航空隊本部の発表によると、1952年中にオハイオ州ライト・パターソン基地に寄せられた円盤報告は1000例以上にのぼっているし、また全世界から数千もの報告が集まっている。

最初は無関心と噸笑をもって報いていた大衆の間にも次第に興味と関心がおこってきた。だから読者も私の話を少しは信じて下さるだろうと思うのである。

しかし私がこれから読者にお話しようとする体験談は全く途方もないものであるから、話の内容も私の正気も疑われるおそれがある。それで先ず読者が私の経歴を知って、語の内容を信じてよいかどうかを容易に判断できるように、とりあえず私自身について少しお知らせすることにしよう。

私、すなわちトゥルーマン・ベサラムは、1989年8月21日、カリフォルニア州ペリスから少しリヴァーサイド寄りのギャヴァランで生まれた。当時そこは金鉱地帯だった。故老はサンタ・ローザやグッド・ホープという鉱山を思い出すだろう。ほかにも採掘所は沢山あったが、この2つは代表的なものだった。私の両親がギャヴァランに移住したのもゴールド・ラッシュによるものと思う。父は鉱山の排水機と巻揚機の係りだったが、またサンタ・ローザ鉱山に近い自宅の周囲で畑作りもやっていた。

私は2歳頃まで鉱山地帯で育ったが、その後1900年の終りか1901年の始め頃、一家はカリフォルニア州レッドランズに移り、そこで私はオールド・ルーゲイニア・アヴェニュー・スクールの付属幼稚園に入った。それから、コルトン・アヴェニューとテキサス・ストリートに近い、出来たてのリンカーン・スクールの1年生になったのである。

この頃両親の間が不和になり、父母はたがいに別れてしまった。父には妹と義弟があったが、義弟は例の1901年の砂漠の呼声"に誘われて、いまのグレート・インピーリアル・ヴァレーに移住していた。2人は、ホルトヴィルの新開地に来て運だめしをやってはどうかと父を説き伏せたので、私たちは1904年の夏にそこへ行き、私はその年の秋に2年生になった。6歳である。学校は大きな天幕小屋で、全学年が同じ部屋にいた。

1910年に父は鍛冶屋をやめて、弟と一緒にカリフォルニアのエルシノーに店を買い、私は6年に編入して、わずかの間ではあったが、そこの小学校に通った。

以前に買うた店を売るためにまたホルトヴィルに帰り、こんどはシーリーという新開地に出て新規に鍛冶屋を始めた。シーリーには初等中学を終えるまでいた。高校は3校を転々とかわった。最初がインビーリアルで、ホルトヴィルで1学期半、またインピーリアルに帰り、その次エル・セントロで1年、それからインビーリアルで半年といった状態で、卒業証書はない。父の工場で働いて家計を助けねばならぬ必要から、学校のほうは途切れがちだった。

ついに私は自立することにきめて、綿操工場で働いたが、のちには当時渓谷にあったあちこちの浄水会社の仕事をやったりした。その後、谷を離れてからは、またエルシノー地方でいろいろな仕事にありついた。そして、そこでみそめた少女がのちに私の妻となり、2人の美しい娘の母となったのである。

幸福な家庭生活が21年続いたが、父の若いときと同様、私も悲境におちいって、再び1人ぼっちになり、途方にくれたのである。

ときはまさに第2次大戦の最中だった。それで戦争完遂に一役買うため、私は或る工場に勤めることになり、1943年9月9日から対日戦勝利の日まで仕事を続けた。その間、祖国の勝利のために最善をつくそうと考えていた私は、給料の大部分を費やして国債を沢山買い込んだ。また、私は国債販売委員会のメンバーでもあり、会社内の各課で私が売ったところはいつも真先に百パーセントの販売成績をあげた。

1945年の7月に私は1人の婦人と知り合ったが、ひと目でこれこそ自分の妻たるべき人だと思い、10月6日に結婚した。妻の名はメリーである。

工場の仕事は単調だったし、私の神経はだいぶ参っていたので、気分転換にこんどは戸外の土建工事や機械の修理などの仕事がよかろうと思い、ビショップ・トンネル、フライアント・カーン運河、サンタ・バーバラ付近のコチャマ・ダム、プレタ・ハイウェイ・トンネル、ビショップ近辺のベントンにおけるステート・ハイウェイ建設工事などに従事した。のちには1952年7月から10月15日まで、ネヴァダ州グレンデール付近のネヴァダ砂漠で、第91ハイウェイの補修の仕事をした。そしてここで道路舗装車の運転手兼給水車の夜間修理工として働いているうちに、私はついに古今未曾有の驚くべき事件に出交わしたのである。

