エゴの生活、すなわち"私の意志"による生活をすごすのは容易ですが、自分自身を"創造主の意志"に任せるのはきわめて困難です。 変化の過程において弱い自我が突き抜けねばならぬ闘いは、ときとして最大の苦痛をひき起こします。穏和や温順な状態に達するまでには長年月を要します。
毎度のことながら、宇宙的な表現のための非個人的な径路になろうとする人は、自分に強さ、理解力、信念などがあるか否かを試す、胸の張り裂けるほどの辛い試練にあります。
人間は真理という鏡の中にすすんで自身の姿を映して見る必要があります。ときとしてその姿があまりにいやらしいために、しりごみし、どの程度の人格かを最もよく語ってくれる最大の伝え手から顔をそむけてしまい、生命の表現の中にひそむ神性の欠乏により茫然自失の状態になります。
自身の肉体の魂に直面すると、本人はのがれることのできない絶望の沼の中に投げ入れられ、悔恨と自己非難の流砂の中に引き込まれます。
一方、心が純粋で、目的が真撃な人だけは、自分の行動や想念に直面することができ、こうした啓示にしりごみしません。このようにして高地へ登った人は、信念による自分の再確立と、愛による自分の純粋化の必要を感じます。
前述の鏡の中には、進化の道でつぐなわねはならぬ天罰、すなわち誤った行為の反応という姿がしばしば現れます。ときとして他人のとるに足りぬ弱さの上に自分がいると考える人は、この啓示の鏡の中に自分の本当の姿が映し出されます。それはエゴの欲望のもとでもがいている肉体人間としての自分、意志の力によって"結果"を造り上げ、他人の限に自分が偉大に見えるような知恵を求め、同胞の上位につこうとする力を求める自分の姿です。自身の内部に常に見いだしている些細な焦りの気持は、肉体人間のプライドと野心の結果であることが本人にわかるでしょう。こうした事のすべては、エゴを支配する道を歩み始めた人に与えられます。これらを謙虚な心で認めねばなりません。
人間が真理の鏡をのぞき込み、自分の個人のエゴの行為を見つめて、しかもその恐怖に打ち負かされなければ、本人は自分の行為のすべてが正当に評価される場所へ前進するでしょうし、ここで自分の正当な分け前にしたがって、過去の行為を清算するエッセンスの満ちた浄めの杯が与えられます。人によってはその杯は大変苦いでしょうし、あえてそれを飲もうとせずに捨ててしまう人も多いでしょう。こうした人に対しては鉄のドアーに通じる小道が開けており、そこから更に世俗的と物に満ちた薄暗い部屋があって、その中で本人はまだ学ばなかった物事をふたたび体験するかもしれません。
一方、真理の鏡の中に自己の姿を見たあと、自分たちがずっと以前にエッセンスを入れておいた杯を手にするために、不屈の勇気と愛の心と不滅の信念とをもって前進する人もあります。この人たちにとっては別なドアー、すなわち純金の美しい門が現れるのです。この戸口の前でその人たlは、彼方の美しき物の意識による知識″の閃光を浴びるために立ち止まることを許されます。
しかしある人にとっては、自分が飲んだ苦い杯が自分の肉体の魂を変質させて、謀反、怒り、憎悪、自己憐憫、不正感、その他無数の破壊要素の煙を立ちのぼらせるでしょう。もし知覚的な肉体の心が弱ければ、すべての奴隷になるでしょうし本人の内部に激しい混乱も生じるでしょう。こうした場合、本人は体験という部屋の中へ導き入れられて、そこでふたたび未来の試練のための力をつけるように努力するでしょう。
黄金の戸口の前 で立ちどまる少数の人は、自己の純化によって、杯の中味を超越し、自分の唇に苦かった物を甘美にし、内部の自我に対してエッセンスを活気づけます。他人にとって毒杯であったかもしれない一杯は、こうした人にとっては新生の霊薬となります。しかもこのような状態に達したならば更に大きな試練があるのです。本人は世俗の人々の肉体の苦しみ、利己主義、憎悪、貪欲などを見るでしょうが、しかし創造主と同じほどに真実な、自由な、純粋な心をもって、すぐに宇宙の神聖さ″の上に自分の姿をとどめます。
このような人が容器(自身)をきれいにし、エゴのない状態に保ち、意識の行為において心底より誠実な声で「私の意志ではなく、創造主の意志がなされるのである」と告白できるならば、そのときドアーは内部に少し開かれ、道を進む人に先が輝くでしょう。求道者の神殿(肉体)をつらぬく光はますます強くなり、いまや試練は更に大となります。なぜなら、この増大する力とともに、より大きな意志、知識、力がわき起こるからです。 これはたしかに最高の試練です。なぜなら、ほんの少しでもエゴの欲望があり、エゴの考えがあるなら、ドアーは広く開かれず、探求者はしきいの上にとどまらねばならないからです。 そして本人は肉体人間のプライドという苦しみを通じて、ふたたび謙虚さを知り、その光を非個人的に用いることを学ばねばなりません。
ときおり、充分に理解できる状態にまで昇華する人がいます。このような人は多くの生まれ変わりを通じて、倦むことのない行為により、エゴの欲望という迷路を骨折りながら前進して、肉体の魂を支配できるようになったのです。
これまでに私の言葉に耳を傾けてきたあなたがたの多くは、 "意識による啓示" という鏡の中に自分白身をよく知覚する特性を与えられてきました。たぶんあなたがたは自分の弱さに失望落胆したかもしれませんが、ダウンしてはいけません!光に向かうあなたがたの進歩は遅いのです。
あなたがたは、 "自分の未来の成長" という花が、本当の、しっかりした茎の上に支えられることが可能になるように、いま自分をがっちりと根づかせているということを思い起こしなさい。
あなたがたは大地の暗黒の中に横たわっている小さな種子のようなものです。満開の花になるのに、焦ってはなりません。 "自己の意識" という天空の中に高く輝く栄光の炎にむかって、あまりに急ぎすぎないようにし、コンスタントな前進を続けながら成長してください。まず自分を支える強力な根を作るように努力しなさい。信念、忍耐、寛容、愛、同情など、これらはあなたがたの生命を後になって支えてくれる根なのです。
肉体人間の利己的な想念をひとつずつあなたの意識から消し去らねばなりません。しかしそうするためには、ひどい苦痛が生じます。 自分でそのようにしているのです。けれども一方では、責め苦にさいなまれるエゴが火花となって飛び散ることにより、あなたがたの心は自由と再生の新しい誕生に加わることになります。エゴを支配する道を行くのは容易ではないと私は言いましたが、しかしこれはたとえようもなく美しいものなのです。人間の内部に苦痛が発生すれば、それは新生という局面をも生じさせます。したがって、コンスタントな活動を行なって前進しなさい。そしてあなたがたが "宇宙の理解" という黄金の門を通りたければ、勇気と、そして特に愛″を持たねばならぬことを覚えておきなさい。
(久保田八郎訳) |