科学誌における最近の投書を見ると、多数の読者はアインシュタインの相対性理論やその一連の理論よりももっと"やわらかい"理論を求めているらしい。アインシュタインの見事な計算や理論が誤っていると言う人は少ないが、それにしても一般人には理解しにくいのである。
アインシュタインの理論の"心像"を描くことは一般人にはできない。この理論が心像を描かせるような形になっていないからである。新型飛行機のテスト性能表を見れば、その飛行機の性能について多くを知ることができる。しかし数字だけではその機体の型が美しいか不格好かを想像することはできない。
アインシュタインの理論は時代を先走りすぎた。たとえば物体がその運動の方向に沿って短縮するということを証明した正確な計算は、その短縮が起こる理由が説明されないうちは場違いであるように思われるのである。
今までにあまり多くの数学的なはめ絵パズルがあったし、たぶん正しいものなのだろうが多くの公式が作られてきた。しかしそれらは知識人に対してさほどの意味もなしに、ただそれだけで存在しているのである。
この実験は地球がエーテル中を運動する速度を発見することを目標としたものである。(注=光の媒質としてエーテルを想定し、地球の公転運動の方向とこれに対して垂直な方向とで光の伝播速度が変わることを確かめようとして、1886年に米国の実験物理学者マイケルソンとモーレーが第2回目の実験を行なった。この結果光速度に差のないことがわかり、エーテルの存在が否定され、相対性理論が生まれる契機となった)
科学者は弾性体から希薄なガスに至るまでエーテルの理論をあてはめて考えてきた。もしエーテル中を通過する地球の速度が決定できるものとすれば、地球が黒砂糖のようなかたまりの中を骨折って進んでいるのか、それともニオイのような希薄な微妙な物質の中をただよっているのかを知る手がかりとなるだろう。
このマイケルソン=モーレーの実験、または似たような実験を信頼している人は、エーテルとはガスのような3次元物質であるというふうに考えているが、これは誤っていると思う。エーテルが物質であるとすれば、その中を地球が進むにつれて、測定可能なエーテルの渦巻ができるはずである。
マイケルソン=モーレーの実験の結果、エーテルは存在しないし、存在したとしても地球はその中を動いてはいない、ということがわかった。だがこの結論はどちらも疑わしいもののように思われる。観測されるあらゆる天体が動いているのに、地球が空間に静止しているわけはない。また、エーテルが存在しないというのは考えられない。というのは、空間を光が通過する現象を他に説明しようがないからだ。
以上の実験結果のいずれも好ましいものではないので、後述の部分でマイケルソン=モーレーの実験は実際には肯定的結果を出したこと、空間を進行する地球の運動方向における測定棒は、見かけ上の長さから肯定的結果を抹殺するのにちょうどよいほどの量だけ短縮したということを述べておく。ポイントはもちろんあらゆる物質は進行方向に対して短縮したということであった。この考えられる短縮はマイケルソン=モーレーの測定棒に限られたものではなかったのである<ローレンツ短縮>。 (注=ローレンツ短縮は、オランダの物学者ローレンツが1892年に出した、高速で動く物体は運動方向に短縮するという理論)
一見してローレンツ短縮は作られた不自然な理論のように見えるが、この関係式を研究した人はこの短縮が実際に起こるものとして認めねばならないことに同意されると思う。
統一場理論がローレンツ短縮の起こる理由を示している。
近頃、物理学界で示されている関心のおかげで、私はこの問題に影響を与える理論のアウトラインを出すことができた。この理論はアインシュタインの各理論によって導き出される現象が発生する理由を説明するものである。大体、「時間とは何か」「なぜそれが遅れるのか」が説明されないで、宇宙空間を進行するときには時間が遅れるとか、進行する速度にくらべて時間がどれくらい遅れるとかを教えられるのは納得できないことである。
以下の説明はかなり独断的で極端に簡単に述べたもので申し訳ないが、この理論のアウトラインのみを書くことにとどめた。
