バチカン事件を語る
しかしジョージは左手を見ていました。そこには高い入口が開いたままになっており、その入口の奥に小さな入口のついた建物があって、この入口の所に一人の男が立っていました。かなり遠くでしたが、その人が黒服を着ているのを見ましたやしかし僧服ではなく、平服でした。そこで彼は赤、自、緑色の"何か"を持っていました。イタリア色です。その"何か"が金属か絹かはわかりませんが輝いていました。その人は外交官みたいに見えました。
アダムスキーが言うんです。"Oh! There he is"(ああ、あそこにあの人がいる!そしてアダムスキーは走って行きました。その前に私たちは1時間ほどここで待っているという約束がしてあったんです。そして彼は『12時にここにいなさい』と言っていました。そのときはちょうど朝の11時でした。そのうち彼は12時きっかりにふたたび出て来ました。彼の顔は喜びに輝いているんです。そして言いました。
『私は法王に会った。ひざまずいて、法王の手にキスをしたよ。私を祝福してくださった!』
私はずいぷん驚きました。だってジョージは教会というものに決して入らないことにしていたんですから。彼は教会を恐れていました。彼にとって好ましくないものが教会にあったんです。
その夕方、一同で夕食会を開いたとき彼は小さなプラスチックのケースを開きました。その中にまた小さな箱があってそれには彫刻文字があり、一部は英語で一部は私に読めない文字で記してありました。彼はそれを開きましたが、そこには黄金の万国コインがありました。それはまだ銀行で使用されていないものです。なぜならそれは領事館が公開する1日前だったからです。それは法王の死去のために延期されました。その日は土曜日で月曜日に法王は亡くなられました。
しかしジョージは言っていました。
『法王は死にかかってはいない。食べることができないので、ずいぶん弱っているけれども、他人の言うことは正確に理解できるんだ。答えることもできるし、バラ色の頬だ。瀕死の病人ではないよ』一方、私が土曜日にイタリア語の新開を買ってみると、法王にとってすてきな日だったと書いてあるんです。法王は訪問者(複数)の来訪を受けて、頬はバラ色だったとありました」
ピリンジャック氏が英語で質問する。
「ジョージは法王に文書か何かを持って行ったんですか」
「メッセージですわ」
「メッセージ? どんなメッセージ?」
「ジョージは何も言いませんでした」
「二、三枚の文書を持って行ったんだと思うんだが−」
「私は全然見ませんでしたわ。手紙だったかもしれないけど、わかりませんわ」
「なるほど」 ここで私が尋ねた。
「彼は包み物を持っていたんですか」
「ちがうわ。それは彼のポケットに入っていました。小さいんです。包み物ではありません。だけど面白い事に、彼は法王から2つのメッセージをもらっていました。これは フルシチョフとケネディに渡すものだったんです 」
「そうですか? 渡しましたか?」とピ氏が限を丸くして開く。
「渡しましたわ。渡したと思います。しかし両方とも1年以内にやられました。だれがフルシチョフをやっつけたのか、だれにもわかりません。だれも実際には彼を攻撃できなかったはずです。そしてケネディーは暗殺されました。それは1963年の10月じゃなかったかしら」
正確には11月22日である。私はまたバチカン事件に話をもどした。
「入口の所に立っていた男はだれだったのですか」「ジョージは”特殊な人”と言っていたわ。それは宇宙人を意味するのよ」
「宇宙人!フーン」
「ジョージは翌日話してくれました。彼は秘密を洩らすのを極端に恐れていたんです。ローマの空港に彼と共にいたとき私たちはまたそのことを話したんです。すると彼は言いました。『あの人が宇宙人だということを、もう言ってもいいだろう。だって我々はすでに飛び立つ準備をしているんだから』」と言ってルウは高らかに笑う。
私は質問した。
