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 UFOと日本人 第1話

NewsLetter No.64 1976より転載

 この記事はアダムスキー問題に深い関心を持つ某新聞社の婦人記者との対談録を加筆訂正したもの。

■ 作られたUFOブーム

−今年はアメリカから「未知との遭遇」という大型のSF映画が来て、UFOブームが起こりましたが、このブームの影響というか、今後の見通しなどについてはどうですか。

「そうですね。今年は私も各種の週刊誌からインタビューを受けたり、なんだかんだとありましたが、私自身はまだあの映画を見ていないんです。だから映画の内容についてほ何とも言えませんが、おそらく一時的なブームであって、長続きはしないと思いますね。いまのUFOブームといったところで、しよせん映画による作られたブームですからね」

−なぜ映画をごらんにならないのですか。

「見に行こうという衝動がどうしても起こらないんです。私はアダムスキー哲学にもとづいて、内部からわき起こる衝動や印象に従うように自己訓練をやっていますから、衝動が起こらなければ実行に移しません。しかし誤った結果に導く衝動や印象もありますから、正しい印象に従うためには、それなりの自己訓練をして、宇宙的な性質を土台とした印象を感受する練習を行なう必要があります。これはテレパシー開発の基本となるものです」

−そうすると、つまらない映画だから、見ても無意味だという印象を感受されたわけですか。

「いや、映画自体の内容はともかくとして、どんなにすぐれた映画であるにしても、あくまでもフィクション(作り事)ですから、UFO問題をノンフィクション(事実)として追跡してきた私には、関心が起こらないんです。もちろん無数の映画のなかには芸術作品として立派なものがありますし、それなりの価値はあると思いますが、ことUFOに関してはフィクションでは物足りませんね。

UFOの劇映画といえば、むかしアメリカ映画で『地球の静止する日』というのがあって、たしか日本でも公開されたと思います。私は1975年の秋にカリフォルニア州ビスタのGAP本部を訪れたときに、この映画を見せてもらいました。これはアラスカのジュノーで実際に発生した事件を映画化したもので、着陸した円盤−アダムスキー型円盤−を軍隊が包囲するという緊迫した状態の中で一人の宇宙人が出てきて、身の危険をもかえりみずに米政府に平和運動を働きかけるというような筋でした。しかしこの映画でも舞台はジュノーからワシントン市に移されていて、ちょっとがっかりしましたね。どうせ作るのなら徹底的に事実を追跡して、ありのままに描写するはうが迫真感があると思うんです。そして『これは事実を再現したセミ・ドキュメンタリーだ』とうたうほうが受けるんじゃないでしょうか。なにせ一般大衆はまだUFOの存在をあまり信じていないし、関心もないんですから−」

■ 日本の風土ではダメ?

− そうすると、いまのブームもたいしたことにはならない?

「私自身は27、8年間UFOの研究活動をやってきましたから大体にわかるつもりですが、日本の風土ではUFO問題は伸びないと思うんです。雑誌の「宝石」4月号に、私が司会して、横尾忠則氏と斎藤守弘氏との3人でUFO問題を語りあった対談記事が出ています。そのとき横尾氏が、東南アジアのある都市でアメリカのSF映画の『スター・ウォーズ』を公開したところ、客がはいらなかったらしいと言って笑っておられましたがね。『スター・ウォーズ』というのは昨年夏にアメリカで大ヒットしたSFの超大作です。私が8月中旬にハリウッドへ行ったとき、そこの映画館の前で長蛇の列を見て、おどろいたんですがね。今年も日本に入ってくるそうですが、おそらく大都市だけのブームで終わるんじゃないでしょうか」 

− 東南アジアよりは日本のほうが関心度は高いけれど、それも一時的なものだということですね。

「おそらく、そうだと思います。こうした宇宙的なものに対する関心が、なにか文明の発達程度を示す尺度になるような気がするんです。映画作りにしてもスタンリー・キューブリックのあの有名な「紀元2001年宇宙の旅」というような作品は日本では絶対に作れませんからね。もっとも原作者のアーサー・クラークはアダムスキーをひどくけなした人ですけれど、作品を見て意外に思ったのは、アダムスキー的な要素がかなり盛り込まれでいたことです。特に哲学的な面でー」

− でも日本はUFOの分野でもかなり先進国なのではありませんか

 「そうは思いませんね。欧米に比較すると、相当に遅れている面があります。数年前、アメリカのギャラップ世論調査によりますと、アメリカ人の2人のうち1人はUFOの存在を信じているそうで、しかも高度な教育を受けた人ほど、信じる傾向があるということですが、日本人はとてもまだまだー。こうした点でも日本の実態の一面をあらわしていると思います」

■ 未発達な生活文化?

