その点では一国の最高首脳も無名の市井(しせい)人も同様であろう。若干の相違は語彙(ごい)の大小と知識の高低ぐらいのもので、その知識にしても多読カと記憶力が土台になっているにすぎない。一見して他人の性格や能力が見抜けないために、従業員の採用にあたってはテストをし経歴を調査するが、それでも信用できない場合があり、信用してもトラブルが発生したりする。地球とは油断も隙もならない疑心暗鬼の世界であるといえよう。もちろんこれは人間の世界であって、自然界ではない。
しかし「他人は信用できない」というのは「センスマインドは信用できない」という意味であって、人間の内奥に潜む「宇宙の意識」ー創造パワー・英知・生命ーを無視するわけにはいかない。
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▲在りし日のアダムスキー氏 |
自己の内部に宿る宇宙の意識を認識するのなら、当然、万人や万物に内在する意識も認識しなくてはならない。むつかしい事だが、他人の狂ったマインドに同調しないで、その人体を創造し生かしている英知あるパワーに同調するのである。そしてこれが危機を突破する最大の秘訣であると思われるのである。なぜか?
万物を創造した宇宙の意識は被創造物を豊かな美しい完成された姿に仕立て上げようとしているに違いなく、その創造波動に同調すれば自己がその方向に展開こそすれ、悪くなる筈はないからだ。如何なる逆境に置かれようとも、苦痛のどん底に陥ろうとも、常に人間には最大の味方がある。それは自己の内部に宿る宇宙の意識=iコスミック・カンシャスネス)である。
およそ大宇宙の中で自分にとってこれほど心強い支持者はない。自己のマインドを内部の宇宙の意識に同調させて、何が起ころうと自分は絶対に大丈夫だ!という強烈な信念を持ち、内奥の意識から洩らされる啓示にマインドの耳を傾けるならば、もう恐怖すべきものはない。悲痛、絶望、恐怖等は、この宇宙意識の存在にマインドが気付かない か、忘れているために発生する感情である。他人が面と向かって自分を悪しざまに罵倒しても、少しも気にならなくなる。
相手の狂ったマインドに同調しないで、相手に大声を出させる生命力に感嘆しているのであるから、こちらは腹の立ちようがない。こうなると怒気満面の相手の顔をテレビの画面を見るように客観視できるようになる。名演だなあ!と拍手を送りたくなるのである。これは相手揶揄しているのではなく、内在する宇宙の意識を意識した上での表層面に対する客観視である。その場合、自分の肉眼で見るのではなく、内部の”意識の眼″で見るような感覚を起こすのである。これは万物を見るときに常に必要である。
財布が空になり、明日の食事代の捻出が不可能になっても恐れることはない。 静座して瞑目し、内部の意識から来る声に耳を傾けるならば、次にとるべき行動の具体的な指示が来る。それは声なき声で、「こうすればよい」という直感的な印象として感じられるのである。またこの印象が容易に得られなくても心配することはない。「自分は必ず良くなる!」という断固たる信念を持ち続けて行動すれば、マインドは気付かなくても、いつのまにか自分が救われる方向に動いていることになるのだ。それは気持よく金を貸してくれる人の方へ足を向けているかまたは給料前借りで雇ってくれる仕事にありつけるような求人広告をフト見たりすることになるのである。
人間およそ如何なる事態に直面しようと、悲観や絶望は絶対に禁物である。このような言葉は筆者の辞書にはない!悲観とか絶望とかいうものは「一緒に死んでくれ」と縋りついてくる亡者の感情であって、人間を苦境におとしいれるワナである。このワナにはまってはならない。ところがこの世界にはこのような亡者が充満しているのだ。″死者の棺をかつぐ死人″が足を引っ張ろうとする。絶対に引っ張られてはならない。ということは、他人の狂ったセンスマインドに同調してはならないという意味である。
この世界では生きるために金を必要とする。これを得るためには働かなければならない。働かざる者は食うべからずという聖パウロの言葉は至言とは思えないが、とにかく労働が要求される。ここで錯覚を起こしてはいけない。我々は食わんがために働いて儲けるのであって、儲けんがために食って生きているのではない。しかしこの錯覚がまかり通って常識化し、人間の生の目的は蓄財ということになってしまった。限界のある物質の財産を目標として競うのだから、紛争の絶え間がない。少しでも貯まると欲望は果てしなく展開する。そこにつきまとうのは尽きることのない人間間のトラブルである。
どうすれはこの混乱した世界を生き伸びることができるか。実行は容易ではないが答は簡単である。「生きられる!」という確信を持つことだ。これしかない。その信念を支えるものこそ肉体内に宿って燦然と光り輝いている宇宙の意識である。これは人間を良き方向に生かそうとすれ、破壊的な推進をする箸はない。だから、まずこれに任せることだ。
読者のなかには何かの事情で悲嘆の涙にくれている人もあるだろうし、精神や肉体の苦痛に苛まれている人もあるだろう。しかしその涙と苦痛を瞬時に払拭させる奇蹟を起こすことは可能である。
まず静かな場所を求めてリラックスし四官(眼・耳・鼻・口)をコントロールして(つまり周囲の現象に惑わされないようにして)、自身の肉体と万物に宿る宇宙の意識を感覚的に知覚し、大宇宙空間との一体感を起こしながら、自分が良くなった姿のイメージを強烈に描くのである!描き終わった後は宇宙の意識と万物に感謝する。これを続ければよい。
イメージを描く方法については、たびたび本誌で紹介したが、これは重要であり、多くの成功例もあるので、ここに再度述べることにしょう。
人間にはだれしも望ましい物事があってぜひとも実現させたいと願うけれども、成功しないことが多い。なぜか?