クラリオンの空飛ぶ円盤とその乗員の話を私から聞いた多くの友人たちの間には、さまざまの反響がわきおこってきた。親友たちは私が嘘を云わぬ人間であることを知っているが、他の人たちは私が精神病院で治療を受けたほうがいいのではないかと心配していた。この人たちの嘲笑と非難にたいして、私がなんとか堪えてゆけたのはいま述べた親友たちのおかげである。

ホワイティーとマリーのエドワーズ夫妻、それにキャシーとローラ、ラス・ヴェガスのブラッキー・グレグソン、オーヴァートンのウィルソン一家、ローガンデールのマーシャル一家、ユタ大学の休暇中に私と一緒に働いていたパーキンズ家の兄弟たち。この人々のあたたかい言葉や態度を私は決して忘れることはできない。リーベット一家の少年たちも私との話を覚えていてくれるだろう。さらに名をあげると、ティンバーライン・リッグズ・アンド・ソン商会の家族、飲食店のパーキンズ一家、私が飛行機検査の話をしたことのあるモルモン台地のアイヴァン・ジョーンズ・サーヴィス・ステーション、デーヴィス・ダムの工事中に泊っていたアリゾナ州プルヘッド市のオアシス・ホテルのマクスウェル夫妻、ホテルの主人ロス・フィンレイとその夫人ナンシー 、ブルヘッド市の雑貨店スミス一家、私がトラックのガソリン補給によく立寄っていたガソリン・ステーションのD・C・バック一家、アリゾナで働いている間に私が下宿していたトッド市の飲食店のポール・リチャードソンなどがある。

コロラド河のネヴァダ側にいるサーストン家の歓待、デーヴィス・ダムのチャック・マグギニスとメリー夫婦の友情、それにミリーのやさしい微笑と彼女の自作の歌「ノヴァコード・オヴ・クローライド」はいつまでも私の胸に残るだろう。いずれも私の苦労や私を信じない人々のことなどを忘れさせてくれたものである。

ウーディーとイーノスは台地で機械工と溶接工をしていたが、2人とも私を信じて協力してくれたので、私はほんとうに勇気づけられ、心のあたたまる思いだった。デーヴィス・ダムの職工では、電気工で巻揚モーター係のデールズと発電所の機械工チャックの2人の家族が私と親しくしていて、私の体験をくわしく知っている。労働者のなかには、最初は意地悪く私の"体験"をけなす者がいたのに、私がアリゾナを去る数週間前から私にたいして好意的な態度をとるようになれば、彼らの内心の変化をうかがい知るのも容易なことである。私は彼らの態度がかわったのを見て、非常に嬉しかった。最初会ったときから彼らを親友とみなしていたからである。

最後に―といっても重要でないというのではないが―アリゾナの友人たちのなつかしい思い出の中に、ニック・ローズの一家がある。彼はレインボウ・ヘイヴンというすばらしい釣場の持主で、プルヘッド市から1マイルほど南に住んでいた。ニックとその美しい奥さん、こ人の娘に孫息子たちは、終生忘れ得ないほどの厚意と協力を示してくれた。

もしあのアウラ・レインズ機長と乗員たちが円盤を彼らのすぐ近所に着陸させて、私の物語の真実性をはっきりと証拠だててくれるなら、私の祈りの1つがかなえられることになるのだが―。 

読者は、自分から奇妙な話を持出したために、友人たちが2派に分れ、ある者は自分を信じ、ある者は何の証拠もないからと疑ったり嘲ったりするようになっても、べつに不思議はないと思われるだろう。だが、信じる者もあるという理由を知りたいと思われれば、私はここで一通の推薦書の写しをお目にかけることにしよう。これは全国技術者組合第12支部の会計部長、ロサンジェルスのJ・R・ブルーム氏の書かれたものである。