− しかし、これほどに日本の物質文明が発達していれば、対宇宙的な意識も拡大しそうなものですが −。

▲ヘルマン・ヘッセ

「いや、日本の生活文化からして、まだ未発達な状態といえるんじゃありませんか。もっとも文明とか文化とかが何を基準にして定義づけられるのかはよく知りませんがね。たとえば、日本の水洗トイレの普及率は現在30パーセント代で、まだ40パーセントに達していません。

これはビクトル・ユゴーの『ああ無情』に出てくるジャン・パルジャンの時代のフランスにおける普及率と同じなんです(注=『ああ無情』は(1862年に発表)。つまり日本中の家屋の60何パーセントかは、いまだに汲み取り式トイレに甘んじているわけです。いまの日本人の90パーセントは中流意識を持っるということですが、もし、家の中物をため込んで屋内に臭気をただよわせながらピアノと自動車があるから中流だと意識するのが日本人の実態だとすると、こんな風土では宇宙に対する夢やロマンは発達しないでしょうね」

− それは政府とか為政者の責任であって、国民の生活意識とは直接関係のない問題ではありませんか

「必ずしも為政者や国土の狭隘(きょうあい)だけが原因ではなくて、住民の側の生活意識の問題もあると思いますね。つまり汲み取り式でよいのだとか、臭気がただようのは仕方のないことだと思い込んでいることに問頭があると思うんです。

都市作りにしてもそうです。迷路のようなメチャクチャな道路は東京が典型ですが、これは日本人の思惟法に論理性のない証拠としてよく引き合いに出されることです。東京在住の外人の大部分は、東京という町について否定的だと、いつか新聞に出ていましたがね」

−  そうすると、論理的な白人のほうが宇宙に対する夢やロマンを持ちやすいというわけですか。

「いや、そういうことではなくて、情緒的な日本人は、いったいに、あまりものを深く考えない傾向があるということを指摘したかっただけのことです。これは宗教学のある大家の説でもあるんですがね」

− でも日本人は宗教的というか精神的というか、唯心的な面がかなりあるんじゃないですか。

▲ラフカディオ・ハーン

 「全然、逆です。現代の日本人は−。宗教的哲学的な感性を持たないとは言えないでしょうが、あっても希薄です。もっとも現代の若いドイツ人でもヘルマン・ヘッセの作品で象徴されるような求道精神を失ってしまったということですから、これは世界的風潮かもしれません。 既成宗教に対する不信や失望が原因となって、宇宙志向となり、UFOのごとき不可視の存在物が関心の対象になってくるとも言えるでしょうが、白人社会の実態はよくわかりませんね。ラフカデイオ・ハーンは日本人特有の神秘性の発見者として知られていますが、それはやはり白人の目に映った一種のエキゾティシズム(異国情緒)の領域を出なかったと思うんです。ちょうどヨーロッパ文明を嫌悪したゴーギャンがタヒチにのがれて原始的な環境の中に一種の霊性を見たと錯覚を起こしたのと同じたぐいではないでしょうか」

■ 雄大な面もあった

− そうすると日本人に対しては悲観的なのですか。

「絶対にそういうわけではありません。日本人には偉大な面もあったと思います。先日も日本橋三越で『平城京展』というのを見たんですがね。西歴708年(和銅一年)に造都が開始された、いわゆる奈良の都の巨大な復元模型が展示されていましたが、その精密さに一驚したのですけれども、それよりも唐の長安の都を模したというゴバン目の壮大な都市計画に全く圧倒されましたねェ。実に雄大な都市で、現代の日本の無秩序な町よりもはるかに機能的でモダンです。当時としても世界に誇り得るものではないでしょうか。

日本人の都市計画専門家を長安に派遣して技術を学ばせたのか、それとも長安から技術者を招聘したのかは知りませんが、いずれにしても、あれだけの大都市を建設する夢を持っていた当時の為政者の進歩的な精神には感服のほかありません。後にこれを凌駕するほどの大規模な平安京も京都に建設されましたが、日本人の雄大さは大体にこれで頓挫して、あとは内乱が続き、徳川時代にはいって、権力欲というエゴに満ちた支配者により日本人は三百年間冬眠状態におちいります。当時の江戸城は驚くほど大規模で複雑な機構に満ちていますが、しかしこれは権力者のための築城であって、平城京のような民衆の生活環境を考慮したものでほありません。