「アダムスキーはあなたに黄金のメダルを見せたそうですが、それは純金なのですか?」
ルウが熱っばく答える。
「ええ、私は手に取ってみました。あれは24金だと思います。私は金細工人の娘でしたから、わかるんです。違いはわかります。私が18金以上だわと言ったら、ジョージが微笑して、『そう、これは24金だ』と言っていました」「18金以上ですか?」と私。
「そう、18金以上よ。スイスでは貴金属は通常18金で作られるんです。ヨーロッパは…・」「純金じゃないんですか?」とまた私が尋ねる。
「純金よ。18金はコインや貴金属に用いられるけど、それは純金と言えるんです。24金となれば、純金のパーセンテージは高くなるわ。でもドイツでは14金で沢山の貴金属を作るけど、それはやはり純金と言えます。スイスでは14金を嫌います。私たちは18金しか使いません。24金で作られた物は特別な物です。貴金属はもう24金で作られませんが、コインはときどきそれで作られます」
ある噂を否定する。 私は話題を変えた。
「アダムスキーは真実のコンタクティーではなくて、米空軍の将校が宇宙人とコンタクトしたという噂が日本にあるんですよ」
ルウは眼を丸くした。
「え? バカバカしい!」彼女は天井を向いて大声で笑う。
私は続けた。「それで、その将校が書いた体験記にアダムスキーが名を貸したというわけです」
「そんなことは信じられません!」
「いや、ただの噂ですから」と私は手を振った。
「ただの噂ですよ。そんなことは信じられないわ。みんながいろんな事を言っているのね」「多くの噂がありますよ」「そうよ、もちろん。だけど私はジョージ・アダムスキーは真実のコンタクティーだったと思うわ。そして彼はそうなる下地ができていたのよ。彼は少年の頃チベットにいたんですが、全然そのことは話しませんでした。彼は一種の足場に立っていたわけで、デスモンド・レスリーもそうでした。だから二人は共著で本を出したんです。しかしジョージはある意味で失敗したと思います」「そうですか?」とピ氏が尋ねる。
「そう、みんなが彼から離れたからですわ」
ウーンと私は唸った。ある人々が離れたのは事実だが、彼の遺志をついで牙城を守って健闘している人々もあるのだ。
続いてルウはアダムスキーの金星旅行記と土星旅行記について長々と意見を述べた。要約すると、アダムスキーのコンタクティーとしての前半期の体験、すなわち『宇宙からの訪問者』に出てくるコンタクトの体験は、まぎれもない本人の真実の体験だが金星と土星の族行記はトランス状態による心霊的なものだとしか思えないというのである。それでルウもアダムスキーを離れたのである。しかし彼女は今年8月にカリフォルニア、ビスタの米GAP本部を訪問してアリス・ウェルズやフレッド・ステックリングらに会い、フレッドの案内でパロマー・ガーデンズも訪問したというから、米GAPと全く手を切ったわけでもない。いろいろ複雑な事情があるようだが私にはよくわからない。
「デスモンド・レスリーは今何をしていますか」
「ああ、彼はイエスに関する面白い本を書きましたわ。イエスよりもむしろビラトについて多く書いてあります」 話を聞くと、どうやら推理小説風の作品を書いたらしい。
「デスモンドはすてきな人です。オスカー・ワイルドみたい。その話しぶりはとてもすばらしく、ずいぶんファンタスティックです」 ルウはデスモンド・レスリーとの会談の状況をひとしきり話した。 「彼はウィンストン・チャーチルの甥だそうですね」と私。
「そうです。家族は優秀ですわ」
「じゃ上流階級の出身ですか」
