「ああ、あいつはイカサマ師だ。あいつの話ぶりからわかるよ」
「初めからあいつがでっちあげていたんだ」
ジョージ・アダムスキーの死後、こうした言葉が広がってきた。もとはアダムスキーを支持していたオランダの"UFOコンタクトグループ"のレイ・ダクィラは、今次のように言っている。
「私はもうアダムスキー氏の話を100パーセント支持しません。真実が終わってフィクションが始まっているのか、何とも言えません」(訳注=レイはかつてオランダGAPリーダーとして活躍した女流UFO研究家で、編者もかなり文通したが、その後完全に離れてしまった)。
アダムスキー信奉者の多くは、彼の教えを捨ててしまった。
私を知っている人々は、UFO問題に関する私の主な関心はUFO写真にあることをご存知である。たしかにアダムスキーは最大かつ最も興味深いUFO写真類を撮影したのだ。彼はUFOを操縦する宇宙人との会見中に、個人的にこれらの写真を撮影したと称している。
私には判断をくだす資格はないし、彼のコンタクトの説明や著書類の内容を判断することにも関心はない。ただ科学的に彼の写真額を分析する立場にあるだけである。
多くの人がその写真類を見て、ブリキカン、模型、玩具等による巧みなトリック写真だとみなしている。「ヤンキー」誌がコーヒーカン、ハブキャップ、それに3個のピンポン玉を用いて、球型のすばらしい円盤模型を作り、それを撮影して、写真入りのコンタクト・ストーリーをでっち上げた。これを読んだ一般読者がこのインチキ記事を信じたという事実は、アダムスキーの詰も同様にインチキだということを読者の心の中に立証させたことになったという。この推論が合理的なものだとすれば、私がTWAの707ファンジェット機の模型を作って、それを撮影したとすれば、このタイプのジェット機はすべて存在しなくなる、ということになる。だがTWAはそんな状態になることを心配してはいないだろう。
■ ベーカー軍曹も円盤を撮影した
さてアダムスキー問題の諸事実を調べてみよう。彼は吊り鐘型と葉巻型の一連の写真を撮影した。これと非常によく似た物体を撮影したのは、セドリック・アリンガム、ハワード・メンジール、ジョージ・ストック、ダニエル・フライ、ロバート・コウ・ガードナー、ジョージ・バン・タッセル、ポール・トレント、その他多数の人々である。したがって、この種のUFOを見たのはアダムスキーだけではない。ここで特に私はアダムスキー問題を傍証すると思われる3種の実例をあげたいと思う。
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▲1952年12月13日、パロマー・ガーデンズに超低空で飛来し、アダムスキーめがけてネガホルダー投下した円盤をその直後に助手のジェロルド・ベーカーが撮影したもの。表題の写真の円盤と同一物体である。 |
まず第一に、ジュロルド・E・ベーカー軍曹が撮影した、かなりボケた円盤写真を引用しよう。その写真は円盤の底部とおぼしき部分を示しているが、これはアダムスキー型円盤に驚くはどよく似ている。
そのボケた輪郭は大体にわかるし、実際、物体が急速に移動するのをブローニー判ボックスガメラで撮影したという事実のために、目撃そのものを立証するのに役立っている。(訳注=ブローニー判とは6×9センチ判。むかしはフィルムの感光度が低く、レンズの解像力もよくなかったために、この種の中判カメラが普及した。現在はフィルム、レンズ共に良質化したので35ミリの全盛時代となり、国産ブローニー判カメラとしては、プロ用としてホースマン、マミヤプレス、フジカGL69の3機種が出ているにすぎない。現在はブローニーフィルムも高感度となったので、もしベーカー軍曹が上の3機のどれかを使用して高速シャッターで撮影したら、すばらしく鮮明な写真が撮れたことだろう)
ベーカー軍曹のボックスカメラ(箱型カメラ)は、25分の1秒のシャッタースピードをそなえていた。したがって動く物体ならボケルだろう。(訳注=一体にアメリカ人は写真術にあまり関心を示さない。世界最高の高級カメラを駆使してフィルムを湯水のごとく使用し、"芸術写真"をジャカスカ振りまくる日本人を彼らは驚異の目で見る)
興味深いのはこれはアダムスキーがパロマー・ガーデンズで至近距離で金星型円盤を撮影した3分後の1952年12月13日午前9時30分頃であったということだ。(訳注=アダムスキーめがけて金星文字のネガホルダーを落とした円盤が、その直後にべーカ軍曹の方へ超低空で飛んで行ったのである)。
■ 傍証となったコニストン円盤
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▲ カメラをかまえたステヒーブン・ダービシャー。右はいとこのエイドリアン・マイヤー。 |
次に写真による傍証として、宇宙飛行士スコット・カーペンターが撮ったUFO写真がある。この奇妙な物体はジェミニ宇宙船の近くで目撃された。驚くほど吊り鐘型に見える。
