約6億トンの山が崩れ落ちたのである ― サッカーのグラウンドの大きさの地面に65キロの高さだけ土と岩石を積み上げたものに大体相当する量である。その崩れ方は予報されたように、1センチずつ落下しながら徐々に崩れてゆくような崩れ方ではなく、まるでナイフで断ち切ったように、山がすっぱり裂けて、まともに湖水の中に落下したのである。
カッソの村の司祭ドン・カルロ・オノリーニはたまたま湖水の真向かいにある山の上に立ってながめていた。ダムにとりつけた照明のまぶしいほど明るい光の中で司祭の目に映じたものは、「まるで地球の終わりが来たかと思われるような音を立てて」山腹が突然ぐらりとすべり落ちてゆく光景であった。泥の洪水が司祭のほうに向かって飛び上がり、彼の目の真下で山腹がはがれて落下したかと思うと、洪水がまだ谷間に寄り返さないうちに教会も、低地に立っていた数軒の人家も消え失せてゆくのが見えた。ものすごい、青白い閃光で空をみたしながら、大がかりな2万ボルトの高圧線がショートし、ヒューズが飛び、山村をまっくら闇にしてしまった。
湖畔の四方には厄介な水が先を争って押し寄せ、水の高さは25メートルどころか、所によっては湖面より25メートルも高くまき上がった。その水は轟音を立ててダムにぶつかったが、ダムは持ちこたえた。しかしその水は1メートル半どころか90メートルほどの高さまでダムの上におおいがぶさり、250メートル下にある山峡の底にどっと落下していった。山峡の底部では水はまるで強力に煙突の中へでも押しこめられたように圧縮され、その速度は恐ろしいほど増した。そして洪水は砲身から発射でもされたように、その低い山峡から跳び出し、数百万個のすごい岩石をすくい上げながら、広いピアーべ川の河床一面にほとばしり出た。その洪水に先立って、不思議なほど冷たい風と、飛び散る水の嵐が雨のように押し寄せてきたが、その雨は上に向かって降り上がっていた。そのころには、すでに水は波以上のものとなり、洪水以上のものとなっていた。それは水と、泥と、岩石の大旋風であり、それが青白い月光の中に100メートル以上の高さに逆巻きながら、まともにロンガローネの町に襲いかかったのであった。
次の数分間に6分くらいだった ― 泥水の洪水はロンガローネの町の立っている山腹のはるか上まで大音響を立てて跳ね上がり、やがて1500メートルほどの幅の巨大な流しの水をあけた場合に聞こえるだろうと思われるような、恐ろしい吸い込みの音を立ててピアーべ川の谷間に逆流してきた。その6分のあいだにロンガローネの町は地上から消え去ったのである。
生き残った人たちのなかで、ほとんど誰1人として ― 全然危険がないほど高い所からながめていた人たちでさえ ― 自分の目で見たことを秩序立てて説明できる人はいなかった。ある人は思い出して、「私たちの町の上に大きな乳白色の雲が立ちこめていました」と言うし、またある人は「ばかでかい、灰色と銀色がかった1つの塊りでしたが、それがとても大きくて、ちっとも動いているようには見えませんでした。そのうち、いろんなものが ― 人間の体も、木材も、自動車も ― その塊りの中に、渦に巻きこまれるように吸いこまれていきました」と言っている。たいがいの人の覚えていたことは、不思議なほど冷たい風と、恐ろしい物音だけである。「それは急行列車が1000台も私たちに向かって押し寄せて来るような音で……あまりひどいので、耳が受けつけようとしないような音でした」と彼らは言っている。
あるバーではだれかが「ダムが切れた!命がけで逃げろ!」とどなった。
すごくすばしこい連中はうまく逃げおうせた。老人や、驚きで頭がぼんやりした人たちは死んでしまった。もう1軒のバーでは丘寄りの窓から飛び出した連中はぅまく逃げおおせたが、入口のドアから出た人たちは間に合わなかった。
マリア・テレーザ・ガルーリという22歳の若い女は、ちょうど自分の家のバルコニーのよろい戸を閉めようとしていたとき、たいへん冷たい風を肌に感じ、どうしたわけか家が自分のまわりで溶けていくように思われた瞬間、1つは風と、1つは水の何か大きな力ですくい上げられ、「あたし宙を飛んでいるんだわ……いや、歩いているんだわ……いや、泳いでいるんだわ」とぼんやり考えながら、ぐるぐる回されていった。175メートルほど離れたところにいた老人のアルドイーノ・ブルリガーナと妻のジァンナは、1番上の階から洪水が1階に押し寄せてきて、何か黒ずんだ包み物を落としていくのをながめていた。その包み物がうめき声を立てた。それはショックで気を失ったマリア・テレーザ・ガルーリで、打撲傷を受けていたが、ほかにはとんど怪我はなかった。