トゥルーマン・ベサラム氏(登録番号第284207)は、1942年7月付を以て、全国技術者組合第12支部管下の独立技術者たる資格を有する。

当支部の記録によれば、氏は信頼すべき人物である。氏は機械修理に堪能にして、また優秀な熔接技術者であり、遠隔地域の仕事をも欣然として引受け、電気熔接機取扱と地取りに於ける高度の技術のため、使用者側の非常なる好評を得ておられる。

トゥルーマン・ペサラム氏の勤務を要求される方に氏を推薦するのは、私の欣快に堪えぬところである。

全国技術者組合第12支部 会計部長
J・R・ブルーム(署名)

関係者各位

この書状は1953年9月27日付のものであるが、私の正直、誠実、正気にたいして、グルーム氏が多少とも疑いを抱かれたならば、このような推薦書は書かれなかったであろう。

宇宙人との会見の体験について、私は各方面の科学者と率直に話し合った。着陸地点、11回におよぶ訪問で私が知り得た事柄、会談の内容などに関してである。それで、私の到達した結論と、科学者たちの見解を私なりに解釈して、その一部をこれからお伝えしたいと思う。

先ず第一に、地球に着陸しようというこの宇宙人たちの試みには、最初何らかの困難を伴ったらしい。そこで彼らはいったん自分たちの遊星に帰り、そこで円盤に必要な改装を行なったのである。この研究と工事には多分相当な長期間を費したと思われるが、多くの試みののち、やっと彼らは実際に地球の上空に停止したり、着陸して地上に足を踏み出したりすることが出来たのだろう。

こんな話をすれば読者は呆れてしまうかもしれないが、これはアウラ・レインズ機長の言葉をのちになってよく考えてみたり、多くの科学者と論観を交したりした上での結論である。

レインズ機長の言葉から想像すると、大型機(円盤)は私が最初に想像したような鋼鉄製ではない。1フィートもある厚い壁の中には、冷房や絶縁の装置が納めてあるようだ。始めの会談のとき、彼女は「あらゆる外部の影響から私たちは完全に絶縁されています」と云っているからだ。

だが数週間前、宇宙船に興味をもつ電子工学暑が知らせてくれたところでは、―これはアウラ・レインズ機長も云ったことがあるのだが―円盤の周囲の磁場が熱・寒冷・宇宙塵などを絶縁して、円盤を外部の影響から充分に護るというのである。たしかにその通りだろう。というのは、クラリオンの円盤の表面はいつも、よく磨いた鋼のようにつやつやと輝いていて、凹みや傷跡は全然なかったからである。

またあるとき、アウラ・レインズ機長は「円盤の調節装置は実にうまく作動します」とも語つったことがある。 

円盤の重量について、もし鋼板製ならどのくらいになるものかを論じ合ったが、私の会った科学者連は、反磁力または反重力を利用すれば、私たちの知っている重量というものは宇宙人にとって何の問題もなかろうということで意見が一致した。

ある会見の際のアウラ・レインズ機長の話では、大型機の外部は安定を増すために改装された由である。私の知る限りでは、円盤の縁は鋭くもないし尖ってもいない。鋭く尖った縁は、宇宙旅行の際のすさまじい高速を出すためにも、適当ではないのだろうとしか思えない。

これからお話する物語ではっきりすることだが、アウラ・レインズ機長の云うところでは、彼らが着陸した遊星はみな、どんな場合でも特別な補助呼吸装置は必要ないそうだし、また、航行中も機体の内部を自由に動きまわることが出来るとのことである。この説明の後半は私にも疑わしく思えたが、磁気の専門家に話したところ、宇宙を高速で航行中は、ちょうど私たちの地球上で屋内のテープルについているのと同じようなものだろうということだった。大型機の中では運動を感じることはないのだろう。

私は少し計算してみたが、彼らの大型機が地球のステンレス鋼と同じような材料で出来ていて、中までつまっているとすると、その重量は3万5千トンを軽く突破するかもしれないが、その厚みが外見上中空でない鋼壁と冷房・絶縁の装置を含むとすれば、重量はこの数字をはるかに下廻るだろう。私の見たところでは、周縁も出入口の部分も中空ではなかったようだ。