大抵の人は金と運がなければ物事は実現しないと思い込んで、最初から諦めてかかっている。これでは実現しない。物事の実現は原因に対する結果であるから、まず原因を作ることが肝要である。
そのために必要なのは、「必ず実現する!」 という強烈な信念であるが、この「信念」 という抽象的な言葉はよく理解できているようで案外捉えがたく、理屈ではわかっても、ある目的のために把握しようとすると、もろくも崩れてしまう。つまり「信念」という概念だけの持続に終わるのである。これでは願望は実現しない。
それよりも根本的に重要なのは、"望ましい物事が、すでに実現してしまった光景をハッキリと心中に描く"ことである。たとえば自動車が一台入用になってきたとする。交通の不便その他の事情によりこれがないとどうしても生活がスムーズにゆかない。これは自分にとって不可欠の生活必需品だという状態になったけれども、一方では資金がない。喉から手が出るほど欲しいが、どうにもならない、とだれしも思う。 この"どうにもならない"ことが実は"どうにでもなる"のであり、そのための魔術的秘法が"イメージによる成就法"なのである。以下それを述べると −
静座して体をゆったりさせ、雑念を払いのけて、体内に宇宙の意識が充満し全身の細胞がそれによって生かされていると観じて、全身が大宇宙の創造主の英知あるパワーに生かされているという自覚を高めてゆく。これは頭で考えるのではなくて、全身にそのようなフィーリングを起こすのである。
ある程度、自覚が高揚したあたりで、次に心中に明瞭なイメージを描く。このときは瞑目している方がよい。自分が新しい自動車を購入して、欣喜雀躍としてハンドルを握りながら、快適なドライブを続けている光景を、テレビの画面を見るように、心の中に極力鮮明に描き、「ああ、実現した!私は嬉しい!」と大声を上げて喜んでいる自分の姿を更に描く。約5分ないし10分間描いたら満足し切って中止する。これを1日に数回実行するのである。数10万円もする高価な品を買う金がどこから出てくるのだろうか、維持費はどうなるか、というような心配は一切不要である。むしろ心配や疑念は実現を妨げるから、絶対に起こしてはいけない。そして金の出所などについても一切考えてはいけない。ただひたすらイメージを描き続ける。すると機が熟した折に突如新車(または程度良好な中古車)が入手できる機運が生じてくる。それがどのような方法かは予測できない。だれかから融資があるだろうし、友人や知人の所有事を有利な条件で譲り受ける話がポカッと出てくるかもしれない。あるいは懸賞に当選して賞品として与えられるのかもしれない。とにかくなんらかの方法で実現する。自動車ばかりではない。その他あらゆる願望に応用できるのである。
これはマーフィーなどの唱える信念の魔術に似ているが、やはり違う。なぜなら、こちらの方は宇宙の意識という至上絶対なるものにマインドを同調させた上でのイメージ描写であって、マインド自体が宇宙の創造パワーに乗っかっているのである。ひとくちに信念といっても、段階があるけれども、こちらの方は絶対的信念となる。願望を紙に書いて読みながら唱えるという方法も悪くはないが(もちろん、そんな方法を頭からパカにしてかかって、信念のシの字も持とうとしない人よりも、実行する方がはるかに得策なのだが)、こちらは内部に宿る宇宙の意識という絶対的な支持者と一体化しているのだから、イメージの実現度も高いのである。
なぜイメージを描くと実現するのか。
これは科学的には未解決だが、少なくとも強烈な想念波動を放射して、類似の波動と同調し、願望事を引き寄せると考えられるし、一方、センスマインドの内部にあるソウルマインドに青写真を焼き付けると、それが願望事の実現の方向に本人の運命を形成して、強力に推進するとも考えられるが、あまり理屈をこねないで、実例から帰納的に類推して、信じてかかる方がよい。当然あり得ることなのだ! しはしば強烈にイメージを描いて実行しながら、どうしても実現しない場合はそれなりの理由があることと解して、あとは中止した方がよい。自動車入手がイメージどおりに実現しないのは、入手してよい正当な理由があっても、イメージの描写カが弱いか、または入手しない方がよいという摂理によるものかの、いずれかである。
以上は願望を実現させるすばらしい方法だが、一般人は容易に信じない。精神の神秘的な性質について全く関心がなければ信じないのも当然だが、なによりも人体を形成して生かしている超自然的なー宇宙の意識−の自覚力がなけれは、イメージ描写の秘法を伝えても無意味だろう。
世には多種類の宗教や哲学が存在し、救いの道を説いている。どれをみても一理ありそうで、それらを信仰して実際に救われれば有難いが、うまくゆかぬ場合が多い。なぜか? 自分を救うものは自分自身なのであって、教義、"真理"の言葉、団体活動などではないにもかかわらず、そうしたものに魔術的カが潜んでいると錯覚を起こすからである。自分を救う魔力は自身の内奥に潜在するのであり、他人や外界にあるのではない。もちろん相互扶助は必要だが、それは二次的な問題で、根本的にはまず個人の全身に宿る創造パワーー宇宙の意識(コスミック・カンシャスネス)に対するマインドの自覚と同調が必要で、そこから願望達成、超能力開発等の扉が開かれるのであると思う。なおマインド宇宙の意識と同調させるのに特殊な行法や祈りなどは全く必要ない。そのフィーリングを起こせばよいのである。 |