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 肉体の意識の変換 第1部

ニューズレター No.38 昭和44年3月30日発行 より 

人間は各種の径路を通じてより高度な意識の状態に自分を高揚させることができる。われわれが想念を変換させるならば肉体をも変換させることになる。なぜなら想念が肉体を支配するからである。想念は心の中ばかりでなく肉体の中にもある。それで想念のみが肉体を変化させるのである。人間が心中に抱く想念は宇宙のなかから自分の方へ類似の状態を引き寄せる。われわれが意識を高揚させようとするならば、すでに役立ってしまった過去の各種の状態のすべてを忘れなければならない。

 われわれは無限の存在という高度な理解に高まらねばならない。高度な想念は肉体中のあらゆる悪しき状態を排除する。高度な想念は永遠の平安のなかに存在する。この平安はわれわれが自分を理解し始めるにつれてやってくる。それ以外の方法で来ることはない)調和に到達するまでにわれわれは自分を理解しなければならない。人間の意識は巨大な変庄器のようなもので、自分の望み通りの電力を取り入れて、それを肉体の一部から別な部分へ流して肉体を変化させることができるのである。

 われわれが想念の中の”意識的な力”について意識するならば、自分の意織によって完全に肉体を支配することができるのである。われわれの意識が正しく機能を果たしていなければ、あらゆる治療法を試みても何にもならないことがある。それで想念の意識的なカを理解することが如何に必要であるかがわかるのである。われわれの意識が”父の意識”と完全に一致しているとき、それは無限となる。人間は”父”のコピーであるからだ。自分の何たるかを知ったならば、次に自分の望む物または状態をしっかりと心に描いて、望まない想念を排除しなけれはならない。すると自分の望む物がそのとき正しいものであるならば、必ずその結果を得るのである。しかし人間は永遠の法則の働きについて信念と確信を持たねはならない。

 次のような例をあげてみよう。かりに一人の人間が或る状態を高度な、またはより良き状態に変えようとするのなら、本人はまず想念をより高度な状態に変えて、「よき状態が来るのだ」という信念を持たねばならぬ。本人が肉体の意識中に(注:肉体の意識というのはいわゆる普通の”心”)ちょつとでも疑惑を起こすならば、望む状態の実現を妨げることになる。カラシ種ほどの小さな疑惑でも実現を妨げるが、何の疑惑も持たないでカラシ種ほどの大きさの信念がありさえすれば、如何なる状態をも達成できるのである。人間は高揚させた意識的な想念のなかに確信を持たねはならない。すると高度な状態が起こるのである。確信に欠けるならば本人は肉体意識を高揚させるかわりに低下させるのである。

 人間はより高度なより良き物事を望むことによってのみ、野蛮な状態から現在の文明へ進歩してきたが、必ずそうなるという絶対的な確信を持つ必要があった。そしてその確信が人間を成功へ導いたのである。
 昔の純な状態の人間は肉体中にあるこの意識的な想念のカを現代の文明人よりもよく理解した。彼らは神の摂理をおそらく極端に信じたであろう。だからときには自分自身を傷つけたのだ。これは”父”が人間に極端主義者になることを望まぬからである。

  現今は人間が創造主を信じないために人間はあらゆる物やあらゆる人間を利用する。昔の純な人は一定期間内に必要な物だけを持とうとするが、現代人は必要以上に物を貯えようとし、同胞の必要物について考慮を払おうとしない。この状態は人間の肉体の心を信念から無信念へ変えたために生じたのである。昔の純な人は、われわれが現代に持つような知識を持たなかったかもしれないが、もっと公正であった。彼らは自分の想念をコントロールすることができたが、現代人はコントロールのカを持たない強力な肉体意識を獲得した。そのために性質を低下せしめたのである。

  自分が想念の支配者になるかわりに想念を支配者にさせてしまい、意識的な想念の力を自分のものとする方法を知らない事実に気づき始めている。想念はカンシャクを起こして暴れまわり、人間を混乱させているので、人間は確信の状態で生きるかわりに恐怖の状態で生きている。今日人間があらゆる人を恐れるのは、自分が他人を傷つけ得るほどの力があるので他人も自分を傷つけるのに同じカを用いはしないかと恐れるからである。もし人間が自分のとってきたあらゆる段階を分析することによって自分の肉体の意識を変えることに時間をかけるならば、現在は自分の想念と自分に関するあらゆる物を持っているだろう。

