物体の外観の評言に関するこうした相違は、目撃された物の客観的存在を否定するどころかそれを確証することになる。その相違は目撃者の種々の特質、すなわち職業教育、家庭的背景等によるのである。単なる主婦が家庭用品に例えたり(弁当箱、チーズ等)エンジニアーがギアーボックスのような技術的比喩を出したりするのは当然である。
懐疑派の人は目撃者によって行なわれる陳述のあいだに一致点がほとんどないと主張したがるが、(たとえば自動車事故の例のように)、ジェームズ・マクドナルド教授はきわめて賢明にいっている。「詳細点の説明は異なるだろうが、全体的性質の説明は異ならない」こうなれば2台の車の衝突の例において目撃者はまさか自分の見た物は乳母車を襲うサイだったとはいわないだろう。つまり目撃される物が空中を飛ぶレンズ状の物体である場合、目撃者の説明には一定の許容範囲があるのだ。たとえ目撃者は正確ではないにしても空を飛ぷ象を見たとはいわないだろう。
さて、エストレマドゥーラ高速道の方向に消える前に例のUFOは12名の人に見られたはかりでなく、少なくともその内の2人によって写真に撮影された。そのとき草地の上に横たわっていたガールフレンドの写真を撮っていた一人の青年は、ただカメラを上にむけて、まさに視野の中を通過していた思いがけない物体の写真を撮るにはシャッターボタンを押し続けるだけでよかった。
匿名のままのこの撮影者は翌朝ドクトル・エスケルド通りの或るDP屋へセンセインショナルな写真の沢山のネガを持って来た。これがあらかじめ電話をかけておいたインフォルマシオーネス紙の写真記者アントニオ・サン・アントニオの注意をひいたのである。ファリオルスがサン・アントニオからもらったのは5枚のネガだった。もっとあると私は見ているのだがー。
この匿名の若い技術者から6メートルばかりの所に、やはりUFOが通過するのを見た男とその妻と娘がいた。若者が写真を撮り始めたのを見てこの男もカメラを持っていたのを思い出し、急いで取りに走り、UFOをねらって撮影を始めた。しかし当然のことながら異様な光景に興奮しきった彼は最初の2枚はレンズキャップを除くのを忘れて何も写らなかった。その結果この第2の撮影者は友人や事務所の同僚からバカにされたので、バルセロナの作家マリウス・リェヘットに写真の内2枚のコピーを送ることにした。この作家は『空飛ぶ円盤の神話と実在』と題する著書に自分の住所を記して、興味ある報告や資料を持つ人は送ってくれと述べていたからである。こうしてリェヘットは"アントニオ・パルド"と署名された第二の撮影者から長い手紙を受け取ったが、その中には本人の目撃とサンタモニカ郊外におけるその後の体験の詳細な説明がしてあった。サンタモニカ郊外ではUFOが短時間の着陸をしたらしいが、これは別な話であって、いずれ伝える。
"アントニオ・パルド″はリェヘット宛に長い手紙を書いたばかりでなく、その後まもなくマドリードからリェヘットに電話をかけて長話をした。ところがわるいことに実にぼんやりした教授であるらしく、リェヘットは相手の住所を聞くのを忘れてしまい封筒の裏側に記してあるだろうと思ったが、手紙には発信人の名はなかった。それで重要なてがかりは失われたのである。 ファリオルスと私は相手を探し出そうと八方手をつくしたけれども、すべてむなしい結果に終わった。マドリードの電話帳にはアントニオ・パルドという名が沢山出ている。われわれはそのすべてに電話をかけたがだめだった。
さてリェヘット宛の手紙で"アントニオ・パルド″はUFOについて次のようなきわめて興味深い詳細を述べている。
「私たち一同はいつものようにお茶を飲むためにすわっていました、妻は編み物をしていて、一同は松の木から数メートルの草地の上に腰をおろしていました。ほど遠からぬ所にたぶん6ないし10家族がいて、みなたしかにサン・ホセ・デ・ヴァルデラスから来た者ばかりでした。まだ8時半をすぎてはいません。まだ明るくて、9時頓に義兄妹と食事をするために帰宅する習慣でした。そのとき母親と話していた小さな娘が城の近くを飛びまわっていた物を見つけて叫んだのです。双眼鏡を持って来なかったのは残念でしたが、その構造はかなりはっきりと見えました。たしかに飛行機ではありません。するとそれはゆりイスのように前後に薄れましたが、前方へ進行する気配は全然ありません。すると円形の台部を水平にして静止しました。