この理論は、物理現象において研究をすすめれば次々と一体性を発見するという事実の究極の結果をまず論じるものである。人間は、全宇宙に一つの基本的な構成材料の存在することが遠からず証明されることを予期してよい。私はこの理論を完全に証明できる充分なデータを持っているとは言わないが、この予測は紀元2000年までに証明されるという徴候は多くある。
私がここに持ち出した理論は、エーテルと宇宙空間は同じものであるということ、空間は超高周波数の波動のグリッドによって―たぶん10のマイナス13乗センチメートル以下の波長であろう―"無"から形成されている、ということなのである。宇宙空間は"無"とは区別されねばならない。空間は―それがカラッポであるとしても―長さ、幅、厚さ、時間などの性質を持っている。"無"はこのような性質を全然持たず、いかなる物質も波動をも維持できない。言い替えれば、宇宙の創造は"無"から空間を作るというかたちをとっているのである。そして空間を作るために用いられる手段は放射線の網またはグリッドなのであり、私はこれを"創造波"と呼んでいる。
"宇宙"は万物を創造する空間であるという意味にとれば、宇宙の境界の外側には何もないことになる。外側に無限の空間が広がっているという宇宙の境界の存在説は起こりようがない。"無限の宇宙"というのは表現に矛盾がある。宇宙は容積、境界を持つのであって、無限であるはずはない。
創造の手は宇宙の境界の外側にある"無"にまで触れてはいないのだ。その"無"は容積を持たず、それゆえに境界もないのである。
これを別なふうに説明すると、宇宙空間はブラスの創造物であるが、一方"無"は空間の存在しない状態であるから、完全にマイナスである、ということになる。
人は種々の明白な理由により"無"を心に描くことはできない。これは認める必要がある。もしだれかが"無"の状態を人間の体験と結びつけようと思えば、その人は空間と時間について持っていたものよりも、"無"についてもっと多くの何かを持っていたと言えるだろう。それは本人が生まれる前に体験したか、または(この世で)体験しなかったことである。
宇宙空間またはエーテルは、一つの源泉からあらゆる方向に放射される創造波によって形成されている。この波動のいずれも源泉から出てまた源泉へ返って行く回路にしたがっている。そして各回路はたぶん同じ大きさである。こうして球型の形をした境界を持つ宇宙が作られ、宇宙内にどのような位置が占められようと、創造波はあらゆる方向に進行し、源泉へ向かうのである。
"源泉"という言葉によって、私は創造波が各回路で一方向のみに作用すると言うのではない。その作用は交流的なものかもしれない。
周波数がどのようであろうと、目に見えようが見えまいが、検出できようができまいが、あらゆる放射線は創造波の変形である。これは高周波電波が音楽の旋律によって変調されるのと似ている。
電波の搬送波が多くの個々の音によって変調されるのと同様に、エーテルも異なる周波数をもつ各種の波動を等しい2点間に伝えるのである。
放射線または変調波は、常に3次元の物質の干渉によって引き起こされるように見えるだろうし、他のこのような物質に出会う場合に起きる結果にすぎないように思えるだろう。だが放射線が空間を進行するとき、それは創造波のわずかな変調または干渉にすぎないのであって、重要なことではない。
原子はあらゆる固体、液体、ガスの構成物質である。そして各原子は周囲に電子が回転している原子核から成っており、原子核と電子との距離は原子の種類によってさまざまである。私は原子というものは基本的には固体ではなく、3つの次元における創造波の変調されたものから成り立っていると思う。変調波は通常その源泉から創造波の源泉を目指してあらゆる方向に進行する放射線であるが、原子を形成する変調波の統合されたものが3つの次元内にいっしょに閉じ込められているのである。この"閉じ込め"のために各変調波が放射線として勝手な方向に進行できないのである。原子エネルギーの解放が、原子と放射線間の密接な関係を示してはいないだろうか?