「上流階級です。私がロンドンで初めて彼に会ったとき、彼は貧乏人でした。お金がなくて、テレビやラジオ局で働いていました。しかし後に彼はアイルランドの城に帰ることができました。アイルランド政府が国家予算で美しい城の保護政策をとったからです。それで国からお金をもらって、自分の城に住めるようになったんです。そこには公園もあります。湖が3つもあって、その美しいことといったら−。私は湖を2つしか見なかったけど−。彼はそこで暮らしていますが、裕福ではありません。書物を書いて何とかやっているのだと思います。またイギリス人がどうやって宇宙人を打ち負かしたかというようなユーモラスなストーリーも書いています(笑う)。彼の頭はストーリーや機知に満ちていますわ。彼はジョージについては多くを語りません。目標を失ったのだと思います」
続いてルウはロンドンのある婦人から聞いたという面白い話をした。他愛ない内容なので省略する。とにかくアダムスキーの体験による金星の状態などは、未来において何かの結論が出るだろうが、自分は長生きできない。おまえはまだ若いから、それを知ることができるだろうという。
「ジョージは難儀な生活をすごしましたわ。マデリン・ロドファーから開いたところでは、役は疲労しきっていて、安らかに死んだということです」
ルウはハンドバッグから沢山のUFO写真を取り出した。なかには私がよく知っている写真もあるので、そのことを指摘すると、それらを除外しながら未知の写真を5〜6点私にゆずってくれた。カラーのすばらしい写真である。
やがてボーイが案内に釆たので、3人は階段を降りて地下の食堂へ入った。部屋はさほど大きくはなく、赤い布をかけた各テーブル上にローソクが一本だけ置いてあり、この光が唯一の照明である。こういう店がヨーロッパでは高級なのだ。音楽は全然流れていない。暗い室内の静寂な雰囲気はすばらしい。出された料理は魚のオイル焼きで、これがまた実にうまい。聞いてみると、レマン湖でとれる魚だという。上等なワインを飲みながら陶然として3人で語り合う。他に東洋人は全くおらず、すペて白人客ばかりである。日本人が見当たらないのに奇妙な安心感をおぼえた。この理由はあとの付記で述べよう。
録音テープが残り少なくなったので、重要な話だけをキャッチしようとして、たびたびスイッチを操作しなければならない。特にアダムスキーの話になると、あわててナイフとフォークをおいては、テープレコーダーをいじるので、少々不作法に見えたことだろうが、どうにも仕方がない。
料理店内の楽しい雑談
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▲ピリンジャック氏 |
ここでは談論風発尽きるところを知らず、UFO、政治、経済、語学等の問題を大いに語り合った。前述の如くルウは英・独・仏・西・伊の五カ国語を自在にしゃべる才女であるが、3人の談話では大体に英語で話す。それも流れるような調子である。
一体何語を母国語とするのかと呆れ顔で私が尋ねたら、バーゼルに住む彼女は低地ドイツ語を使っているのだという。彼女はこの日、バーゼルからわざわざ3時間半かけて、列車でジュネーヴヘ来てくれたのである。ピ氏はジュネーヴの市民だからフランス語を日常語とする。しかし、英語とドイツ語が達者 で、ここでは英語で話していた。語学の重要さを痛感しながら、この店の名を知りたいと思って後方の壁を見ると、『Le Bateau Ivre〔酔っぱらった船)』と表示してあるので、それをフランス語の発音で読むと二人が驚いて、なんだフランス語ができるじゃないかと言う。
いや、あの程度なら読めるが英語ほどはできないと答えると、ルウがピ氏に向かって何事かフランス語で話しかける。ピ氏も微笑してうなずきながらフランス語で答えている。私が話題になっているらしいが意味がよくわからない。もちろん悪口でないことは二人の表情から理解できる。周囲の客もすべてスイス人らしく、柔らかいフランス語の会話があちこちから響いてくる。
話は互いの個人的な問題に及んだ。外人に年齢を聞くのは失礼だと言われているが、親しくなれば尋ねても差し支えない。そこで3人が次々と年齢や過去の経歴、現在の境遇などについて語り合った。
ルウは若い頃、大学で語学を専攻したという。道理で外国語が、うまい筈だ。しかし昔のことだわ」と笑っている。