次にそれは急速に右方向に動きましたーあとで述べるように最後に立ち去った時ほど急速ではありませんがー。そして更に静止してふたたび前後にゆっくりと揺れ始めました。
一同はよく見ようとして立ち上がりました。付近にいる人たちは私たちよりも先にそれを見ていました。彼らもみな立ち上がっていて、多くの人が両手をかざして沈み始めた太陽の光を避けようとしていたからです。
私たちがいた場所からその物体を完全に見ることができて、日光はさほど邪魔にはなりません。物体を見ていたときの眺望では形が卵形に見えましたが、目撃時は妻にも私にも大きな直径の円筒のように見え、あまり高くなく、それの赤道部に相似の円盤形のものが電なってくっついているようでした。しかし娘はそれらしい円盤形のフチを全然見ておらず、チーズを入れるあのよく知られた丸い摘みたいだったというだけです。写真を見れば妻と私の説明がさほど間違っていないことがわかります。
私にはその物体の上部に鏡板またはガラスみたいな輝くものがあるように思われましたが、所持する7枚の写真の内上部を示す唯一の写真は大きく引き伸ばしてもこの特殊な部分を完全に示してはいません。この頂上部について私と同様に証言した別な証人も写真のその部分を認め得ないようです。
その奇妙な機械の行動はヘリコプターのそれに似ているように思われました。もちろんヘリコプターではなかったかという疑惑は全然ありませんがー。
というのはかなりの時間(私たちはうろたえていたため時間を計りませんし、他の人も計らなかったのですが、約12分問だったと思われます)物体は城の近くに"動かないで静止して"とどまっていたからです。
始めの2、3分間私たちは全く夢中になりましたので、カメラを使用することさえ思いつきませんでした。ひょいとふり返るとうしろでカメラを持った男が物体にそれをむけているので、私も写そうと思いついたのです。まだ9枚撮る余裕はありましたが2枚はだめでした。あわてたために愚かにもレンズのキャップを除くという初歩的なことを忘れたからです。
その宇宙船−またはUFOまたは何であるにしてもーは突然前後の揺れをやめて下部を水平にしたまま静止し、続いて計りしれないスピードで上方へ飛び立ちました。それは全く驚くべきスピードでしたから、私たちは呆然となったほどです。上昇時の写真は撮ることができません。妻と娘と私は驚いて互いに顔を見つめ合っていたのをおぼえています。円盤が急上昇するにつれてその大きさは見かけ上変化してゆきましたが、それは自然の遠近法効果によるものと思います。最初は飛行機よりも大きく見えた見かけ上のサイズは、青空の中でどぎつく光る淡黄色の硬貨の大きさになってゆき、やがてマドリードの方へ消えてゆきました。
ここであなたの著書に出ている説明に訂正を加えたいと思います。
物体の色はオレンジでした。ただし遠ざかるとすぐにひどくぼんやりとして赤味が少なくなったようでした。これは太陽の反射によるというあなたの説に同意できません。というのは、実際太陽は沈みかけていましたが、物体の太陽にむかっている側には当然金色の色帯ができますが、それにもかかわらず私たち目撃者全員に物体の周囲全体に一様の色またはきらめきが見えたからです。
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▲第5図 |
▲第6図 |
ちょうどネオンランプのようでした。もし夜間だったら物体自体の光ではっきりと見えたと思います。なぜなら当時まだ日中の光がかなりあったにもかかわらず、物体の光輝による輪郭がはっきり浮き出ていたからです。あなたが会ったかもしれない他の目撃者の言葉もこのことを確証するでしょう。
一方、物体の"腹"つまり底部に見られた特殊なマークについて私たちは長時間議論したことをお伝えします。私は次のようなものを見ました(第5図)。しかるに妻と娘は次のような形だったと主張します(第6図)。