私が指摘したい主要点は、放射線と原子はいずれも創造波の変調波であるということである。前者は単一の変調波であり、後者は複合した静的な変調波である。
ある点で、原子はなめらかに流れている水流の中へ棒を突っ込んで起こす波紋にたとえてよい。原子は見かけ上は同じ状態のように見えるが、実は絶えまなく変化する媒体から形成されつつあるのである。これが正しいとすれば、宇宙はくまなく同じ媒体から作られていることになる。そして地球と火星間がカラッポのように見えても、そこに実際には連結媒体が存在するということになるのである。
時間というものは創造波の振動が人間の心に与える影響であると思う。我々の脳や体を作り上げている原子群は創造波から作られたものであるとすれば、創造波の交流に気がつかないわけにはゆかない。我々は空間から逃げ出さない限り、言い替えれば存在することをやめない限り、時間からのがれることはできない。
我々は空間内の一定位置から時間内の前後を見ることは不可能である。もし我々が光速で進行して"時間について行く"とすれば3次元的な存在ではなくなり、観察はできなくなるだろう。いずれにせよ、自分が空間内の異なる場所にいることになるだろう。それで我々は未来に起こることを予見できないし、過去に起こったことを見返すこともできないのである。
(7)時間の交流性
もし我々が非常な高速で進行するとすれば―光速に比例して―進行方向における創造波の周波数は増大するだろう。これは創造波の振動に対して相対的に進行しているからである。そうなると、自分の基本的時間の周波数が増大するという結果によって、ドップラー効果に似た何かが起こると考えられるのである。 (注=ドップラー効果は、オーストリアの物理学者ドップラーが発見した現象。波動の源に対して相対速度をもつ観測者が測定する波の振動数はその相対速度によって異なるという現象で、音のドップラー効果と光のドップラー効果の2種類がある)
我々はこれを(ドップラー効果に似た現象の発生を)知覚しないだろう。なぜなら創造波の周波数は我々の唯一の時間基準であり、この基準を測定するための対照物が近くにないからである。しかし静止している観測者は、光線によって、自分の時間と他人の時間のあいだの相違を算定できる。相手は「おまえの時計は私の時計に比べてゆっくり進んでいた」または「おまえの基本的時間の周波数は私の時間の周波数よりも速かった」と言うだろう。
時計の時間というものは基本的時間の振動の数をかぞえる人間の手段である。たとい基本的な時間の周波数が増大しても、時計の時間はやはり現在のままの100万パルスまたは200万パルスを打つ。そして時計の時間は進み方が半分になったように見えるのである。
人間が宇宙船に乗って高速で宇宙旅行に出たとすると、地球を出発してから20年を要しながらも1、2歳しか年をとらないのだと考える人もある。だが、これを基本的な時間空間を応用して計算すると、体におよぼす影響や心に与える印象は、地球時間の20年分のそれに相当し、このきわめて不便な方法で永遠の若さを楽しむことはできないことがわかるのである。
1個の原子が創造波に沿って運動するとすれば、前述の増大した周波数は創造波のより短い波長を生み出し、このために原子の大きさは進行方向に沿って短くなる。
簡単に言えば、物体の物質の長さは創造波の波長によって決まるのであり、一方、基本的時間は創造波の周波数であると思う。そうすると、「波長×創造波の周波数」は、物体がどのようなスピードで進行しようとも不変なままにある。これは周波数が増大するにつれて波長が減少するからである。物体の長さと基本的時間によってできる産物は、その物体の速度の影響を受けない。そして時間と物体の大きさの概念を我々の心に与えるのはこの産物なのである。
創造波は「存在」または「存在の可能性」を与える。そして時間と空間はその与えられたものの1分割である。分割がどのような大きさでなされようとも、全体は不変のままである。
次のように言う人がある。「『光はそれを伝えるエーテルなしに空間を進行する』という説を認めがたいのと同様に、創造波が"無"を通って進行するというのは信じがたい」
私の回答は次のとおりである。この理論は、創造波は偶然に空間を生み出したのではなく、永久的に生み出したということである。すなわち創造波の起因は放射線の起因のように偶然なものではない。この理論は、いわゆる放射線と物質は偶然的なものであり、創造波の一時的な変調波または干渉であるという説を打ち出したものである。懐中電灯にスイッチを入れようとするたびに特別な創造作用が必要だということを考えるのは不合理に思えるかもしれない。
しかしスイッチを入れる人はその動作によって、永久的に存在する創造波をわずかに変調し得るのであり、その結果可視的な光という一時的な現象が発生するのである。
空間に2つの物体が存在すれば互いに引っ張り合うという説は一般に認められている。私はこの説は誤っていると思う。一つの物体が別な物体を引っ張るような放射線を出すことは不可能である。
また放射線以外に引力を持つ別な物も存在しない。放射線はその進行方向にある物体にわずかな圧力をかけるが、引っ張ることはしない。
別な理論によると、重力は増大する速度のために発生するという。そして速度が絶えず増大しながら上昇するエレベーターによくたとえられる。このエレベーターに乗っている人がエンピツを手から放すと、その人にとってはエンピツがエレベーターの床に落ちるように見える。そしてその人はエンピツが床に引き寄せられたと考えるかもしれない。これが正しい理論だとすればなぜ重力は一方向以上に作用するのだろう? これに答えるには、私にとって、きわめてもっともらしい修正を要する。
