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▲海で戯れる人魚の一族。人魚伝説は世界の各地で見られる。 |
海牛の中でもとりわけジュゴンは、遠くからチラツと見ると、角度によっては、いかにも人間に似ているから、誤認されることも多いだろう。
しかし、人魚にまつわる数かぎりない物語をすべて、ただの伝説や誤認としてかたづけることにはかえって無理がある。たとえ古くからの言い伝えでも、あるいは人の口から口へと伝わるあいだに誇張された話でも、そこには何かの真実がかくされている場合が多いのである。
少し古い資料をひもといてみよう。わが国には今から1000年も前の10世紀に編纂された辞書に 『和名抄』 がある。そこにはすでに 「人魚は人面の者なり」と記されている。
鎌倉時代、橘成季(たちばなのなりすえ)が書いた説話集に『古今著聞集』があるが、ここには、人魚らしい死体が常陸国(現在の茨城娘) の浜辺に漂着したと書かれている。
時代が下がって江戸時代になると、イラスト入りの百科事典とでもいうべき『和漢三才図絵』が現れる。すでに人魚の項目は確立しており、女性(メス?)の人魚の絵まで掛かれ、「腰より下はみな魚なり」という説明がついている。
もちろん、人魚が語られ、目撃されたのは日本だけではない。ヨーロッパ、アジア、アフリカ−文字どおり世界中である。ただ、洋の東西を問わず、人魚には一定のイメージがついてまわっている。顔はたいてい美しい女性で、海草の色に似た長い髪をたらし、豊かな乳房と魚の下半身を見せながら、うれいに満ちた顔で波しぶきをあびて岩の上から遠くの海を見つめていたりする。
この辺はやはり、本来ロマンチックな世界を好む人間の願望の産物というべきかもしれない。
しかしやはり、われわれは事実に関心がある。人魚と呼べるような生物がほんとうにこの世界にいるのか、あるいは過去にいたことがあるのだろうか。
■マナティー |
■ジュコン |
■海牛 |
海牛目の一種。カリブ海、アマゾン川、アフリカ西岸の淡水域など大西洋の熱帯−亜熱帯地域に生息。牙をもたない点てジュコンと見分けられる。ジュコン同様、憶病で不活発。 |
牛目の一種。体長約3メートル。
オーストラリア北部、インドネシア、インド、マタガスカルまてのインド洋、太平洋海域に生息。肉が不老長寿の薬として乱獲され減少している。 |
水中に生息する哺乳類の一種。体全体は紡錘(ぼうすい)形で、ひれ状の前肢とクジラのような尾びれをもつ。性格は憶病で不活発。そのためつかまりやすく数が減少している。 |
●イギリス人船長を見上げていた人魚
17世紀のイギリスの有名な航海家にヘンリー・ハドソンという人物がいる。彼はある時期、北西航路を開拓していた。1624年6月15日の夕方、北極海のノバヤゼムリア島(現在のソ連の沖合) の近くで船員のトーマス・ヒルズが人魚を発見した。これはハドソンの航海日誌に記されている話だ。
「おーい、みんな出てこい。人魚がいるぞ!」
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▲上/ボルネオ沿岸で捕えられた人魚の絵。
下/19世にに日本で作られた”人魚のミイラ”。サルの上半身と魚の尾をつなぎ合わせた物。 |
叫び声を問いて船員が1人、甲板に上がってきた。ヒルズの指さす方を見ると、1頭の人魚が船のすぐそばまで近づき、彼らの方を見ている。人間をふしぎな生きものとでも思っているように、好奇心に満ちた目つきをしている。まもなく大きな波がきて、人魚は腹を見せながら1回転し、海中に消えてしまった。このときの人魚は、上半身の皮膚が白く、顔は人間の女にたいへんよく似ていた。黒い髪が後ろにたれ下がっていた。海中にもぐるときに下半身が見えたが、それはイルカの後足に似ていたという。
17世紀にはもう1つ、くわしい目撃記録がある。やはりイギリス人の船長でリチャード・ウィットボーンという人が1620年、『ニューファウンドランドの説話と発見』という本を出している。この中には、きわめて信びょう性の高い記載がある。
1610年のある朝、ウィットボーンはセントジョーンズ港の岸壁に立って海を見ていた。
そのとき、沖の方からだれかが泳いでくるのを見つけて、彼は一瞬わが日を疑った。その人問ーいやどうも人間ではない、人間によく似た生物であるきは、彼の足もと近くまで泳いできたかと思うと、彼の方を見上げるではないか。
顔は人間の女性と見まちがうばかりで、頭のまわりには、頭髪ではないが、毛のようなものが生えていた。その奇妙な生物は、しばらく波に漂っていたが、まもなく沖に向かって泳ぎだした。しかし泳ぎながらもときどきウィットボーンの方を振りかえった。上半身は人間の皮膚のように白く、背中の中ほどから下にかけては背ビレのようなものがあった。
ウィットボーンがこのときに見たのはメスの人魚だと思うと記録している。彼は大航海の功績によりサーの称号を与えられたほどの人物である。架空の話をでっち上げたのだとか、流木か何かを見まちがえたのだろうといって片づけてしまうことは簡単だが、あなたもそうするだろうか?
18世紀にも信びょう性の高い記録がある。1726年に『アンポイナ島博物誌』を出版したフランソア・バレンションは、この本の中で東インド諸島に人魚が存在することを述べている。
それによると、1652年ころ、オランダ植民地の総督であった彼の副官が、ニューギニアとセレベスの中間にあるアンポイナ島行政区のへンテロー村付近の賢で2頭の人魚を呈した。1頭はオスでもう1頭はメスであったらしいという。
この2頭は、最初に目撃されてから6週間後にふたたび同じ場所に現れた。こんどは50人以上の人びとが目撃した。全身が緑色がかった灰色で、顔や手は人問そつくりであった。 バレンションは、「50人もの人問が同時に目撃しており、これほど信用できる話はないだろう」と書き記している。
>>第2話へ続く |