写真が現像されるまでこの点に関する私たちの疑惑は晴れませんでしたが、それでわかるのは、人間の見た映像がいかに容易にゆがめられるかということ、客観的調査をするのに必要な充分な時間がなければ物体について軽率な判断をくだすのがいかに容易であるかということです。このことは私たち家族と、近くにいて物体を見た他の人々とのあいだに下部のマークの件で激しい講論が行なわれたことを物語ります。たとえば目撃した少年は物体の周辺全体にわたっていくつかの窓をはっきり見たといいます。写真をごらんになれば(すでに引き伸ばしました)どこにもそんな窓はないことがわかるでしょう。
私たちのほとんどすべてが一致した事がありました。それは、かの物体がテスト飛行中の特殊な型の飛行機にちがいないということです。
その夜私たちがマドリードへ帰るや否や私は空港へ電話しました。するとクァトロ・ヴィエントスとバラハスの両空港にもそのような特徴をそなえた飛行残は全然存在しないということで、そのときは全く驚きました。空港には多数の人や新聞社から照会の電話がかかってきたということで、その事件を上司に報告したけれども上司もそのエピソードを知らなかったそうです。リェヘット氏よ。空港側のこの声明と2日後に私が空港の2名の係員から聞いた話のあいだに矛盾があることにご注意下さい。このことは次に述べます。
私はABC新聞の編集部に電話をかけましたが、そこもやはり問題に対して何の説明もできませんでした。
私たちは親友や近所の人たちと夕食後に各自の家に集まる習慣があります。あの夜も集まって事件の討論をやりました。友人たちは(私たちが事件について一同に話した説明から)それはただのヘリコプターだったのだと大ざっぱにいいます。その議論はまことに活発でしたから、私たちはカメラ(F2・8付バセッテ)からフィルムを取り出してフィルムの一部は未露出なのに現像することにしました。友人の長男である問題の少年はかつて写真術に熱中していましたし、立派な引伸機を持っています。それで私はあの夕方繰った写真から2枚のプリント(注=ネガのことか?)を少年に送りました。私は現像済の7枚のネガを持っています.少年に送ったプリントは最も鮮明なもので、他のものは露出不足です。その結果私は各ネガから作られた非常に立派な引伸写真を入手できました。そのいずれも単独にUFOを示していますが、機体には【王】(注:書体がないので一番似ている王という漢字を使用)のマーク以外に特殊な物は認められませんでした。
翌日の夕方(6月2日)各種の夕刊紙はUFOの記事を載せました。同じ日の朝、仕事の同僚源とUFOについて2度日の議論をやりましたが、皮肉な言葉でで私の説明に応酬しましたので、これ以上嘲笑をこうむらないように、今後はだれにも話すまい、そして事件に関する徹底的な証拠を集めようと決心しました。
或る新聞は目撃した者は(沢山いたのですが)幻を見たのだと皮肉に述べていました。リェヘット氏よ、この種の状況下にあれは他人の笑い草の的になるのを避けるために沈黙を守らざるを得なくなる社会的理由があることはおわかりでしょう」
この目撃事件が発生して1年後にラファエル・ファリオルスとその共同研究者アントニオ・リョベットは平面地形や高度等を示す現場の地勢の極端に骨の折れる地形学的調査を行ない、最初の撮影者による5枚の写真と"アントニオ・パルド"の撮った2枚の写真を参考に出来事の発生順序に見取り図の作製にとりかかった。
この結果はもはや驚くべきものではなかった。というのはサン・ホセ・デ・ヴァルデス上空にUFOが実際に出現したことを全く完全に確認したからだ。使用された順序通りの写真はUFOが通ったルートの正確な再現に役立った。もしこれがインチキならその犯人は写真術の名人であるのみならず"洗脳"の大家であるにちがいない。多数の人にその地域の上空を写真に見られるような物が飛びまわったと確信させたのだからー。
UFO目撃者としてサン・ホセ・デ・ヴァルデス城内に設立されている修道院の娘たちに言及する必要がある。なぜなら学院のこの修道女たちがファリオルスとリュベットに次のように話したからだ。娘たちは目撃時に戸外で遊んでいたので、目撃のためにその後まる2週間というものはほとんど授業にならなかったという。円盤を見た娘たちの話でひき起こされた騒ぎはかくも大きかったのである。
>>第3話へ続く
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