動物たちは知っていた、と世間の人は言っている。最後の日のそのおだやかな夕暮れどき ― 1963年10月9日の木曜日に ― 野うさぎたちは急に大胆になり、通行人も自動車もものともせず、無言のまま夢中になって、舗装道路を全速力で駆けて、その人造湖から離れていった。晴間が迫まってくるにつれ、牝牛は牛小屋で不安そうにぐるぐる回り、犬はくんくん鳴き、鶏は鶏小屋でそわそわしていた。テレビを見ていたある夫婦者は籠(かご)のカナリアがただならぬ騒がしさで羽ばたきしている音にいらいらさせられた。やがてその羽ばたきが不意にやんだ。何だか訳のわからない恐怖に襲われてあわをくったカナリアは籠の桟(さん)に首を突っこみ、窒息して死んでしまったのである。
夫は妻の顔をじっと見た ― 「何か起こるんだよ!ひょっとしたらダムが?」
イタリアの北にあるロンガローネという小さな町で、その夜生き残るか死ぬかということは、たった1つの簡単な事実によって決まることになった ― その人がたまたまバーヨント・ダムの下流の渓谷のどの程度の高さの山腹にいたかということである。1番高いところにいた人以外は全部まもなく死ぬ運命にあった。
あと6日で結婚することになっていたある婚約者同士のあいだに、ちょっとした意見の食い違いが起こった。ジョバンナは20キロほど離れたその土地の1番大きな町であるベルルーノの町へ映画を見に行きたいと言ったが、許婚者のアントニオは疲れていたので、言い訳をしてご免こうむらしてもらった。
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▲今も残るロンガローネのダムの跡。ウィキペディア・コモンズより転載。 |
その夜の2人は分かれ分かれになり、男はかなり高いところにある自分の家に残ったし、女は低地にある家へ帰った。男は翌朝ジョバンナも、その家族も、家も何も消え失せてしまった泥の原を掘り返しながらさいげんもなくこう繰返して言ったにちがいない。
「もしぼくがジョバンナを映画に連れて行ってさえいたら……もしもぼくがジョバンナを映画に連れて行ってさえいたら」
10代の男の子がモーター・バイクにまたがったまま、窓から母親が女の子に会いに、ほかの村まで出かけるのをやめさせようと言いきかせているあいだ、まごついてもじもじしていた。ところが家の中から自分の若いころのことを思い出した父親が、「なあに、行かしてやれよ!」と大声で優しく言ってくれた。母親はため息をついて折れてしまい、男の子は安全な土地にバイクを走らせて行った ― 2度と家も両親も見られなくなることも知らずに。
イタリア系の3人のアメリカ人がロンガローネを見物に来て、3人とも低地にあるささやかなホテルに泊まっていた。
その中の1人でカリフォルニアのリバーサイドの町から来ていたジョン・デ・ボーナは自分の部屋に引きこもった ― そして彼の姿は2度と見られないことになった。ニューヨーク州スカーズデールの町から来ていたあとの2人、ロベルト・デ・ラッツエロ夫妻は、大叔母のエリザべッタと2人のいとこに晩飯に招かれて、150段近い坂道の段をあえぎながら登って行った。10時ちょっと前、晩飯がすんだので夫婦が下のホテルまで歩いて帰ろうとしたとき、ユリザべッタ大叔母が言った。「まだ帰らないで。ねえ、あんた方に特別のぶどう酒を1本しまっておいたのよ」幾らか気は進まなかったが、夫婦は少しのあいだ居残っていた。2人は運がよかったわけである。
なぜならロンガローネの町の時計はその晩はどれもこれも、決して11時を打たなかったからである。その時間のくる直前に、ロンガローネの町とその近くに群らがっていた部落は全部地上からかき消され、2000人以上の人たちがおそらく世界で最も悲惨なダムの災害で死ぬ運命になっていたからである。
注:これまで当局にはっきりわかっているだけでも1970人の死者が出ているが、さらに200人から300人の人たちが死んでいるものと信じられている ― そうなると最終的の死者の総数は、歴史上これに匹敵する唯一のダムの災害である1889年のペンシルベニア州ジョンズタウン川の氾濫の場合の死者の数(2200人)と驚くほど近いことになる。