幕末から明治の初期にかけて一大革命が起こり、西洋の文化の導入が行なわれましたが、でたらめな江戸の都市構造は大体にそのまま継承されています。以来百年有余を経て、日本が飛経的な発達をとげたことはたしかですが、一昨年もヨー・ロッパへ行ったとき、同行者のなかの国粋主義的な人がロンドンやパリを見て『これから見ると東京はたいしたものだ』と感歎していましたけれども、現代の東京は『世界的田舎』といわれるほどに野暮な町で、西洋のものまねと東洋人特有の妥協主義によってでっちあげられた疑似都市ともいうべきものではないかと思うんです」

− ずいぶん、手きびしいですね。

 「事実がそうだから仕方がないんです。私が住んでいる江戸川区にしても、これが世界の先進国首脳会議に首相を代表として送り出すほどの国の首都の一部分かと思うはど、乱雑で非機能的で、不潔な民家の密集した地区になっていますものね。都市構造は容易に変革できないにしても、個人の住宅はそれこそ持主の自由でどうにでもなるんですから、小さな家でももっと頭を使えば合理的な快適な住宅が出来ると思うんですがね」

− そうすると、日本人は合理的な考え方に欠けている?

「そうですね。合理とか不合理とかいうことが知脳の程度の測定要素になるかどうかは知りませんが、少なくとも計画性にとぼしいとは言えるでしょうね。私はマンションの部屋を借りて住んでいますが、マンション内のゴミ捨て場へ行きますと、まだ使えるはずのソファや家具類やテレビなど、立派な物が粗大ゴミとして沢山捨ててあるのを見て驚くんです。大変な浪費ですね。

 要するに生活設計が未熟だということでしょうか。もっとも日本人のすべてがそうではないでしょうがー。つまり新しいものに絶えず振りまわされて目移りがするというのでしょうか、生活文化に対する考え方の中に骨すじが一本つらぬいていないという感じですね」

−  だから、こうした風土ではUFOのような超科学的な物に対する意識は希薄だと−。

 「そうです。もうひとつは学校教育の内容や制度の影響も多分にあると思いますね。私がUFOの研究をやってみてわかったのは、日本人の青少年でUFOに対する関心は中学生のときか高校の低学年の頃、一時的にバッと開花するんですが、進学準備に追われるのか、高校の高学年になると低下し、大学生になると、うんと減少して、社会人になるともうだめだという傾向です。結局UFO問題も日本人にとっては興味本位の域を出ないという感があります。ですから大人でこの問題に関心を持つ人は、よほど特殊な人だと思いますね」

− アダムスキー問題はどうですか。やはり伸びませんか。

「あまり伸びません。一時的に興味本位でGAPに入会しても、まもなく去って行く人がかなりいます。これはアダムスキー問題が単なるUFOの入門手引きというよりも、特殊な哲学を含んでいるからです。これに関心を持って地道に研究を続ける人は、ある種のカルマを持つ人なのです」

■ カルマと転生について

− といいますと?

「カルマというのは古代インドのサンスクリットでいう『カルマンKarman』から出たもので、仏教では『業』と訳されています。つまり人間の行為が死後の運命の原因になるというインドの輪回思想をあらわしたものです。この思想によれば、現世の行為が未来の天、地獄、環境などを決定するので、その業をつぐなうことによって解脱の心境に達することができるというもので、バラモン、ジャイナ、仏教などで説かれています。これを明確にしたのはウパニシャッドの哲人であるヤージュニャヴァルキャで、いわゆる因果応報の法則を導入したわけです。

しかしアダムスキー哲学を研究する私たちは、このカルマという語を「原因と結果」という意味にとらえ、更に「宿命」というような意味を持たせたりして使用します。この「原因と結果」はアダムスキー哲学の重要な理論でして、古代インドの輪回転生説とは少々異なるものなんです。