一体性理論では重力を、創造波の源泉へ向かう放射線の自然な進行の物質的な現われとみるのである。原子を形成している変調波(複数)がしきりと分裂したがり、3次元的な束縛を破ろうとし、S極の方へ向かう普通の放射線のように、あらゆる方向へ進行したがるのである。
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▲第8図 |
第8図のaを見れば、Sは創造波の源泉をあらわしており、円は一本の創造波の回路をあらわしている。xは図で示される創造波の中間変調によって形成される原子の位置をあらわす。他の面にも創造波群があるのだが、図ではあらわせないし、もちろん一定の比例で描くこともできない。
いま放射線として作用し、AとBと他の次元とを通ってSへ進行しようとするxの動きはxの3次元的な力によって消される。創造波の変調波群はAとBにおける実際的な目的を目指して出発するが、xが与えられるまでは他の次元に存在する変調波群と結合しない。光線の形をとっているこれらの予備的な変調波をこれからは"延長変調波"と呼ぶことにする。そのなかには測定できる周波数もあるし、あまりに高周波であるために測定装置にかからないのもある。
さて、xは干捗を受けない限り、やはり空間にとどまっている。Aを通ってSへ行こうとする傾向は、Bを通ってSへ行こうとする傾向によってバランスがとれている。他の面を通ってSへ行こうとする傾向もバランスがとれている。しかし第8図bに見られるように、もしyの地点で(xの延長変調波が実際的な目的で消えてしまうまで)別な原子が作られるならば、xの延長変調波はxとyのあいだで干捗を受けてアンバランスになる。Aの方向にあるxの延長変調波は変わらない。そうするとxAとxBはバランスがとれなくなり、そのためにxはyの方へ移動する。yもニュートンの諸法別に従ってxの方へ移動する。
xはyの方へ動くけれども、それはyによって引っ張られたのではない。これは太陽の光が地球に引っ張られるのではないと同様である。(ここで私は1物体と1放射線間の、ほとんど無視してよい重力は無視するものとする。太陽の光が地球へ向かって進行する理由は、光と地球間の相互の引力のためではない)xはyを通ってSの方へ動いて行く。
1個の磁石のN極が他の磁石のS極を引き寄せたり、別な磁石のN極に反発したりするような放射線を放射することはあり得ないと私は思う。磁石の進行方向は別な磁石にあるのではなく、S(源泉)の方である。鉄の原子群のなかには整列されているか、または整列され得るものもあるので、延長変調波群はすべての次元で同じではない。このシンメトリーの欠如は電気的な手段によって修正することができる。強力な重力場から除かれた1個の磁石がひとりでに空間を移動することは充分に考えられる。地球の表面または付近にある磁石は地球の重力場のために動けない。すなわち、ひとりでに空間を移動することはできないのである。もし磁石Aの逆な極か鉄片が磁石Bの近くに置かれるならば、見かけ上の吸引現象が起こる。しかし実際に起こるのは重力に似た現象である。磁石Aは磁石Bか鉄片に接するまではSの方に動く。磁石の強さは、たぶん磁石の中に含まれている原子の数によってきまるのだろう。これが延長変調波をアンバランスにしたのであり、各原子中のシンメトリーの欠如の度合を不変なままにしているのである。
電気は延長変調波の全般的な干捗であると私は思う。
真の空飛ぶ円盤―観測者の空想の産物でないもの―は、円盤で運ばれる物質の延長変調波をアンバランスにする原理に基づいている宇宙船である。
ここで疑問が起こるだろう。
「時間空間内におけるこうした諸変化はほんとうに発生することなのか?」「発生するだろうと信じられているだけではないのか?」この答は次のとおりである。
私や読者やその他すべての人に関係があるのは、創造波の周波数と波長の影響をあらわす「基本的時間×長さ」なのである、と私は思う。自分の眼前の現象が絶対的であるかどうかを判断する場合、我々は「時間×空間」でもって「時間と空間」を割ることには関係はない。ラジオで放送される音楽を聞こうとする場合に、その番組が波長500メートルの搬送波で伝えられるか1000メートルの搬送波で伝えられるかは、問題ではない。受信されるという事実そのものの差を知ることは不可能である。そうすると、ほんとうの差というものは存在しないのだと読者は言うかもしれない。
だが番組そのものよりも番組を聞きとる"方法"に興味をもつエンジニアは、番組によっては500メートルの波長と600キロサイクルの搬送波を変調して伝えられるのもあれば、別な番組ではこの2倍の波長と半分の周波数の搬送波で伝えられるのもあるというふうに言うだろう。しかしラウドスピーカーから流れ出る番組を聞くだけで、それ以上この問題に深入りしようとしない一般聴取者にとっては、どの番組にしても結局は同じように聞こえることだろう。
そこで要約すれば次のように言える。
「時間と空間内で現実に変化が発生するけれども、『変化の領域内に生きている1人の人間によって観察される』という意味においては、その変化の発生は絶対的ではない。なぜならその人は、ラジオの搬送波の波長や周波数を測定するエンジニアとちがって、基本的時間または基本的な長さを測定する手段を持たないからである」 |