4年前に新しく出来た大バーヨント・ダムは、オーストリアとの国境から南にそれほど離れていない亜高山地帯の町、ロンガローネ周辺に住む人たちの誇りにもなっていたし、同時に恐怖の種にもなっていた。近くのバーヨント山峡を埋めているこのダムは、あまり深くて狭すぎるため、太陽の光がその底に触れるのは真昼のほんのつかのまに過ぎないほどなのだが、世界じゅうで最も高い所にある弓形のダムで、外国から訪ねてくる技師たちにたいして得意な見せ物になっていた。また、観光客を大いに引きつける名所にもなっていた。優雅な曲線を描いて次第に先が細くなっているそのコンクリートの壁は、基底から260メートルの高さにそびえ立っていた ― ナイヤガラ瀑布の5倍近い高さである。まだ満水になっていないが、十分に水を貯えたあかつきにほ、この湖水は膨大な量の電力を供給し、数キロ四方の山国の住民たちに産業や、作業や、繁栄をもたらすはずであった。でも多くの人たちはそのダムに恐怖心を抱いた。
1959年以来、このダムの建設に対する人々の抗議はますます大きくなる一方で、だれもかれも口をそろえて工事を中止するか、さもなければそれが安全だという絶対的な保証を与えてくれと要求した。しかし用地の使用はすでに認可され、すべての仕事はイタリアで最も尊敬されている数人の地質学者と技師たちの慎重な監督のもとに進められていた。その主任者はバーヨント計画の真の産みの親であるカルロ・セメンツァ博士であった。この人はすでに数ケ国でたくさんのダムを建設し、国際的に名の知れ渡った技術界の権威である。博士もそのほかの監督者も、はじめのうちははとんどすベての新設の人工湖の場合と同じように小さな地すべりぐらいは起こるかもしらないが、心配するはどのことは何もないと断定した。
近くに住んでいる人たちは、それほど大丈夫だとは思っていなかった。とりわけ、ダムの左肩を固定させながら新しい湖水の上に1220メートル近くの高さでのしかかっているトック山の安定性を疑っていた。彼らはその山に”歩く山”というあだ名をつけていたくらいだった。湖水の真上にあるエルト村の人たちは特に危険を感じ、初期の抗議の大半はその村人たちから持ち出されたものであった。
1956年に建設が開始され、1960年3月にはすでに部分的に水を貯えるテストの準備がすべて終わった。その結果は厄介なことになった。
1960年11月に控え目な量の水を貯えただけで、もうトック山の高いところに愕然とするような裂け目が生じた ― 幅が30センチ余、長さが2500メートル近い亀裂である。同時に50万トンの土と岩石が湖水の中になだれこみ、2メートル近い高波をかき立てた。
このダムを建設していた水力電気会社ソチエタ・アドリアティカ・ディ・エレットリチタ(略してサーデ)は失望して湖水の位置を一段と下げ、予定を狂わせて、2年間にわたる金のかかるテスト作業にとりかかった。会社はまた広範囲にわたる改善工事も行った。ダムを強化し、大規模のバイパス・トンネルを掘り、岩石の亀裂の生じそうな疑いのあるところは加圧コンクリートで密閉した。
ところが地すべりの前触れがあってから6ケ月とたたないうちに、セメンツァ博士自身が希望を失い始めた、例の惨事のあとまで公表はされなかったが、1961年4月のある手紙の中で、博士はエンジニアの友人の1人にこう書いている ― 「この問題はおそらく私たちの手に負えないほど大き過ぎるようだし、何ら実際に役立つ対策の建てようがないのだ」
博士はそれから半年たって亡くなった。けれども博士といっしょに心配していたほかの人たちも、まさか人命に重大な危険があろうなどとは夢にも考えていなかった。彼らの恐れていたことは、ただ盆地が貯水に役だたなくなるほどまで、地すべりでふさがれてしまいはしないかということだけであった。
サーデ会社の作ったダムおよび盆地全体の精巧な模型(実物の200分の1)にたいする実験(第19回目)は特に悲惨な結果をもたらすことになった。その実験の正式な報告書によれば、もしこの湖の水位を満水時より23メートル下にさげたなら、「予想しうるかぎりの最悪の地すべりをまともに受けても、絶対に安全」であろうということであった。ただし、そういう地すべりがもし起こったとしたら、湖上に25メートルほどの高さの危険な波をかき立てるだろう、ということもその報告書は述べている。
それに応ずる安全な対策は、明らかなように思われた。もし地すべりがさし迫って起こりそうな場合は、水位を満水時より少なくとも23メートル下げ、予想される波が荒れ狂っても害を与えないように、湖畔地帯の住民を1人残さず避難させるということである。ダムの2400メートル下にあるロンガローネの町の人たちを心配する理由は何もない。湖水面をそうした「安全な高さ」にまで下げたら、おそらくダムを越す水はわずか1メートル半くらいの無害な小さな流れにしかならないだろうから。
第2話へ続く |