私の話し合った航空関係者―航空会社重役、操縦士、部品工場主、物理学者、電子工学者から組立工にいたるまで―は、1人残らず、反磁力または反重力による宇宙航行も可能だと云っている。だがこの人たちに会う1年以上も前に、アウラ・レインズ機長と乗員たちは、そのことを私に教えてくれたのである。

大型機、すなわち円盤の操縦は、目にも見えぬ耳にも聴えぬ信号でなされるようであるし、宇宙人たちは私たち地球人の目の前で、まるで魔法のように現われたり消えたりするが、ここで形而上学や本体論が問題となってくる。また彼らが大型機の着陸に適する広い場所から、明らかにずっと離れた地点にも、ときどき姿を現わす事実は、人体の空中飛行についてもいろいろと臆測の材料を提供するだろう。

私の体験を論じ合った人々のなかには、飛行中の円盤の周囲を当然とりまいていると思われる磁場はそれ自体が絶縁物になると云う人があるし、またこの磁場は有害な放射線や隕石、宇宙塵などから円盤を保護するだろうとも云う。

バローマー・ガーデンの有名なジョージ・アダムスキ氏は、私も聴いたのだが、その講演中に、金属製の宇宙機・ロケットその他光に近い速度で空間を飛行するものは、この磁力なくしては、すべて空間に浮遊する物体と接触して、金剛砂をかけられたように磨滅してしまい、とても月や遊星に到達することなど及びもつかぬと述べておられた。これでは宇宙旅行も不可能だが、第一、その際に発する音響だけでも宇宙機の乗員には堪え難いものだろう。

カリフォルニア州ロサンジェルスのマグネット・セールズ社のモーリー・キャッチなる方が、米国で知られている磁石及び電磁石とその限界などに関して、左の如き懇切な説明を寄せられたことがある。

1.基本的な特許は1社または極少数社が独占していること。
2.この基本的な特許を使用して磁石を製作出来るのは、米国では8社に限られていること。
3.これら各社の知る限りでは、磁気は電気とちがって容器にたくわえたり思いの方向に流したりすることは不可能であること。

以上の項目を考えていただきたい。これではまるで自動車のメーカーが次のような宣伝をしているようなものではないか。

このたび素暗しい自動車を新発売しました。今までの設計中で最も強馬力、最も優兼、最も経済的であり、しかも価格は手頃です―ただし動くかどうかは保証出来ません

これはもっと研究する必要があるのではないだろうか。宇宙旅行中継基地とか火星などに関して、2、3の記事が最近ロサンジェルス・エグザミナー紙に掲載されたが、しかしどの記事をとりあげても、土建業者ならひと目で、この筆者が如何に科学知識に欠けているかがわかるだろ―。「火星上で多数の鉱夫を必要とするようになるかもしれない。その遊星で500マイル立方に及ぶ花尚岩を蓄積し、火星上には存在せぬと考えられる酸素を化学的に生産して、生命を維持するためにである」というのだ。

私は鉱山地帯で生まれて、多くのトンネル開発工事で働いてきたが、スエズやパナマの運河工事をも含めて、有史以前からのあらゆる性質の工事で掘出した材料を集めてみても、この火星上の大計画に及ぶとは考えられない。明らかに不可能事だ。

だが、見かけ上は不可能な事柄の話に戻ったから、私も自分の驚くべき体験の語を続けることにしよう。国の内外を問わず、一度ならず11度までも空飛ぶ円盤を実際に見て、その乗員たちと会って話をしたのは、私の知る限りでは、私一人なのだ。

 トゥルーマン・ベサラム
(大型機の着陸地はモルモン台地の北緯37度0分、西経115度12分の地点である) 

訳者あとがき

著者トゥルーマン・ベサラムは訳者に二度ばかり手紙をくれた。最初が1957年7月30日付のもので、それによると彼は最後の11回目の会見以後、1955年12月1日及び5日の両日にアリゾナ州プレスコットにおいて再び宇宙人アウラ・レインズと会見したが、その際彼女から世界平和確立の運動の基一盤として"サンクチュアリ・オヴ・ソート"と呼ばれる殿堂を建設するようにとの提案を出されたので、現在同地にこれを設立準備中であるとのことであった。

説明によると、これは人種・国籍の如何を問わず万人を歓迎して、平和のための祈りや心の浄化を行なう場所であり、献身無我の気持で互の融和をはかる聖堂であって、利益なしに経営されるものであるという。