  このようにして人間や主体性は成長するのである。自分のカはこれまでのようには自分をおびやかさなくなるだろう。なぜなら想念の法則を知り、それを意識的に正しく応用する方法を知るからである。われわれは電気において類似の原理を見出す。電気はその扱いを誤るならば人を殺すが、正しく扱うならば役立つのである。意識的な想念の場合も同様である。それは人を殺すほどに強力である。医師はその状態をショックと呼んでいる。

 われわれがこの力を用いる方法を知るとき、それはわれわれの召使いとなる。想念の悪用は自分を破壊するが、善用は調和ある状態をもたらす。永続的な喜びはわれわれが肉体の意識の主人公になることを知るときにのみやって来るからだ。人間は一つの目的のために自由意志を与えられてきた。それは人間を導こうとして内在する或る高度な意志に人間の意志を服従せしめることによって人間の意志を支配することである。われらの”父”は人間が他人や他の物に支配されることを望んではいない。”父”は人間に力を与え、人間がその使用法を知るように仕向けた。いわゆる心なるものが正しい支配のもとにあるならば、正しい場所で正しい時に正しい草をやり、人類の福利のために働く。これはより高度な意志の現われである。この意識的な知覚力が手綱を取り、肉体の意識に支配されないで逆にそれを導く。そのとき恐怖が消滅するからである。

 暗い小道にいる人は恐れて、きわめて注意深く自分の足取りを警戒する。前方にあるものが見えないからだけ肉体の心は暗黒中でも働いていて、何物かが進行を妨げたり傷つけたりしないかと恐れながら絶えず自分の歩みを気づかう。肉体の意識で機能を果たしている人間は前方の光が見えない。結局本人が放射する恐怖念波のために動物が襲ったりするのである。

 人間はこれまでに指導者であるべきはずの神の手綱を放してきて、今や深い悲痛と苦悩にさいなまれているが、結局は何かが間違っているということに目覚め、援助を求めて宇宙をのぞき始めている。そのとき人間は理解を求めて神へ眼を転じる。彼は”父”のもとへ帰ってゆく放蕩息子である。彼はがむしゃらに世の中へ出られると思っていて、勝手気ままに振舞ったが、ついに自分の肉体の意志によって生活の諸状態をコントロールすることはできないことに気づいた。人間がすすんで前進するならば全英知の一部を共有できるし、真に望む物を得ることができるのである。この歩みを続けるならば、自分の一体感を通じて低い諸要素を支配でき、個人の欲望のためよりも全体にたいして奉仕できることがわかるのである。真の知誠もないのに人間は自分に向けられていない諸要素を取り入れた。人間をトラブルのなかに引き入れるのは個人的な意識である。その意識が悪状態を引きよせるからだ。

 人間が手ひどく傷つくときに神すなわち生命の実体の方を見始める。人間がこのようなトラブルにはまり込んだとき誤った選択物を捨てねばならぬのにときとして全力を出す必要が起こる。

 人間はどんな方法で自分自身を発見するのか? それは人間が生命の実体を知り、真の自我を知るとき、−歩進んで新しい衣装を着ることになり、「父の意志が行なわれる」と言明できることを知るのである。これを行なうとき、誤った諸状態は消滅し、悲痛はみずから去って行くのである。

 われわれがこの知識と一体化するには、古い思想を投げ捨てて生命の方へ向かって新しい態度を取らねばならぬ。換言すればわれわれは誤った概念を洗い流さねばならない。しかし小さな幼児が自分で自分のからだを洗い流すことができないのと同様に、肉体の意識もみずからの力で誤った概念を洗い流すことはできない。

 幼児は母親にからだを流してもらう必要があるが、同様に人間の非個人的な意識こそ個人の心を洗ってくれる母親なのである。これが人間にとって唯一の救いである。

>>第2部へ続く

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