3番目の写真は、英国コニストンの医師ダービシャー博士の息子である、当時13歳のスティーヴン・ダービシャーが撮影したものである。それは1954年2月のある朝のことだった。ランカシャー、コニストンの幼いスティーヴンは、どう仕様もない衝動にかられて自宅の裏山の丘へ登りたくなった。そこで従弟のエイドリアン・マイアーを連れて、小鳥の写真を撮るつもりで丘へ登った。小鳥の観察が彼の主な趣味だったのである。
突然エイドリアンが叫んだ。 「おい、あれを見ろ!」
太陽の方向から奇妙な銀色の丸い物体がやって来る。約100ヤード彼方の地面に降りて、盛り上がった土の向こう側へ隠れたが、数秒後にまた現れた。すると急に物体は縦になって、ヒューッという音を発しながら空中を急上昇した。これが出現中に聞こえた唯一の音だった。
調査の結果、興奮のあまりスティーヴンは25分の1秒のかわりにバルブ約1秒の露出を切ったことがわかった。 その結果、写真はボケたのである。
「その物はドームや丸窓(複数)のついた固い金属のようなもので、下部には3個のコブがあった。底の中心はもっと黒くて、円錐型のように突き出ていた。最初は3つの丸窓が見えたが、物体が少し回転して4つの窓が見えた。 上の方のキャビンドームの頂上にハッチのような物があった」
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▲1954年2月15日、イギリス・ランカシャー州のコニストンで、当時13歳のスティーブン・ダービシャーが撮影したアダムスキー型円盤。 |
このようにスティーヴンは話したが、更に説明した。物体の直径は40フィートで、銀色のガラス状の外観を呈しており、光は透過するけれども、透明ではない、金属またはプラスチックに似ていたという(彼は半透明を意味したようだ)。
最初、医師であるスティーヴンの父親は息子の話を信じなかったが、写真が現像されてから納得した。少年スティーヴンは新聞記者やUFO研究家連のインタビュー攻めにあったが、あくまでも元の体験が真実であることを主張し続けたのである。
彼の円盤の説明はアダムスキーが撮影したという円盤写真と一致するけれども、スティーヴンの両親は、彼がアダムスキーの第一著「空飛ぶ円盤は着陸した」を全然読んだこともなければ、その概要すら見たこともないという本人の言葉が本当であることを確証した。しかし彼は、 ロンドンのイラストレーテッド誌でアダムスキーの円盤写真を見たことはあると述べた。
スティーヴンが言うには、円盤には4つの丸窓があったというが、彼が見たアダムスキー撮影の円盤には3つしかなかったという。これはもと掲載用にトリミングされたのである。
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▲アダムスキー型円盤(上)とダービシャー円盤(下)とを比較したクランプによる正投影図。 |
正射影法によると、スティーヴンの見た円盤はアダムスキー円盤と同じ正確なプロポーションを持っていることを示している。両者がしめし合わせたとみるのはあまりに考えがたいので、この場合は問題外である。
セシル・B・デミルの名カメラマン、ペブ・マーレーは「アダムスキーの写真がかりにトリックだとしても、かつて見たことのない優秀なトリック写真だ。これはフーディーニの魔術に匹敵する」と指摘した。円盤についている影と地上のそれとは見事に一致しているので、トリックとは考えられないという。
英国の 「フライング・ソーサー・レビュー」誌の最近号は、アダムスキーの名声を弁護している。同誌はアダムスキーの体験を確証する多くの実例をあげているが、特に1953年10月8日、アダムスキー型円盤を目撃したというF・W・ポター氏に言及している。この特殊な目撃事件は「イーヴニング・ニューズ」紙に報道され、ポター氏はイングランド、 ノリッジのきわめて評判のよい市民で、アマチュア天文家でもあると述べてある。
「円盤・宇宙・科学」誌第11号に、ロナルド・W・J・アンスティーの記事が掲載され、その中で彼は宇宙開発に触れて、「スプートニクやアメリカの人工衛星によって発見された諸状態は、新しい知識ではない。宇宙空間で見つかった増大する放射能活動やその他の状態は、数年前にアダムスキー氏が報告している」と述べた。
アダムスキーの体験記や写真に関してはもっと深いものがあることは明白である。それらがインチキだとすれば、だれがでっちあげたのか?
個人的にアダムスキーに会った人はだれでも、彼が素朴なくだけた人で、巧妙なトリック写真を作れるような人でないことを知っている。
多数の人に同じような円盤写真を撮影させたり目撃させたりして、アダムスキーの主張を確証させるような世界的規模の陰謀を、一体だれが仕組めるだろう。
あれやこれやの疑問が解決するまでは、私の心は開いたままである。
>> 第2話へ続く |