そこで私が、なぜ今生でこんな理想主義活動をやらねばならないかという疑問に対する解答は、「過去世でそのような原因を作ったので、宿命として今生でそれを行なうという結果が生じたのだ」ということになります。これをカルマといっているわけです。ここには転生(生まれかわり)という問題が含まれています。これは非常に深遠で重要な問題ですが、残念ながらまだ科学的に認められていません。しかし、21世紀になれば転生の神秘に対する科学的な解明がなされるようになるでしょう。

この転生(生まれかわり)という問題になると、白人よりも日本人のほうがわりと認めやすい傾向にあるのはおもしろいですね。一体に東洋人は先天的に転生思想を持つとみえて『生まれかわりなんて、そんなのばかばかしいわ』という日本人の女性でも、『こんど生まれるときには男に生まれてやる!』などと冗談まじりに言ったりしますが、これは半分は転生思想が潜在していることを示しているんです。だいたい人間が冗談で言うことは、半分は本音だとみてよいのです。

そういうわけで、私がカルマにより、今生の生活目標が決定しているというわけなのですが、フレッド・ステックリング氏が来日した折、彼のホテルの部屋でこの問題を語りあったことがあります。 彼はもちろんこの問題をよく研究しており、カルマとは言わないで、しきりに英語でデスティニーdestinyと言っていました。これも運命とか宿命とかいう意味です。

このとき私や彼ら夫妻の過去世について、ずいぶん興味深い話が出たのですが、アダムスキーの遠い過去世の詰も出たんです。彼の説明によりますとア氏は中国古代の偉大な王でChineという人であったらしいということで、その人に心当たりがあるかと聞くものですから、最初は秦の始皇帝かと思い、そのように答えますと、いつ頃の人間かと尋ねます。約二千二百年前だと話しますと、それは違う、もっとはるかに大昔の偉人だと言うんです。いろいろ考えた末、ハッと思いあたったのは『舜』王ではないかということです。これは伝説上の名君として知られる人で、史実は不明とされていますから実在したのかどうかも明らかではありません。それに「舜」という字を現代中国語でどのように発音するのかも知らないもんですから、断言はできませんが、まあいわば私のフィーリングでそのように感じたという程度です。

話が横道にそれましたが、とにかく、アダムスキー問題を熱心に研究し、特にその哲学を実践する人は、過去世からのそれなりのカルマを持っている人で、一時的に興味を起こしても、やがて熱がさめて離れる人は、カルマがなかったということになります。言い替えれば、離れて行くべきカルマを持っていたとも言えるわけです。しかし、どちらでなくてはならないということはありません。離れて行く人は別な体験なり学習なりによって宇宙的な方向に進むでしょうし、どうしても宇宙の法則に気づかねば、15〜6回の転生を経たあと、個性は消滅するといわれています」

■ 生命の永続を得るには

− そうすると、人間個人の生命は永遠ではないのですか。人間は永遠に生まれ変わるということはないのですか。

「各個人によるようですね。人間は15〜6回の生まれ変わりの特権を創造主から与えられているけれども、その間に宇宙の法則に気づいて、いわば宇宙の波に乗らなければ、15〜6回目の生まれ変わりを最後として、淘汰の法則により、本人の実体は『宇宙の意識』という大海に吸収されて消滅するのだとアダムスキーは述べています。私はこの考え方が合理的で、なにか法則性を帯びていると思うんです。

よく宗教などでは、人間の生命は永遠で、人間は永遠に転生をくり返しながら進歩をとげてゆくのだといわれていますが、向上する意欲のない、いわば魂の腐った人間にだらだらといつまでも転生をくり返させるというのほ、むしろ公平さを欠くことになるのではありませんか。しかし悟った人は15〜6回以上転生を続けるのだそうです。因果応報という法則が厳然と存在するものなら、当然人間の心(マインド)の発達如何についても厳然たる法則が働くと思いますよ。

そうした法則を『宇宙の意識』と呼んでいるわけです。これは大宇宙空間に遍満するもので−西洋哲学の学者のなかには、そんな『宇宙の意識』などというものは存在しないと言う人もありますが−、もちろん人体をも生かす根源的なパワーであり、英知であり、しかも意識的なものです。この『宇宙の意識』が人体を通じて人間の存在感を意識せしめているわけで、いわゆる人間の表面的な意識の奥底にその源泉として宇宙的な意識が存在して、それが人間の心(マインド)に正確な情報を伝えるので、人間はまず心を抑制して、内奥の意識の声に耳を傾ける必要があるというわけです。

 これがアダムスキーの説くテレパシーの基本的原理ですが、17世紀前半に活躍したフランスの大哲学者で数学者のデカルトが展開した神の存在を証明する方法にも少しこれに似た点があります。しかしアダムスキーの説く宇宙哲学は全く画期的なもので、単なる観念論ではなく、人体の細胞や原子などの機能にも言及していますから、こちらのほうは科学ともいえるわけです。つまり生命の科学です。

まあ、とにかく人間の転生の問題にせよ、人体細胞とテレパシー現象との関係にせよ、これらは21世紀の科学として脚光をあびる日が来ると思いますね」

− すると、テレパシーの開発には、求道精神を必要とすることになり、宗教的だという感じがしますが、この点は?