いすに身動きもできないでかけていた1人の中風の男は、あわてふためいて大声で妻に呼びかけた。「なんだ? なんだ? いったい何なんだ」妻は見てみようと思ってバルコニーに出ていった。男は何か大きな震動で家ががたがた震えるのを感じ、大きな声で「おまえ、どこにいるんだい?」と呼びかけた。妻の返事は2度と聞かれなかった。通り過ぎていった波のはしが妻をさらってしまったのである。
アメリカのスカーズデールの町から来て客となっていたアメリカ人の夫婦は特別上等のぶどう酒の1びんをあらかたからにしたとき、轟音がとどろいた。いとこの1人がドアを押し開け、じっと外をながめて、またぴしゃりとドアを閉めて叫んだ。「わたしたち、みんなもうだめだわ!」水が一同の上に押し寄せてきた。夫は次のようなぼうっとした考えが頭をかすめたのを覚えている。「300メートルの深さの水をかぶったのでは……もがいても何の役にも立つまい?」けれども奇跡的に、あっという間に水は引いていった。彼は助かったし、妻も2人のいとこも助かった ― ただし骨折は受けたが。しかしユリザべッタ大叔母はその水には勝てなかった。大叔母は倒れて死んでいた。
その惨劇がどれほど法外に大きいものであったかということを外部の世界が知ったのほ、しばらくたってからのちのことである。洪水はロンガローネの町を泥の海の中に孤立させてしまった。最初の報道員は午前2時30分ころ、そこへ渡って行った。そして夜明けのかなり前にはイタリアの有名な山岳隊であるアルピーニの1,000人と、約10,000万人の救援隊の先発隊 ― 軍人、警官、消防士、赤十字、ボーイ・スカウト、そのほか各種の篤志家たちがやって釆た。
どんな筆達者なジャーナリストでも木曜日の白日のもとにさらされた光景を記述する言葉を見つけだすことはできなかった。「16キロもつづく泥の棺……まるで旧約聖書に出てきそうな惨劇……人家のないヒロシマさながら」
ロンガローネ町内の300軒以上の建物のなかで、まだ立っている家はわずか12,3軒くらいに過ぎなかった。妙にぴかぴか光る金属板が朝日を受けてきらめいていた!自動車の残がいである。荒れ狂った砂いっぱいの洪水が塗料をひとかけらも余さずに洗い流してしまったのである。
ある55人の大家族のなかで、たった1人の婦人だけが生き残った。ほかに36人家族の家があったが、そのなかでジャーチンタ・ビニヤーゴというおはあさんと、その孫息子のジャーコモだけが生き残った。おばあさんはその日1日じゅう泣きどおしていたが、自動機械のように、ほかの人たちを助ける仕事もつづけていた。
ある大家族のただ1人の生存者で無事だった女は、両腕にやはり無事だった赤ん坊をかかえて、兵隊から報道員のところへ、さらに司祭のところへと、だれのところへでも行って、細い声で頼みこんだ。「あたしを殺してください。お願いだからあたしを殺してください」丘の上に住んでいる結婚した娘を訪ねていたために助かったカルメーラ・ブヅテットというおばあさんは、丘から降りてみたら家も、夫も、息子も、その嫁も、3人の孫もいなくなってしまったことがわかった。そのおばあさんはスプーンを1本みつけ、家があったあたりだと思うところを掘り始めた。だれもそのおばあさんをやめさせることはできなかった。
ロンガローネの町内では子供たちは6人に5人の割合いで死んだ。残った子供の数があまり少なかったので、政府が生き残った子供たちはベルルーノの小学校に引取ってやろうとおだやかに申出たとき、ロンガローネの人たちは激しい声をそろえて、「おれたちは子供をここに置いておきたい!おれたちのすぐ目の前に!」と言って拒絶した。1人の男の子は不思議そうな顔をして言った。「大人たちのそばを通ると、みんながぼくをほしそうな顔をしてじっと見るんだもの」