そして、この手紙と共に"クラリオンの声"と題する詩集を送ってくれたが、これはアウラ・レインズとの遠隔精神感応によってベサラムが記録した詩であるということで、その大部分はベサラムの体験記の要約みたいなものだが、なかに数篇の祈りの詩が含まれている。1957年9月17日付の第2回目の手紙は訳者の翻訳権要請にたいする許可状である。

なお、最初の手紙では、1955年12月のアウラ・レインズとの再会の模様などを伝えたらしい書きおろしの原稿「事実に直面して」を引続いて出版する旨が付記してあった。しかしクラリオンを訪問したということが述べてないところをみると、まだ彼の宇宙旅行は実現しないと思われる。

トゥルーマン・ベサラムの体験については、ジョージ・アダムスキの「空飛ぶ円盤同乗記」の序文のなかで、アダムスキの協同研究者デスモンド・レスリーが簡単な紹介記事を書いていることは読者も先刻ご承知だろう。アダムスキの会った宇宙人というのは太陽系中の比較的地球に近い金星、火星、土星などから来た遊星人であるが、これらはみな地球人によく似た肢体をもつ人間であって、地球人の間に混ざっても見分けがつかないくらいだと云われているのに反し、ベサラムの会った宇宙人はいわば小人であるという説明が両者の体験記中の宇宙人に関する記事の内容の主な相違点である。

その他の記述、たとえば円盤の推進力に磁力を利用することや、如何なる遊星にも地球人と同様な恰好をした人類が生棲しているのだという宇宙人側の説明は両者の記事を比較してみると大体一致していることからみて、彼ら二人の間に何らかの通謀があったか、もしくはどちらか一方が剽窃したのではないかという疑念を抱かれる方もあるかも知れないが、実は宇宙人に会ったと称する人はこの二人だけではないのである。

フランスの円盤研究家ギユーの紹介によれば、1950年7月23日夜11時頃、パリから12マイル離れたギーヤンクールのクロード・ブロンドーという人が、突然空港付近に着陸した2機の円盤から二人の人間が出て来て、地上で付属品の修理作業をやるのを目撃したという。そのとき彼はドアーの開かれた入口から内部を覗いてみたが、機体内の光景はアダムスキが乗ったという金星の円盤の内部の情景と酷似しているし、また、1954年2月18日に北スコットランドに着陸した円盤の搭乗員に会い、手真似で話し合った結果、この人間が火星人であることが判明したという英国のセドリック・アリンガムの体験記は、アダムスキのそれに劣らぬほどセンセイションをまき起した。

1956年4月7日には、南アフリカのドラーカンズバーグ山脈の麓ナタール地方に住むエリザベス・クラーラという婦人が、自宅付近の丘に着陸した円盤に招じ入れられて上空を飛び、そのあいだ金星人である二人の乗員と語り合ったという事件が発生したと、南アフリカ、プレトーリアの円盤研究家エドガー・スィーヴァーズが伝えている。彼女の会った金星人たちの、月や金星に関する説明は、アダムスキの会った金星人たちが語る内容と全く符合しているが、ただ違うのは、彼女が乗った円盤はアダムスキやアリンガムの撮影した円盤に見られるような半球状のドームのかわりに、平たいドームの付属した円盤であって、しかもクラーラは円盤を降りてからこの写真を撮影することができたということである。この体験記はすでにスィーヴァーズの手によって刊行されている。

少々古い話になるが、ウェイルズのカーディフの住人ライスブリッジという男が、1909年3月18日の夜11時半頃、山中で魚雷型の宇宙機とおぼしき物体が着陸しているのを目撃し、その傍に立っていた二人の人間から意味不明の言葉で話しかけられたが、やがて二人はその機械に乗って音もなく飛び去ったという事件もある。この種の体験記は今や世界各国で次々に発表されているので、円盤研究家のあいだでも事の真偽をめぐってすさまじい論戦が展開しているのだ。しかし円盤すなわち宇宙機(正しくは未確認飛行物体、略してUFOと記し、普通はこれをユーフォーと読む)というやつは、どうも昔から世界各地で発見されていたらしいことはレスリーの詳細な研究によっても明らかだが、多くの円盤研究書でもその事実を詳述している。しかし少し調べてみればわかることだが、円盤を見たという報告はどういうわけか特に戦後から世界中で頻繁に行なわれるようになって、現在ではもう珍らしい事件ではなくなってしまった。