「求道的というよりはむしろ心のユニバーサルな(全包容的な)展開を必要とするということじゃないですかね。人間の心は大体に狭く、特にエゴの強い人は狭量で、そのために細胞のリラクセーションが起こらず、したがってテレパシックな感受性に欠けるわけです。自分のことしか考えないという人ほど、他から放射される波動−特に想念波動をキャッチできません。その人の心が固いカラを作っているからです。心を広く開放してあらゆる物との一体感を起こすことが、細胞の緊張を解くことになり、知覚力も拡大してこれがテレパシー開発の要素になるのです。

こうした心の変化を図ろうとする試みは、むしろ心理学的な方法なのであって一種の科学なのです。ところが、日本人は大体に宗教、哲学、心理学などの区別がつかず、少しでも精神的な分野を扱うと、すぐに宗教的だと批判します。そこで、それなら宗教とは一体何なのか、それを定義してもらいたいと言いますと、相手は沈黙します。相手にも本当は理解できないんです。宗教というものを定義づけるのは、かなりの専門家でもむつかしいことで、素人においそれとできることではありませんから、宗教的という言葉を簡単に口に出せば、自分の無知をさらけ出すことになります。

同様に、やたらと科学的という言葉を口にするUFO研究家がいますが、これも実際には科学の知識を持たない証拠です。本当の科学者は、科学的という言葉を簡単に口に出しません。科学の奥は無限だということを心得ており、自分の持つ科学知識はまだはるかに貧弱なのだというふうに其の科学者は謙虚に感じるのです。私はそういう科学者を何人か知っています。これは外国語の達人が、必要のない限り他人の面前で外国語をしゃべらないのと共通していますね」

■ 目は口ほどにものを言い

− アダムスキーのテレパシーの理論について、もう少しくわしく。

「ごく簡単に言いますと、まず人体の感覚器官のなかで特に重要な日、耳、鼻、口の四官をコントロールすることから始めます。なぜかというと、これらの四官が外界からの刺激を受けて勝手な解釈をするために、心の内部で混乱が生じたり欲望を起こしたりするからで、こうなると、外部から来る想念波動を他の細胞がキャッチして脳内で増幅しようにも、これら四官の細胞軍団の攻防戦のために、できなくなるのです。

『目や耳が勝手に解釈するなんて、とんでもない』と言う人の知識こそ、まさにとんでもないものです。ずっと以前、東北大学の学長だった本山博士ほ、目の網膜の細胞群が独自な解釈をする事実を発見して、ノーベル賞ものになるところだったのに、同じ研究をやっていたオーストラリアの学者に先を越されたということがありました。こうした問題はとっくのむかしに科学的に解明されているのです。

こうして四官をコントロールして、勝手な解釈をさせないようにする−言い替えれば四官で形成される心を中立の状態にするのです。これはつまり心を静めることです。すると人体の内部の意識から伝えられる宇宙的なフィーリングを土台にした正しい情報、または外部から来る想念波動を捕捉した四官以外の細胞群から来る正しい情報が脳で増幅されて、心の中で鮮明に浮かび上がってきます。これがテレパシーです。ですからテレパシーや遠隔透視の発現に、目や耳などは全く関係ありません。

終戦後まもない頃、ある日の夕方、私が自宅で風呂にはいっていたとき、突然二百キロ離れた場所にいる兄のことがしきりに思い出されて、今頃はどうしているのだろうかと、一種の胸騒ぎが起こってきました。そしてその夜、兄が死んだという電報が来たのでした。あとで聞いてみますと、私が風呂の中で胸騒ぎを起こした時刻に、私の名を呼びながら息を引き取ったということが判明しました。これも一種のテレパシーです。こんな例は世間にざらにあります。

第2話へ続く

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