ピリンジャック氏は59歳で、小さな町工場を経営し、約10人のスイス婦人を使ってプラスチックの小物を製造しているという。2人とも日本をほめ讃え、あれだけの大戦争をやって荒廃しながら、すごい成長をとげたのはドイツと日本だけだ、大変な国だ、我々スイス人は日本人を高く評価して尊敬している等々、聞いていると単なるお世辞でもないらしい。
よほどの文化国家だと思っているのだろう。今どんな仕事をしているのかと聞くと、多年会社に務めたが退職して現在は政府の年金で暮らしているとルウが言う。むかし一度結嬉したけれども離解して、その後ずっと独身を通してきたということだった。ヨーロッパきっての女流UFO研究家として令名を馳せたこれほどの才女になると、ヘタな男と一緒に暮らす気になれないのだろうか。ちなみにルウはユーリッヒ・フォン・デニケンとも友人である。
日本語の筆記を喜ぶ
意外に思ったのは、日本人は中国人の一支族なのかと彼女が尋ねたときだ。やはり日本に対する認識不足なのか、とんでもない、日本人は純粋な民族で、中国人とは全然違う、文字だけは中国の文字を使用するが、読み方も違うし、日本語と中国語は根本的に異なる言語だと説明して、ひとつ日本語を書いてみせようと、ポケットから手帖を取り出して「今日私はジュネーヴのあるレストランでルウ・チンシュタークとピリンジャック氏に会い、夕食を共にして、たいそう楽しいひとときを過ごしました」という文章を書いて読んでみせたところ、複雑な文字が何と早く書けることか!と2人が感歎する。
この文章の意味を英訳して説明すると、氏名を表記できる音標符号(カタカナ)に興味をもったピ氏が自分の手帖を広げて、ここに日本文字で自分の名を書いてみてくれと言うので、「ロジュール・ピリンジャック」と記すと、おまえの名も書けと促すので、タテ横2通りに署名したら大喜びした。
それで私は日本語の文法について簡単に解説し、英・独・仏・西語等は大体に一人称単数が一語しかないが、日本語にはワタシ、ポク、オレ等数種類あって相手によって使い分けるのだと話すと、ピ氏が困惑したような顔をする。そんな複雑な言語がよくも使えるものだと言うから、日本人ならだれでもやっていることだ、要は馴れの問題だろうと言うと、そうだ、そうだと2人がうなずく。日本人が外人と対談中、ヘタな文化論などをやるよりも余興として日本語を書いてみせると相手は大いに喜ぷのである。
夜も更けてきた。名残り惜しいが明日は早朝に起きるので、そろそろ引き揚げねばならぬ。ボーイが持って来た勘定重きを見ると、89スイスフランで、さほど高額ではない。それで全部私が持つことにした。ピ氏がしきりに気の毒がって半額出させてくれと言ったが、丁重に断った。百フラン札を出して、残りはボーイにチップとして与えた。
夜更けの大通りを車で飛ばし、ホテルに着いたのは9時半頃だった。ピ氏と別れの挨拶を交わしたあと、ルウと2人でホテル内の食堂で少し雑談したが、騒々しいのでロビーに移り、ソファに腰かけて、再びアダムスキー問題について質問したが、ルウはかなり疲れている様子であまり話したがらない。明日はシャモニーからモンブラン周遊旅行に行くので一緒に行かないかと誘ったが、夕方、親類の家のディナーに出席する必要があるので、昼頃にはジュネーヴを発たねばならず、不可能だろうと言う。それではというわけで、いよいよ別れることにした。
ホテルを出るルウを見送りがてら、大通りの横断歩道の所まで一緒に行くと、ここでルウは別れのキスだと言って、私の左頬と右頬にそっと軽く唇をあてた。あたりにはまだ大勢の人が歩いているのだが、ルウは意に介する様子もない。彼地の流儀だろうと私も割り切った気持ちでいた。横断歩道を渡った彼女は振り向いて手を上げる。更に前方へ早足で歩いて行き駅の玄関口に着いてから再び手を振ったので私も応えた。駅舎の前を横切って遠ざかる彼女の姿を私はいつまでも見つめていた。
(完) |