▲ステイーヴン・ダービシャー
▲ステイーヴン・ダービシャー

低空で飛翔する円盤を掃影した写真もザラにある。アダムスキは別として、例を挙げれば先ず有名どころで英国ランカシャー、コニストンのステイーヴン・ダービシャーという十三歳の少年が、1954年2月15日に上空から突如降下した円盤を自宅の裏山で安物のコダックカメラを用いて撮ったのだが、この円盤はアダムスキの撮影した円盤と同じものだと主張しているのが英国宇宙旅行協会会員のレオナード・クランプで、彼の著書「宇宙・引力・空飛ぶ円盤」のなかでこの両方の写真を徹底的に比較検討して、われわれが宇宙旅行をなすための究極の鍵はこの空飛ぶ円盤の解明にあるのだと彼は云っている。

その他、アフリカの南口ーデシア、プラワヨでバーニー・ウェインの撮影した円盤写真、マサチューセッツ州セイラムの沿岸警備隊員シュル・アーパートの撮影した写真などは代表的なものだろう。まだ他にも数件の撮影例がある。また、昭和32年9月14日の国際空飛ぶ円盤観測日に羽田空港で行なわれた夜間観測会で、7回にわたって不思議な未確認飛行物体が空中を飛ぶのを多数の出席者が目撃するという事件が発生して、人々を驚かせた。世界中のこのような目撃例を集めれば、ぼう大な書物ができ上るだろう。

円盤とは何かという疑問にたいしては、これは地球以外の遊星から来る飛行物体であるというのが現在の定説であって、そうなると他の遊星にも人類が生棲しているのかということになるが、天文学上よりこの問題にたいする裏書きとしては、米国の有名な円盤研究家ドナルド・E・キーホーが興味ある事実を挙げているので、次に紹介すると、1953年7月29日の夜、ヘラルド・トリビューンの科学記者ジョン・オウニールが望遠鏡で月面を観測中、"危機の海"に巨大な橋が出現しているのを発見してただちにこれを発表したところ、多数の天文学者から猛烈な攻撃を蒙った。しかるに間もなく彼らは沈黙した。というのはそれから約一カ月後すなわち1953年8月に、英国の天文学者H・P・ウィルキンズ博士が月面を観測中この橋を発見した旨を公表したからである。

その翌月、今度は英国天文学協会の指導メンバーであるパトリック・ムーアが同様の報告を行なった。ウィルキンズの説明によれば、この"橋"は全長20マイル、高さ5000フィート、巾1.5マイル乃至2マイルもある大アーチで、明らかに人工的なものだという。このニューズは同年12月23日に、BBC局のラジオ解説者バーナード・フォーアズと会見した際の会談録音と共に歴史的な放送によって英国内に伝えられたが、まもなくこの"橋"は姿を消したという。

その他、月面に不思議な閃光が発見されたという観測報告は、英国の月理学者ルドルフ・M・リサバートを始めとして多数の天文学者から提出されているし、特にプラトー噴火口に出現する光体の活動に関して1800年代の観測記録がおびただしく残されている。そこでこれらの事実からみて月面をすでに宇宙人が基地としているのではないかとキーホーは臆測しているのであるが、サン・ディエイゴウのミード・レイン博士はそれを確信している一派の指導者である。

久保田八郎
▲訳者、久保田八郎

ところで、円盤は存在しない、それは幻覚もしくはなにかの自然現象にたいする誤認だと説く派もあって、その筆頭としてはハーバード大学のメンゼル博士を挙げる必要がある。メンゼルの著書「空飛ぶ円盤」には豊富な図解と写真を掲げて、円盤とおぼしき光を室内実験でつくり出し得る例証を彼は数多く提出しているが、これにたいして、メンゼルは自分の説で説明し得ると思う証言しか認めない人なのだと彼の否定説に駁論を投げているのはフランスの円盤研究家ミシェルである。なぜなら米国の偉大な天文学者で冥王星の発見者として知られるクライド・トンボ一博士でさえも、1949年8月20日の夜、自宅上空に出現した不思議な葉巻型未確認物体を目撃し、その報告をメソゼル宛に送ったにもかかわらず、メンゼルがそれを握りつぶしてしまったからである。今はメンゼルの説も消えつつあると云ってよいだろう。