捜し出す仕事と掘出す仕事は夜となく昼となく何週間もつづけられた。生き残った人たちはたえず「ねえ、お願いだから気をつけて掘ってくださいね。私の母親がそこに埋まっているのだから」と頼みこんでいた。果てしもないほど、あとからあとからと、さまざまなものが掘出されては涙を誘った。金色の馬の飾りのついた黄色い花びんが現れたとき、近所の人の1人が涙を流した。「あの奥さんはとてもこれを自慢にしていたのよ。いつも自分の子供たちが、これをこわしやしないかと心配していたんです」結婚の記念写真……ソレソトみやげ″という字が読める木の箱……ねじ曲がった自転車。だれかが水びたしになった手紙を捜し出して、それを読んでいたが、やがて急にヒステリックに笑い出しながら、大きな声でその結びの文句を読み上げた ― 「こんど手紙をくださるときには、ロンガローネの町でどんなことが起こったか知らしてください」
あとからあとからとわかってくるおびただしい死亡者の数と匹敵するほどたくさんの同情と援助の手が、イタリア全国からつぎつぎとさしのべられてきた。イタリア人のなかでは、だれ1人としてその惨劇が自分の責任であると認める人はいなかったが、一方では、とにかくイタリア人全部が責任を感じているようであった。全国のラジオ、テレビ網はロンガローネを再建しよう″という募金運動を展開し、それで13億5000万リラの金が集まった。最も被害のひどかった生存者たちには貯金勘定、あるいは全部現金の下付金(1家族につき3百万リラ、つまり174万円まで)が与えられ、未亡人や孤児を助けるためには信託資金が設けられた。イタリア政府はこれまでに120億リラ(69億6千万円)の資金を支出し、道路、鉄道、橋梁、上下水道の再建を行ったり、埋没した民家、商店、工場をもと通りに建ててやったり、ロンガローネの町が復興するまで、イタリア各地に散らばっている数千人の避難民の生活費をまかなったりしている。
このニュースは全世界に恐慌を巻き起こし、援助の手をさしのべさせた。オーストラリアからカナダにいたるまでのイタリア人社会の多くは ― ときにはイタリア語の地方紙の提唱のもとに ― 金を送って来た。ロンガローネ生まれで、故郷の家族のほとんど全部を失った58歳のジェームズ・べーツというコネチカット州スタンフォードの失業労務者は、自分1人の力で350ドルの現金と衣類40箱を集め、それをギリシャのある船会社が無償でイタリアまで運んでくれた。
私は最近のある日、このダムと何の関係もない1人の技師といっしょに、まだ再建中の泥だらけの山道を登って、あの恐ろしかった夜、山の崩れるのを向かい側の山から目撃した司祭の住んでいるカッソの村まで行ってみた。湖水より250メートル高い所にあるその村からながめると、私たちの目の前に現場の全容が展開していた。
私たちの右手の下には、上部にわずかの損傷を受けているほか無傷の大ダムが横たわっている。すぐ真下には地すべりした巨大な山塊が、まだ樹木も藤木も生えたまま、まるで昔からそこにあったかのように立ち、すでに新しい呼び名でキンテ・ヌォーボ ― 『新山』 ― と呼ばれていた。その新山は実際には土と岩石で2400メートルほどの深さに埋まっている自然に出来た新しいダムのようなもので、それがまるでもとのダムの脇腹をこずくような格好をして、いまは永久に役に立たなくなった人間の作ったダムより9メートルも高くそびえ立っている。
湖水は前の大きさの約半分に縮んでいる。しかしイタリアはまもなく手に入れられるかぎりの電力が必要になるので、もう少し時間がたって恐怖心と住民の感情が冷静になったころ、貴重な貯水用として湖水の残りをつづけて使用する何か絶対に安全な方法が発見されるかもしれないという暗々裏の希望はあるのである。
私たちがカッソの村から見おろしていたとき、私の友人の技師はパイプの柄でいまもなお堂々としている人間の作ったその大ダムを指し示して言った。「現代では人間は大体100パーセントまで応力とひずみを計算することができる、ということはこのダムが証明しているとおりです。しかしどんな最高の技術陣が、どんな最高の装置を使っても、地球の奥深くに起こることを絶対確実に知ることはできないのです。現在では機械工学は大体正確な学問となっています。しかし地質学はそうじやないのです!いまのところはまだそうなっていないのです」
終わり |