リーラクセイシュンに関しては大きな誤解があるようです。一般にそれは不活動の状態だと考えられていて、多数の人が「自分は常に多忙だからリラックスする時間がない」と言ったりします。
しかしリーラクセイシュンが真に理解されるならば、いわゆる休息時よりも仕事をしているときのほうが、より大きなリーラクセイシュンになることがわかるでしょう。なぜなら宇宙の法則は目的のある行為を要求しており、また人間が自分の仕事に大きな関心を持つならば、行為を通じて現象化しようとしているエネルギーの自由な表現にたいして人間は径路になるからです。言いかえれば、何かの仕事に我を忘れている人は、宇宙のカにたいして自分の普通の肉体的抵抗を起こすことを忘れてしまい、意識という大きなカにたいして自動的に自分を解放するからです。
リーラクセイシュンによってこそ、エネルギーと英知とを溢れ出させている創造の大貯蔵庫にたいしてわれわれはドアーを開くのです。リーラクセイシュンは調和した無抵抗の行為の領域における再建の過程であって、大師の次の言葉を再現する真の方法です。
「わしの意志ではなくて父の意志が行なわれるのじゃ」
リーラクセイシュンは不活動ではありません! きわめてもの静かな人がリラックスしているとは限りません。人は一種の昏睡状態に入ることもできてそれをリーラクセイシュンと解釈するかもしれませんが、かかる状態は、肉体細胞の振動を低下きせて細胞を一時的な昏睡状態にするところの、平衡状態の喪失によって起こる結果にほかなりません。これは実は破壊的な状態ですかから積極的に避ける必要があります。リーラクセイシュンとは心中に真空状態を生じることや行為の停止を意味するものではありません。それは肉体の意識が宇宙の大活動に自らを解放することなのであって、ゆえに肉体のどの部分にも昏睡の状態を起こすはずはないし、起こすこともできないのです。もし人が自分の肉体中で起こっているより精緻なより激しい活動に気付かないならば、本人は真のリーラクセイシュンに入ったのではなくて、単に無関心の状態になっているにすぎません。
人は自己催眠によって肉体を静めることはできますが、これはリーラクセイシュンではありません。というのはこれは肉体を構成する諸要素の自由な活動を破壊するからです肉体は微少な細胞から出来ていて、各細胞の中には無限のエネルギーを持つスパーク(生気)がひそんでいます。スパーク(生気)すなわち核は肉体の刺激的なカですが、この中心の力を取り巻く分子群が概して緊張の状態に保たれいるために内部のカの放出を阻止する障壁となっていて、そのため中心のカに左右されません。ところがこの緊張状態が解かれると、各細胞を構成している外側の分子が中心のエネルギ−にたいして受容的となり、そのエネルギーの活動によって高振動化するのです。
リーラクセイシュンは細胞間の抵抗をなくすことによって肉体内部の摩擦を減少させます。例をあげますと、きわめて小さな鉢の中に多数の魚を入れてやりますと、互いに遠避け得られない接触のために絶えまのない摩擦が起こり、ウヨウヨした状態によって各魚の活動は不活発となります。
しかしこの魚たちをもと大きな鉢に入れてやりますと互いに衝突することもなく気ままに泳ぎまわります。この場合は魚たちが持っているエネルギーを放出するべき正しい状態に置かれたわけです。肉体の細胞もこれと同じです。そして細抱をより大きな自由な状態にするのは”肉体の心”です。
一般人は自分が如何に利己心によって完全に束縛されているかという事実に気付いていません。緊張というものは全く人間的状態です。所有欲、食欲、恐怖、野心などこれらすべてが肉体内に一種の強情な状態を作ります。きわめて所有欲の強い性格の人にとってはリーラクセイシュンは最大の難事です。というのはリーラクセイシュンは解放と非抵抗から成り立っているからです。それは生物の宇宙的な自然な状態であって、常に保たれねばならないものであり、利己的な欲望にふけっている人は達成できない”状態”です。
宇宙的な人間は平静さとびリーラクセイシュンの状態のなかに生きています。そのような人は”あなたのもの”とか”私のもの”という区別を知らないからです。本人は完全に”父” によって導かれていて、そのあらゆる想念は純粋な状態にありながら自由に完全に遂行されます。人間があらゆる種類の苦痛、病気をひき起こすような緊張状態に入るのは、自由な生命活動にたいして抵抗を起こすときです。
リーラクセイシュンとは柔軟な受容的な状態で、それ意識という力の方へ人間を解放するものであって、人間はそのカへ近づけばよいのです。生命とエネルギーは無限ですが、人間は自分が受け入れようとするだけの生命とエネルギーしか持っていません。
人間がそれらを表わすことは可能ですけれども、そうしようと思えばそれらにたいして無抵抗にならねばなりません。人間は個人的なエゴを高めることによって行動の道を失っています。あらゆる現象は個人的なエゴの努力によってもたらされるのだという習慣を作り上げています。
完全に展開させることができるはずの諸状態を無理やりに展開させようとして不必要に自分を疲れさせています。肉体に優越性をおいているために多くのエネルギーを労費しています。無抵抗の道とはカの道であり、おだやかさのなかにこそ摩擦のなかよりも激しい活動があるということを肉体の心が理解するのは困難です。人間は粗雑な振動の中で生きることが普通になっているために、より精緻な静かなおだやかな状態の中に存在する活力を自覚することができません。しかし無抵抗の受容的な態度のなかに生きる人は真の幸福の道を見出しています。本人は疲れや苦痛や失望を知らないからです。このような人の場合あらゆる活動は容易に遂行され、完全な結果をもたらすのです。
何かの大仕事を達成するために人間は歯を食いしばって奮闘努力しなければいけないとか、個人的に刻苦勉励しなければならないというような考え方は誤っています。
輝かしい業槙をあげる人は自己の行動のすべてをおだやかな状態に保っている人であって、人間はカと英知の放出者ではなく、それらを現わすところの径路にすぎないということを知っている人です。その径路たる人間がカと英知の働きにたいして解放的であればあるほど、その働きも大きくなるのです。
人間の生活に大いなる知恵をもたらすのは、”個人の意志の行使”ではなくて、神の前に個人の意志を捨ててしまうことによります。
われわれはただ”自我”という壁を取り除きさえすればよいのです。そうすれば愛と理解の大波が自分の中に流れ込むことになり、やがて平安な活気と静穏なカの中にひたるようになります。
人間の最大の栄光はリーラクセイシュンによってもたらされます。といのはこれによってこそ人間は”宙の意識”という光輝あるものと一体化するからです。リーラクセイシュンは”力”に到達するための大通りです。解放こそ至福に至る道なのです。平安とカとは並行しなけれはなりません。そして人間が意識的な生長という建設的な前進を続けようとするならば、誠実さと行動とが一体化する必要があります。 |