また、円盤は地球を狙っているのだといって、これがなにか怖ろしい物であるかのような説をとなえているのが、英国の研究家H・T・ウィルキンズ(天文学者のウィルキンズではない)であるが、彼の著者には独断と偏見が多くて、あまり信用できない点がある。一方、米国のルッペルト大尉の研究などは相当な科学的観察眼によってなされたのものではあるが、まだこれというポイントはないようだ。

1947年6月21日、米国の実業家ケネス・アーノルドが自家用飛行機でワシントン州レイニア山脈付近を飛行中、燦然たる9個の円盤を発見して一騒動起して以来ずっと世界各国で無数の円盤目撃談が報導された。日本でも戦後しきりに新聞の紙面を賑わしたことはわれわれの記憶に新しいところである。また、各地における少なからぬ宇宙人会見談の発表などからして、他の遊星にも人類が生存しているのだという説もぼつぼつ真面目にとなえられ始めた。ところが、この遊星人なるものは物質の肉体をもつ人間ではなくて、その実質はエーテル的なもの、霊的なものであり、地球の大気圏内に入ってから必要に応じて物質化し、可視的になるのだと説く人もある。これにたいして、英国の円盤研究誌「フライイング・ソーサー・レヴュー」の1957年9月号に掲載されたジョージ・アダムスキの『空飛ぶ円盤対超自然力』と題するきわめて意味深長な論説によると、他の遊星に住む人間及びその乗物である宇宙機(円盤と葉巻型母船類)は絶対に"霊"ではなく、遊星人はわれわわれと同様に肉と血液から成る肉体をもつ現実の人間であり、円盤もまた固い金属で出来た物体であって、その推進力は"磁力"の利用によって得られ、しかも、特殊な"状態"を磁気的なものでもって機体の周囲につくり出しているが故に想像を絶した速度で宇宙を航行出来るのだと述べており、そして、宇宙人を霊魂とみなすようなエセ神秘主義を極力排して、科学的見地からこの間題の究明に当らなければならないと結んでいるのは注目に価する。

さらに、この太陽系中の各遊星人は地球人にたいして非常に友好的であるが、他の太陽系中の人類で地球を攻撃するものがあるかも知れないから、その場合には隣接する諸遊星の人類の友情と援助がわれわれにとってこよなき価値を有するものになるだろうと付け加えている。またアダムスキが1957年4月5日付の手紙で訳者宛に連絡してくれたところによると、1956年10月現在、南米の某国(二カ国の名が明記してあった)に木星人、海王星人を含む多数の遊星人が居住し、分裂した地球の救援にひそかな活動をつづけているとのことであった。

円盤や宇宙人にたいする多くの目撃談のなかにはいかがわしいものもあるだろうが、事実の報告も行なわれているにちがいない。背後に"何か真実なもの"がひそんでいなければこのような目撃談はそう容易に拡まらないだろう。そして、アダムスキやベサラムの場合は、"握造は必ず暴露される"という法則をみずから実証したスカーリーの例などを充分にわきまえた上での発表であるにちがいないと思われる。彼らがでっちあげによってスカーリーの二の舞を演じるような愚かしい悪らつな人間であるとほ考えられない。

ジョージ・アダムスキの円盤目撃、宇宙人との会見の体験については「空飛ぶ円盤実見記」及び「空飛ぷ円盤同乗記」(いずれも高文社刊)を一読されることをおすすめする。またミシェルの「空飛ぶ円盤は実在する」(高文社刊)も読者に豊富な知識を与えるだろう。海外では円盤関係の著書が多数出版されているが、残念ながら日本では高文社より数冊の訳書が出されているだけである。

本書の刊行に際して絶大なお世話になった高文社の岸義信氏と佐野文哉氏に深甚の謝意を表する次第である。また、訳出にあたって激励の言葉を寄せられた次の方々にあらためて厚くお礼を申し上げたい。そして、翻訳中終始あたたかい御指導と御協力をたまわった友人の航空機研究家増野一郎氏には感謝の意をあらわす言葉を知らないほどである。

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